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3.スパイの住処

 彼女の話を総合すると、おおむねこういうことだ。


 彼女には、食品偽装の情報を入手すべく、ある企業への潜入任務が与えられていた。


 彼女は当初、空調ダクトからの潜入を計画、スパイのスーツの代わりにウニクロのウォームテックを着て現地に赴いたが、ダクトが人の通れるようなサイズではないことを知り計画は破綻、別の侵入経路を探して辺りをうろついているところを、ポメラニアンに吠えられ逃げ出した。


 ポメラニアンから逃げ惑い、汗をかけばかくほどウォームテックは発熱する。いよいよたまらなくなった彼女は俺の部屋に転がり込んだ。


 そして汗で貼りつくウォームテックと格闘している最中に、バイトから帰って来た俺と出くわしたというわけだ。




 陽が沈んで、目の前の国道からやたらとトラックの走る音が気になり出したころ、女はテレビのニュース番組を退屈そうに眺めていた。


 俺はおや? と思った。この女、帰るつもりがないのではないか?


 これは、世に言う『押せばイケる』という状態なのだろうか。経験がないので分からない。


「ところで、今さらだが、お前、名前は?」と俺は尋ねた。


 女は、「うーん、スパイだからなあ。言っていいもんか……」などと悩みながら「とりあえず、『オードリー・ヘプバーン』ってことにしとくか?」と言う。


 それはいくらなんでも図々しいのではないかと思ったが、「思い切った偽名だ」と俺がうなずくと、彼女はかえって恥ずかしくなったようでそれを撤回した。


「うそうそ。今のなし。結衣(ゆい)だ。青砥(あおと) 結衣。本名だ。お前相手に嘘をつくと、なぜかとても悪いことをしたような気になる」


「そうか、結衣。お前、帰らなくていいのか?」


 すると、結衣はまた悲しそうにうつむいた。


「実は、帰るところが、なくなってしまった」


 俺は天井を眺めて想像した。どういう状況なのだろう。実はこの状況も最初からよく分からなかったが、「帰るところがなくなる」というのはそれに輪をかけて分からない。


『ここにいたい』でも『帰りたくない』でもなく、『帰るところがなくなってしまった』。俺はうーんと唸った。


「一体、どうして」


「先輩が、トんでしまったんだ」


「トぶ?」


「そう。仕事を放棄して逃げ出すことを、私たちの業界ではそう言う。私は、先輩の部屋に居候(いそうろう)していた。だが、先輩がトんでしまったことで、その部屋に帰れなくなった」


「仕組みがよく分からないな。つまり、社員寮みたいなことか?」


「それに近い。任務ポイントが高ければそれに応じて良い部屋に住める。私は任務ポイントが低いけど、先輩に可愛がってもらっていたから、一緒に住ませてもらっていたんだ」


「じゃあ、お前は自分の、任務ポイント? で住める部屋に住めばいい」


「組織に申請しなくちゃいけなくて、申請が通るまでに少し時間がかかる。そして、私の任務ポイントで住める部屋というのがまた……」と彼女は言葉を詰まらせた。


「すごく、ボロい?」


「いや、知らないおじさんと同室だ」


「なぜ」


「組織は、銀行口座や携帯電話の架空名義を作るために、身元の割れないホームレスのおじさんに部屋を提供している。私のような底辺スパイは、わざわざ部屋を用意してやる価値もないということだろう。だが、さすがにそれは可哀想だというので、先輩スパイが、新人スパイを自分の部屋に住ませてやるというのが、黙認されている」


「だが、その先輩がトんでしまった」


「そう」


「ちなみに、その先輩っていうのは、身体中の関節を外せる人か?」


「そう、その先輩だ」


「そんなすごい人が、なぜ」


「スパイというのは辛い仕事だからな。裏切りとかもよくあるというし、人の嫌な部分を見続けて、この仕事が嫌になってしまう人も多い。もしかしたら、すごいスパイほど、人の嫌な部分をより多く見ることになるのかも。どんな仕事も辛いものだから、我慢しなくちゃいけないと私は思っているが」


「そうか。お前は立派だな。ちなみに、普通の賃貸に住むのじゃダメなのか?」


「そのために、お金を貯めようとしていたんだが、なかなか上手くいかなくて」


「なるほど」と俺は深く納得した。話を聞く限り、他の任務もあまり上手くはいっていなさそうに思える。


「そういうワケで、私には、お金も、住むところも、スパイの才能も、何もない」


「まあ、元気を出せ。世の中には働いている人がたくさんいるが、バスの運転手やスーパーの店員だって、運転手や店員の才能がすごくあるというわけではないと思うぞ。だが、みんな立派に自分の仕事をやっている。

 それはそうと、困ったのは、金と住むところだな。この部屋が、もう少し広くて、そしてせめて俺が女だったら、次の部屋が決まるまでお前を住ませてやってもよかったが……」


 女は俺が悩みながらそう言うのを聞くと、ふふっと笑った。


「お前は、本当に変わった奴だ。普通、自分の部屋に勝手に上がり込んだ女に、ここまで親身になる奴はいないぞ」


「そうか? まあ、俺はばあちゃんに、『人には親切にしろ』といつも言われていたからな。ただ、俺も金がないし、住んでるところもご覧の通りだ。

 ところでお前、その失敗した任務というのは、もう期限が過ぎてるのか?」と俺は尋ねた。


 スパイの報酬というのがどれほどのものか知らないが、それを達成出来れば、取り敢えず彼女の金の問題は解決するのではないか。


「明日の朝までだ」


「まだ時間があるじゃないか」


「だが、ダクトからは侵入出来なかったし……」


「何か別に方法はないのか? あまり素人が口を出すのもなんだが、そもそも忍び込むなら昼間より夜の方がいいように思うけどな。黒いスーツ(ウォームテック)も、昼間じゃかえって目立つだろ」


「確かに……」女は目から鱗というような表情で俺を見る。「お前、スパイの才能があるのか?」


「いや、多分ない。だが、ないなりに考えようぜ。2人で考えれば、何か良いアイデアが出るかもしれないし」


「なるほど」


「ちなみに、その食品偽装をしている会社ってのは、どこなんだ?」


「『肉のタナベ』だ」


 俺は耳を疑った。


「嘘だろ? 商店街の?」


 そこは町の小さな肉屋だ。


「そうだ。電気屋の隣」


「個人商店だろ、あそこ」


「だが、組織に調査依頼があった」


「誰が依頼するんだ? あんな小さな肉屋」


「依頼主の情報は、私たち末端には明かされない」


 あ、そこはちゃんとしているのか、と俺は逆に意外に思った。


「しかし、信じられないな。あそこのコロッケを食ったことあるか?」と俺が訊くと、結衣は首を横に振った。「死ぬほど旨いぞ」


 俺はそのコロッケについて、その衣がいかにサクサクであるか、中の肉汁がいかにジューシーであるか、玉ねぎの香ばしさと牛脂の旨味がいかに口内を駆け巡っていくか、そしてその旨さに対していかに価格がリーズナブルであるかなどということを、順を追って具体的に説明した。


 結衣と俺の腹が低い唸りをあげたのは、ほとんど同時のことだった。


「よし、まずは偵察に行こう」

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