2.Mission failed
とある地方都市の中心部からやや離れた、築38年のアパート、都市ガス、バス・トイレ別、家賃2万8千円(共益費3千円)、洋室8畳のワンルームで、謎の女は、その隅に畳んだ布団の上に不機嫌そうに腰掛けて、強く射し込む西陽に顔をしかめていた。
本人の名乗るところによると、俺の部屋に勝手に上がり込んでいた女は、スパイらしい。
「スパイというのは、『私はスパイだ』と名乗ってもいいものなのか?」俺は差し当たってそう尋ねた。
「それは……内緒だ。他人に言うなよ」女は釘を刺すように答える。
まあ、言わないだろうな、と俺は思った。今起きていることを、素直に他人に話せば、何らかの医療機関へ受診を勧められそうな気がする。逆の立場なら、俺はそうする。
俺は曖昧に頷いて、代わりにこう尋ねた。「ところで、お前はこんなに、のんびりしてていいのか? 仕事の途中だったんじゃないのか?」
すると女は悲しそうにうつむいた。
「私は、任務に失敗した」
さて、どうしたものか、と俺は半ば途方にくれたが、悲しげにうつむくこの女が可哀想に思えたので、それがなぐさめになるなら、話くらいは聞いてやろうというくらいの了見で、話の続きを待った。
「私の任務は、企業の偽装工作を暴くことだった」
「なるほど、大変な仕事だ」と俺は相槌を打って、詳細を尋ねた。「例えば脱税とか、安全基準の改竄とか?」
「食品偽装だ」
「それは、重要な仕事だ。口に入るものだからな」
「そうだ。その会社で作ったものを食べた人が、お腹を壊しては大変だ」
なるほど、と俺は深く頷いた。考えようによっては、もしかすると一番重要かもしれない。
「俺は、自分の食べるものの安全が、そうやって守られていることに気付いていなかったよ。いや、頭が下がる」
「だが、私は失敗してしまった。空調のダクトを伝って、侵入する計画だったんだが、思わぬ誤算があった」
「おお、スパイらしい」思わず前のめりになる。なかなか聞く機会のない、スリリングな話だ。
「そもそも、人が1人通れるくらい太い空調ダクトは、そうそうあるものではないらしい」
ん? と俺は思った。
「それは、あらかじめ、分からないものなのか?」
「建物の図面が読める人なら、分かるらしい。だが、私は読めない」
「そうか。専門知識だからな。誰にでも分かるものじゃない」
「そうだ。それに、先輩はそれが出来たらしいのだ。だから私にも出来ると思った。後から気付いたんだが、先輩は身体中の関節を外して狭いところを通り抜けるのが得意だった」
「プロの技だな。誰にでも出来ることじゃない」
「そうなんだ。私には出来ない」
「なら、お前は、お前の得意なやり方でやるべきだったということか。お前は、何が得意なんだ?」
「私は……」女は言いよどんでから、遠慮がちに言った。「歌が上手い」
「そうか。得意なことがあるというのは良いことだよな。俺は音痴だ。中学の合唱コンクールでは、大きい声で歌わないように言われていたくらいだ。あれは悲しかった。俺は歌が上手い人のことを尊敬するよ」
俺は女をなぐさめるつもりでそう言ったが、女はまぶたに涙の雫をためて、栗色の瞳を潤ませた。
「スパイに……向いてない……」
それは、俺がだいぶ始めの方から思っていて、あえて口に出さずにいたことだったが、女の涙が溢れないよう、慌てて繕うように言葉を探した。
「いや、お前は一生懸命やったはずだ。知らん男の部屋に上がり込んで、着替えなくちゃいけなくなるくらいだ。事情は知らんが、とても一生懸命だったのはよく分かる。
正直、俺はてっきり、お前が部屋で脱ぎかけてたのは、ウニクロの『ウォームテック』だと思ってた。だが、あれはスパイのスーツだったんだな」
俺は女が泣かないように必死だったが、女はとうとう、涙を頬にこぼして首を横に振った。
「あれは、ウニクロのウォームテックだ」と女は涙声で言った。「スパイのスーツは高いから……ウォームテックで代用しようと思って……」
「そうか、それはいいアイデアだな。俺はてっきり、スパイのスーツだと思ったぞ」
「お前……言ってることが……逆じゃないかぁ……」女は嗚咽混じりにそう抗議した。
「いや、初めはウォームテックだと思ったんだ。だが、お前がスパイだというのを聞いて、思い直した。ああ、あれはスパイのスーツだったんだなと。完全に裏の裏をかかれた。さすがスパイだ」
俺はもうほとんど自分が何を言っているのかよく分からなくなっていたが、自分なりに一生懸命女をなぐさめた。
女はぐずぐずと鼻をすすりながら、「暑いんだ……」と言った。
「ん?」
「ウォームテックは、汗を吸って熱を発する仕組みらしい。だから、汗をかけば汗をかくほど暑いんだ」
「そうか。もう、ウォームテックを着るような季節じゃない。だが、仕事には必要だった。大変な仕事だ。お前はよくやってるよ。頑張ってる。それで、俺のところに転がり込んだのは、敵に見つかってしまったからか?」
「いや……」と女は首を横に振る。「犬が……」
「犬? そうか、番犬か。案外そういうアナログなセキュリティが一番怖いかもな。俺は身体が大きいが、ドーベルマンみたいな犬に追い回されたらと思うとゾッとするよ」
パンクしたタイヤのチューブから漏れる空気みたいな小さな声で、女が「ポメラニアン……」とつぶやいた時、俺はいよいよ万策尽きたと思った。
小型犬もいいところだ。あんなもの、せいぜいクルクル回してコロンと玉が出るタイプの、福引きのやつくらいしか口が開かないではないか。
「吠えるんだ。すごく……」と言う女の声からは、それが彼女にとってどれほど悲しいことだったかが、ありありと伝わってきた。
「なかなか、うまくいかないもんだよな」
俺はしみじみそう言った。