31.彼女の事情
「私は、施設で育った。お前と同じで、親の顔も知らない」
歯を磨いて布団に入ると、寄せ合った隣の布団の中で、結衣は話し始めた。俺はだいぶ眠気がきざしていたから、ちゃんと聞くから日を改めてもらった方がと申し出たが、途中で眠ってしまうくらいが丁度いい、と言って続けた。
「しかし、自分が不幸だとは思わない。施設の先生は、優しくて親切だったし、友だちも、みんなちょっとずつ、荒れたり、塞いだりはしていたが、助け合ってやっていけた」
「そうか。お前は素直でいいヤツだから、きっと誰かに愛されたり、傷付いたりした経験が、ちゃんとあるヤツだと思っていた」
俺がそう言うと、結衣は少しの間沈黙して、また話し始めた。
「私が育ったその施設というのが、実は、スパイ養成機関だった」
俺は閉じていた目を開いて、結衣の方を向いたが、布団に隠れて彼女の表情は見えなかった。
「お前の話は、時々落差が激しくて、ピントが合わなくなる」
「事実そうだったから……」
「ああ、そうだよな。お前はあったことをただ言ってるだけだ。悪かった」
「いや、いいんだ。とにかくな、その養成機関は、今私達が所属している『組織』の教育機関で、そこでは、算数だとか、理科、社会とかいった授業と同じように、ピッキングとか、変装とか、潜入とかいった授業があった」
俺はそういう訓練を想像した。
「子どもには楽しそうだ」
「そうなんだ。私は夢中になった。スパイ映画とかもたくさん観てな。とにかくスパイに憧れた」
「そうか。お前は自分の夢を叶えて、立派だ」
「いや、私は、全然立派なスパイじゃない。失敗してばかりだ。養成機関ではな、私は、一番の落ちこぼれだったんだ。
だけど、みんなは私を見捨てなかった。模擬演習で助けてくれたり、鍵開けの練習に付き合ってくれたり、泣いてる時に励ましてたりしてくれた」
「お前が、一生懸命やってたからだな。そういうのは人に伝わる。一生懸命やってるヤツは、誰かが助けてくれる」
「でもな、卒業の時、私には就職先が見つからなかった。みんな、外務省や防衛省の特務機関だとか、国家公安委員会、民間企業の機密部署なんかに就職していく。自分でフリーの道を選ぶ人もいたが、私の場合、雇ってくれるところが無いから、フリーでやっていくしかなかった」
俺は、『へー、スパイ養成機関の就職ってそういう感じなのかー』というのと、『結衣、お前は苦労したんだなー』というのとで、自分の態度がうまく定められなかったが、それでも、頭に浮かんだことをそのまま言った。
「お前のすごいところは、自分が上手く出来てないと思っても、諦めずに頑張り続けられるところだ。きっと、誰にでもできることじゃない」
「そんなことはない。お前と会った時な、私は本当に、もうくじけそうだったんだ。養成機関を卒業するとき、それまでの仲間の連絡先は、スパイ同士の癒着を防ぐため、徹底的に消去される。もう慰めてくれる人はいないんだと心細くなっていた時、『組織』の先輩が私を励ましてくれた。だが、その先輩もトんでしまった」
「そんな時に、俺が現れたわけか。もっとも、俺の視点から言えば、現れたのはお前の方だが」
「私は、誰かに助けてもらってばかりだった。私はそれほど真剣に神様を信じているわけではないが、そういう誰かが私を見ていて、『甘えてばかりいないで人の役に立て』と言っているような気がした。
変な育ち方をした私の目から見ても、お前はだいぶ変わり者だから、もしかしたら、神様みたいな人が、助けられてばかりじゃなくて、お互いに助け合える人と、出会わせてくれたように思えるんだ」
俺は手を伸ばして、結衣の髪をなでた。どうしてか分からないが、そうしたいと思った。
「俺はな、実は、高校を卒業してから、少しだけ、正社員だったことがある。不動産屋の営業だ。その会社は、きっとその事業を通して、多くの人の助けになっていたと思う。
だが、時々、本当は必要としていない人を説得して、アパートを建てさせることが求められた。本当に必要な人に売るだけでは、会社が求める売上を確保出来ないからだ」
「それで、辞めたのか」
「ああ。会社は、俺がそれを上手くやると期待して、給料をくれていた。高卒の給料にしては、結構高い方だったと思う。だが、俺は会社が俺に寄せてくれたそういう好意と、客にとって必要のないものを売るということを、上手く自分の中で消化できなかった」
「何か、お前らしいな」
「俺は、そういうところが、少し潔癖なんだと思う。それから仕事を転々としたが、何をやっても、自分の作ってる物や提供してるサービスが、本当に必要な人に必要な分だけ届いているという気がしなくて、上手くいかなかった」
「だから、バイトで食いつないでたのか」
「ああ。俺の替えはいくらでもいるという環境の方が、俺は気楽だったしな」
「どうして今、その話を?」
「いや、何でだろう。多分、俺も大人としてはダメダメだということを言いたかった。俺も多分、人の役に立ちたかったし、支え合う誰かが欲しかったんだと思う。それがお前だったことが、俺は嬉しい」
眠気がだいぶ深くなってきて、俺はもう、自分が起きているのか眠っているのか曖昧だった。
その中で、結衣の声がおぼろげに聞こえた。「泰山、お前、『そういう欲が結構強い方だ』と言ったな……」
俺は「あぁ……」と言ったつもりだが、果たしてそれが声になったかはよく分からない。
深い眠りの底に沈んでいく途中、「私も、そうだぞ……結構、そういう欲は、あるぞ……」と聞こえた気がした。
頬に柔らかく、湿った感触があって、不思議とそれが心地よかったが、俺はそれきり目を開くことができなかった。




