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24.俺と彼女の覚悟について

Cocytus(コキュートス)』というのは、歓楽街から少し外れた辺りにあるらしかった。


 そこへ向かう途中には、風俗店だの、ラブホテルだのが並び、いかがわしさを隠す気もないような看板やポスターが恥ずかしげもなく掲げられていたが、夜になるとその真価を存分に発揮するのであろう歓楽街のネオンサインも、真昼の光の中では、幾分気だるげに見えた。


「お前、こういう店には行くのか?」キョロキョロと周りを見回しながら、結衣が聞く。


「いや、行ったことはないな。なけなしの金をはたいてそういうことをした後で、自分がどういう気持ちになるか想像してしまうんだ」


 結衣は「そうか」とだけ言って、スマホの地図を確認した。


 まだ日は高い。イベントが始まるのは夕方からだったが、失踪したという女たちの半数は、ライブハウス周辺で男から声がけを受けているという情報もあり、先だって街の様子を見て回った方がよかろうということになったわけだ。


 表通りから一本裏手に入ると、小路の辻々に、ポツリ、ポツリと男が手持ち無沙汰に立って、こちらをチラリと見ては目を逸らす。


「彼らだろうか」と俺は小声で言った。


「どうだろうな。エッチなお店の客引きかもしれないし、スカウトかもしれない」


 俺は少し考えて、「どこか、寄ろうか」と提案した。ただ歩き回っても得るものは少なそうだ。


「どこかって、どこへ?」と結衣は急に慌てたようにキョロキョロしだす。


「喫茶店か何か……」


 結衣は何か誤解していたようで、俺がそう言うと安堵のため息をついた。


「そうか……そうだな! よし! 喫茶店を探すぞ」ダシヌケに大きな声をあげると、ちょうど細い道路を渡った向こうに、小さな喫茶店が見えたので、俺たちはそこへ入り、作戦を練ることにした。


『純喫茶 からたち』というその店の中は、何となく時間が止まったような、独特の雰囲気だったが、店の入り口に風俗情報誌が置いてあって、幻滅させられた。


 伸ばした白髪を後ろで束ねた背の高い男の店主が、無愛想に「いらっしゃい」と言ったが、その言い方は、彼自身も何かに幻滅しているみたいだった。


「なあ、ここらで、地下アイドルってのがよく行方不明になるらしいが、何か知ってるか?」と俺は試しに尋ねてみた。


「さぁ、風俗とか、キャバとか、そういう水商売の女の子がトんだって話はよく聞くが、同じようなもんかね」


「なるほど、ツラい仕事だろうしな」と言うと、俺と結衣は、カウンターの席に座った。


「マスター、そういう話は誰から聞くんだ?」と結衣がたずねる。


 店主は自嘲気味にため息をついて、「スカウトの連中さ。時々、仕事をサボってウチに来る。こんな街だからね、風俗の予約待ちとか、客引きとか、スカウトとか、そんな連中ばっかりだ。お陰さんで食ってはいけてるが、なんとも……」とボヤいた。


 確かに、俺が仮に喫茶店をやるなら、もう少し違う客層を期待しそうなものだ。


 結衣はカウンターの下で、俺の脇腹をつつく。何かしゃべって情報を引き出せということだろう。


「路上スカウトって、禁止されてんじゃないのか? 法律だか、条例だかで……」


「だから、ナンパを装うわけさ」と店主は言った。


 それは知っている。俺はあまりこういうのが上手くないな、と思いかけた時、店主は言い忘れたジョークを付け足すように言った。


「兄ちゃんも、この辺りでナンパなんてするんじゃないよ。スカウトの縄張り荒らしと誤解されてトラブルになる」


「ああ、気をつけるよ」とだけ言って、俺は少し考えた。全く気は進まないが、もしかすると、爺ちゃんの教えを実践することになるかもしれない。



  ✳︎



 喫茶店で作戦を練るつもりが、俺がつい思いつきで店主に話しかけてしまったために、聞き込みのような形になってしまった。


 店を出て、ライブハウスへ向かう道すがら、先に口を開いたのは結衣だった。


「なあ、この辺りの地下アイドルについて調べてたんだが、募集があるんだ」


「失踪者が出たグループか?」と俺が尋ねると、結衣はうなずいた。


「そうだ。欠員の補充ということだろう。そこで、思いついたんだが……」と言いながら、結衣は、なにか恥ずかしがるようにうつむいた。


「ああ……そうか」と俺はうなずく。


「そう、つまり私が……」と結衣はその先を言いよどむ。が、彼女の言いたいことは明らかだった。要するに、彼女が地下アイドルとしてそのグループに潜入し、情報を集めるということだ。


「お前は歌が上手い。それに美人だ。うってつけじゃないか。だが……少し心配だな。危ないことがないといいが」


「私たちの仕事は、危ない橋を渡らないと成立しない。それこそ、迷い猫を探すくらいのものなら別だが、今回のように本格的な任務なら、ある程度の覚悟は必要だし、私にはすでにそれがある」


「確かに」


「だが、1つ問題がある」


「なんだ?」


「私は、人前で歌ったり踊ったりすることが、恥ずかしいということだ」


 誘拐や拉致の危険と対峙する覚悟があるのに、人前で歌を歌う覚悟がないというのも妙な話だとは思ったが、その立場になって考えれば、まあ、確かに別の話かもしれないと考え直して、俺は結衣の肩に手を置いた。


「俺も、俺なりに一つ、覚悟を決めたところだ」


「何の?」


 結衣が尋ねるのをよそに、俺は近くのコンビニで、適当な女もののハンカチを買うと、狭い路地に入る。


「まあ、ちょっと隠れて見ててくれ。上手く出来るか分からんが」


 そう言いつつ、物陰からタイミングをはかって、若い女が通り過ぎたタイミングで俺は通りに出た。


「なあ、ちょっと」俺は知らない女の背中に声をかける。手にはさっきコンビニで買ったハンカチをつまんでいる。「落とし物」


 俺がそこまで言って、はじめて女は振り返った。


──いいか泰山、ナンパで一番重要なのは、第一声をナンパと思わせないことだ──


 天から爺ちゃんの声が聞こえる。


 自分で用意したハンカチを、たまたま拾ったていで女に声をかける。全く忌々しいが、この方法も、爺ちゃんが俺に教えたものだ。


「え、それ、私のじゃない」女は答える。


 こうして、少なくとも1往復は会話が成立するのだ。


「あれ、そうか? アンタのバッグから落ちたように見えたんだが、俺の見間違いだろうか」


 そう言うと、女は自分のバッグの中身を確かめる。実際に何か落としたものがないか、不安になるからだ。


「特に、落としたものはないみたい……」


「そうか。それはよかった」俺はハンカチを広げる。「よく見たら、安物だな、このハンカチ。服やバッグに合わない。アンタはお洒落だ。小物にもこだわりがありそうだ」


──容姿を褒めるな。センスを褒めろ。美人は顔を褒められるのにウンザリしてるし、ブスは嫌味と受け取る──


「服もバッグも、そんないい物じゃないけど……」


「え、そうなのか? 組み合わせがいいからだろうか。俺がブランドに詳しくないのもあるだろうが、すごく高いヤツに見える」


 俺がそう言うと、女は笑った。「確かに、お兄さん、ブランドには詳しくなさそう」


「そうなんだよ。まず、オシャレな服屋に着ていく服がない」と、その辺りで腕時計に目をやる。


──会話は自分から切り上げろ。即日で最後までイケる場合を除いて──


 俺は手を合わせて女に詫びた。「すまん、予定があってな。俺の勘違いで呼び止めて悪かった」


 それから、連絡先を聞こうとした時、女の方が口を開いた。


「今度、服を選んであげる。連絡先教えて」──



 俺がさっきの路地裏に戻ると、結衣が憮然(ぶぜん)とした表情で待っていた。


「いやあ、緊張した。だが、思いの外上手くいったぞ」


「いやお前、何をしてるんだ一体」結衣は腕を組んで言う。


「何って、ナンパだ」


「だから何でだよ!」

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