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13.一番汚いおじさん

 銭湯を出ると、俺たちは近所の携帯ショップに寄って、スマホのプランを見せてもらったが、やはり今俺が契約しているガラケーよりも大分高いので、ひとまず持ち帰って検討ということになった。


 朝食をとっていなかったことに気付いたのはその帰りのことで、通り道のスーパーで簡単な買い出しを済ませた。


 アパートに帰ると、俺たちは「ただいま」とお互いに言い合った。


「しかし、スマホもパソコンも持たずに、現代社会を生き抜こうというのは、お前なかなかチャレンジャーだと思うぞ」結衣はたたんだ布団の上に座ると、そう言った。


「ああ、実は俺も、薄々そうらしいというのは感じていた。世の中には便利なものが次々に出来ているらしいが、便利なものの使い方を次々に覚えなくちゃいけないことは、俺にとっては不便なんだ。

 そういうワケで、普通の人が普通に出来るのに、俺には出来ないということが結構多い」


「お前、間違えて人里に降りてしまった野人みたいな男だな」結衣は、アフリカの奥地で見つかった新種の珍獣を見るような目で、俺をまじまじと見つめた。


「よく言われる。だが、俺は金を稼がなくちゃいけないし、そうも言っていられない。いい機会だから、スマホを買おうと思う」


「おお。決心が早いな」


「そうと決まれば、あの料金を払い続けられるように、仕事を探さなくちゃいけない。そもそも、無職のままじゃここの家賃だって払えないしな」


「なんだか『卵が先かニワトリが先か』みたいな話で混乱するが、私はスマホを先に買うべきだと思うぞ。そうしたら、スパイに登録出来る。契約の初期費用を払う金はあるんだろ?」


 俺は腕を組んで少し考え込んだ。「緊張する」


「大丈夫だ、泰山(たいざん)。そんなに難しいものなら、そこら辺の奴がみんな触ってるわけがない」結衣はそう言って、俺の背中を優しく叩いた。


「そうか。とりあえず、一旦寝かせよう。明日だ。明日、契約に行く」


「今日じゃダメなのか?」


「『そんなに早く決めるなら、あの時契約すれば良かったろ』とショップのお姉さんに思われたくない」


「なるほど、お前、臆病なところもあるんだな。気持ちは分かるぞ。共感できる。まあ、いいさ。明日行こう。お前にはお前のペースってもんがあるからな」


「それはそうと、昨日の仕事はどうなったんだ? 商店街や地上げ屋はともかく、お前の方は」


「ああ、音声や動画、それから親父さんに譲ってもらった、改竄されたデータなんかを、メールで組織に送った。先輩が組織を裏切って、私のために『肉のタナベ』に迷惑をかけたことはショックだったが、いつまでもうずくまってはいられないからな」


「そうか。お前はやるべきことをちゃんとやった。偉いと思うぞ」


「ありがとう」と結衣は言ったが、その声には、いくぶんの寂しさが混じっているように聞こえた。


 無理もない。自分に良くしてくれた先輩の裏切りと、その裏切りを報告しなければならない立場に立ったことは、そうすぐに消化出来るものでもないだろう。


「それで、報酬の方はどうなんだ? 新しい家を用意してもらえそうか?」俺はそう言ってから、結衣が新しい家に移ることを、ほんの少し、さみしく思った。だが、彼女にとってはいいことだ。


「それがな……」と結衣は少し言いよどんだ。


「どうした?」


「5万円入ったぞ!」結衣はもう、ここにくす玉とクラッカーが無いのが逆に不自然なくらいの明るい笑顔で言った。


「すごいじゃないか。大金だ」


 一晩で5万円。スパイという言葉のイメージからすれば、いささか地味な金額ではあるが、日給5万円と考えればかなりのものだ。


「元々の任務報酬は、7,300円だった。だが、組織から寝返ったスパイの情報や、組織に依頼していた企業の背信行為を掴んだことが評価されたみたいだ。

 正直、複雑な気持ちにもなったが、私はもう、素直にこれを喜ぶことに決めた。そうしないと、前に進めないからな」


「それはそうだ。お前は一生懸命がんばった。そのくらい評価されてもおかしくない」


「いや、これはお前がいてくれたからだ、相棒。私はお前に会うまで、正直もう、くじけそうだった。これは、お前が協力してくれて、2人で成功した任務だ。金は山分けしよう」


「いやいや、任務を受注したのも、完了を報告したのもお前、俺は横から口を出しただけだ。何も背負ってない。その報酬には、お前がスパイなんていう、危なっかしい身分でいるリスクの分も含まれてるはずだ。自分の権利をちゃんと守れ」


「いやいやいや、仮にそうだとしても、私は協力してくれたお前に、その協力に見合う報酬を支払うべきだ。それに、部屋に泊めてくれた分も」


 それから俺たちはしばらくの間、互いに「いやいや」「いやいやいや」とやり合った。


「お前、スパイなら、もう少しズルくなった方がいいんじゃないか?」と俺は言ったが、結衣は首を縦に振らなかった。


 さて、報酬のことはいったん保留するとして、俺は結衣の住処(すみか)について尋ねた。なんでも、任務を達成するごとに、報酬の他に『任務ポイント』というのが付与されて、組織はそのポイントに応じて部屋を用意してくれるらしい。


 が、結衣はその話題になると、明らかに声のトーンを下げた。


「それがな……新しい家は、まだ無理だ。任務ポイントがまだ足りなくて、部屋は用意してもらえない。いや、正確に言えば用意はしてもらえるんだが……」


「知らないおじさんと同室か?」


「そうだ。しかも、行き場がなくて仕方なくおじさんと同室を選んだスパイもみんな逃げ出したという、一番汚いおじさんの部屋しか空いてないらしい」


「それは、考えただけで怖気(おぞけ)が走るな」


「ああ、なんでも、ほとんど風呂に入らんらしい。しかも、野球の試合がやってる時間以外は、エッチなDVDを見続けるそうだ。ノってる時は、野球すら忘れるとか」


「お前さえ良ければ、次の部屋が見つかるまでは、ここにいるといい。いくらなんでも、そのおじさんよりは、俺の方がいくぶんマシだろう」


「いくぶんどころじゃない。だが、いいのか?」


「ああ……」と言いかけて、俺の頭に、1つのアイデアがよぎった。「そのおじさんの住んでる部屋ってのは、間取りはどうなんだ?」


「1LDKだ」と結衣は答えながら、首を傾げる。


「つまり、居間の他にもう一部屋つくと」


「そうだが」


「ここよりはマシだ」


「何を考えている?」


「そのおじさんの部屋と、この部屋を交換してもらえないだろうか」

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