29.苦行の成果
日が暮れかけた頃、俺たちはまた繁華街に来ていた。
これから俺たちは二手に分かれ、俺がスカウトの縄張りでナンパをする間、結衣はライブハウス『Cocytus』でめぼしいヤツに小型盗聴器を仕掛けまくる作戦だ。
「そういえば、昨日の夜、早速教えてもらったオーディションに応募しておいたぞ」繁華街の路地を進みながら、俺は言った。
「お前〜、もぉ〜、勝手にぃ〜」結衣はさも困ったふうな顔で言うが、結局ソフトクリームを食った後というのもあって、機嫌は大分良さそうだ。
結衣は失踪によって欠員のでた地下アイドルグループに潜入するため、オーディションを受ける算段だったが、自分で応募するのが恥ずかしいというので、俺がそれを代行することになっていた。しかも、結衣が自分で厳選した自撮り写真を使い、応募は本人の知らない間にして、少し時間をおいてから知らせてほしいという無駄に細かい注文つきで。
俺はこの茶番に意味があるのか、だいぶ疑問だったが、あまり深く考えないことにした。
「『歌には自信があります』と書いておいた」
「もぉ〜」
「…………とにかく、また後でな。連絡する」
「お前、くれぐれも目的を見失うなよ。くれぐれもな」結衣が釘を刺す。
「分かってる」
結衣と分かれると、俺は深呼吸をした。知らない女に声をかけるというのは、なかなか勇気の要るものだ。
近くのショーウィンドウに自分の姿を写し、身だしなみを確認する。白のシャツとベージュのパンツ。
──凝った服は着るな。女にとって、主張の強い服を着る男ほど面倒な生き物はいない──
爺ちゃんの教えを苦い気持ちで思い出す。
──街で女に声をかけるなら、お前が足を動かせ。さも獲物を待ち構えるふうに街角に立ってる男など、不審者以外の何者でもない──
適当な通りを歩いて差し掛かった交差点で、信号待ちをしている女の隣に立った。30代前半だろうか。チェックのシャツに紺のズボンをはいた、繁華街を歩くには、やや地味な女だ。信号は赤に変わったばかりだ。
一拍間をおいて、ふと、気付いたように、「今、揺れなかったか?」と声をかけた。
女は少し驚いたように辺りを見回して、「いえ、気付きませんでしたけど……」と言う。
「ああ、すまん、気のせいか」と信号が変わるのを待つ。
それが青になると、女の隣を歩いた。元々、話かけた相手と同じ方向に用事があるから同じ信号を待っていたのだという理由がつく。
「いや、何か気まずいな。申し訳ない。気を付けて帰ってくれ。あ、そもそも帰るところだったか?」
「いえ、ちょっと、買い物に……」
次の言葉に逡巡した瞬間に、爺ちゃんの教えがまた頭をよぎった。
──百発百中の魔法の言葉は存在しない。イケそうにないと思ったらすぐに退け。次の女にナンパを見られるリスクを避けろ──
「そうか、俺はこっちだから、じゃあ」と適当な路地に入る。
これは、なかなかのストレスだが、結衣も言っていた通り、目的を見失うべきではない。ナンパしているところを、縄張りのスカウトに見とがめられればいいのであって、女の連絡先は別に要らないのだ。
また別の細い通りに入り、また別の女に声をかける。
──雑誌で見たようなセリフを使うな。それは他のヤツも使っている──
──1人の女に固執するな。多くの女は一途な男が別に好きじゃない──
──ナンパは90パーセントの女が嫌いだ。ナンパだと思われないように声をかけたとしても、60パーセントの女には逃げられると思え──
爺ちゃんはそう言っていた。俺はナンパをする男のことを、みっともないと思っていたが、これほどの苦行を自らに課すことのできるヤツは、逆に立派なんじゃないかと思い始めていた。
そもそも、平日の夕方にナンパに付き合うような、ヒマな女などそうそういるものではない。
(あ、いや、ナンパが成功する必要は、別にないんだった)と再び思い直した頃、似合わないスーツを着た茶髪の男が俺を呼び止めた。
「兄さん、ここら辺で、ナンパはやめといた方がいい」男はそう言った。
「へえ。なぜだ?」と知らぬふりで聞く。
「ここは、有名なスカウト通りだ。それを知って警戒してる女も多いし、何より俺たちの商売の邪魔だ」
かかった、と内心安堵のため息をつく。これ以上ナンパをしなくて済みそうだ。
「へえ、アンタらは、この辺りで営業許可でも取ってるのか? そうでもなければ、俺がナンパをするくらいのことは、俺の勝手に思えるが」
「兄さん、俺はな、スカウトマンの中でも割と温厚な方だ。だが、路上スカウトなんてやってるヤツに、行儀のいいヤツはほとんどいない。悪いことは言わない、他のヤツに目ぇつけられる前に、他所へ行きな」
「アンタ、親切だな」と俺は思わず本音を漏らした。これは運がいいかもしれない。
「それが分かったら、大通の公園にでも行って声をかけるんだな。そっちの方が成功率も高い」
「なるほど」とうなずいてから、俺は切り出した。「ところで、アンタらは地下アイドルを狙ったりするのか?」
男の目尻が一瞬動いた。
「俺は狙わねえな。もっとも、区別がつけばの話だが」
「なぜ」
「一言で言やあ方向性の違いだ。儲からなくても煌びやかな世界で生きていきてえ女に、薄暗い世界で金の稼げる仕事を紹介したって上手くいくわけがねえ」
「そうか。じゃあ、そういう女を狙ってるヤツの話なんかは聞かないか?」
「アンタ、探偵か?」男は顔をしかめた。
俺は少し考えてから、「まあ、似たようなもんだ。人を探してる」と答えた。
「ナンパのふりして、スカウトとモメるのを待ってたのか。もう少しやり方があるだろうに」男は呆れたようにため息をついた。
「あんまり、要領のいいタイプじゃなくてな」
「こうやって街に立ってるからには、地下アイドルが何人か消えてるって噂くらいは耳に入る。だが、おそらくそれは、俺たちみたいなスカウトじゃねえぞ。警察に睨まれないように、みんなただでさえ慎重だ」
「そうか。聞くところによると、いなくなった女の半分くらいは、直前にライブハウス周辺で声をかけられてるらしいんだが、心当たりはないか?」
「全くの別件じゃねえのか? スカウトやってて女が通りゃ、声はかけるだろ。あるいは、アイドル専門のスカウト? そんなもん、儲かるのか知らねえけどな」
「儲からなそうか?」
「俺は風俗嬢やキャバ嬢を尊敬してるが、世の中の女は、なかなかこの仕事をやりたがらねえ。その分給料は高いわけだ。だから俺たちの仕事は成り立ってる。
地下アイドルなんて、それそのものが儲かってねえのに、どっからスカウトバックが出るのか謎だぜ」
「なるほどなぁ」と俺は深くうなずいた。「いや、勉強になったよ。世の中の仕組みを少し知れたような気がする。それに何より、俺はこれ以上ナンパをしなくて済みそうだ」
「まあ、謎が解けたら教えてくれよ。俺たちも、疑いを向けられて痛くもねえ腹ぁまさぐられんのは面白くねえ」
男はそう言ってスーツのポケットからスマホを取り出した。
「今日の成果はこの1件だけだ」俺も自分のスマホを取り出しながら、そう言った。
「いや、アンタ、自分で思ってるよりナンパ上手いぜ。数こなしゃ、それなりにイケるだろ」
俺はそのことを喜んでいいのか分からなかった。
スカウトマン(彼は後藤さんというらしい)と連絡先を交換して別れると、俺はすぐ結衣に電話をかけた。