12.そうだ、銭湯へ行こう
俺は、端末がガラケーなので、スパイになることが出来なかった。
「……それはな、しょうがない。もう、世の中がそういうふうに出来てしまっているからな。お前が悪いわけじゃないぞ。自分に必要な物だけ持っていればいいっていう、お前の考え方、私は好きだぞ」結衣は地雷原を渡るような慎重さで、恐る恐る言葉を選ぶ。
「いや、俺は多分、お前が思うほどは気にしてない。あまり気を使わないでくれ。それに、携帯も正直そろそろ替え時だとは思っていた。世の中が俺の苦手に合わせてくれるわけじゃないからな。仕事を探すのにも、今時はみんなネットでやると聞く」
俺がそう言うと、結衣は元の意気を取り返したように、元気になった。
「そうか! じゃあ、早速新しいケータイを見に行こう」
「いや、そうは言ったが、金がない。バイトをクビになってしまっているからな。ただ契約するだけの金はあるだろうが、ずっと払い続けていけるか不安だ」
「それも踏まえて、どのくらい金がかかるか目星をつけた方がいいだろう。買うか買わないかはその後で決めればいい」
「なるほどな。携帯の契約は複雑で分かりにくいから、お前がいてくれると助かる」
「だろ? だが、その前に風呂に入りたい。昨日は疲れてそのまま寝てしまったからな。お前、ちょっと、外に出てくれ」
「なぜ」俺は急に自分の部屋を追い出されようとしている不条理に、純粋な疑問を感じた。
「いやだって、この部屋には脱衣所がないし、お前、見るだろ」
「そりゃ見るが」
「だからだよ! それにお前、多分私の下着で、変なことするだろ!」
「変なこととは? 具体的に」
「具体的に言いたくないからボカしてるんだろ!」
「うーん……」と俺は唸った。「よく分からんが、なんなら、俺のパンツ3枚と交換するか?」
「いらんわ! 何だそのレート! 私のパンツで何をする気だ!」
「…………」
「なんか言え!」
俺たちは、風呂に入る入らない、その過程を見る見ないで互いに牽制し合った結果、銭湯に行くことで合意を得た。
結衣は国道沿いの歩道を、ほとんどスキップでも始めそうな軽やかな足取りで歩く。俺は3歩後ろについてその様子を眺めながら、風呂道具を担いで歩いた。
スパイの結衣は、任務が数日に及ぶこともあるので、いつも風呂道具や歯磨きセットなどを持ち歩いているのだという。
彼女が先輩スパイの部屋に置いていた荷物は、全て組織に差し押さえられて回収が不可能となってしまったらしいが、俺の部屋に転がり込んだ時に持ち込んでいた、ナップザックとその中身だけは難を逃れた。
いくつかの仕事道具、最低限の着替えと衛生用品、化粧道具、それと呆れるべきか感心すべきか、彼女が今着ているパジャマがわりのスウェット上下も、荷物に含まれていた。
「私はな、お風呂屋さんが、結構好きだぞ」
「しかも、朝からというのが、なんかいいよな。この時間ならほとんど人もいないだろう」
「そうだな! 貸し切りだったら嬉しいな!」結衣は歓声に近い声を上げて、小躍りするように駆けた。
俺は不思議だった。女の年齢というのは見た目で判別しがたいが、おそらく、俺と同じくらい、20代前半といったところだろう。10代ということはなかろうと思う。彼女のこういう無邪気さは、いったいどこから来るのだろう。
銭湯に着くと、俺たちは450円の入浴券を買って、別れて風呂に入った。
思った通り、客は少なく、俺の他には、立ったりしゃがんだりするたびに謎の掛け声をあげる爺さんが1人いるきりだった。
身体を丁寧に洗って風呂に浸かると、俺も爺さんにならって深い唸りをあげ、目をつむった。
一体俺は、何をしているんだ?
大いなる謎だ。少し、頭を整理する必要がある。
まず、バイトをクビになった帰り、家の玄関を開けると、任務に失敗してポメラニアンに追い回された女スパイが、俺の部屋に転がり込んで着替えている最中だった。名前は青砥 結衣。
彼女は肉付きのいい結構な美人だが、任務に失敗したことで大分しょげ返っていたので、気の毒に思って話を聞くうち、まだ挽回のチャンスがあることに気付いた。
任務の内容に違和感があったのと、結衣をちょっと元気付けるつもりが、気付けばわりとどっぷり手伝うことになり、再開発の用地獲得のために、『肉のタナベ』に食品偽装をでっち上げようとしていた別の女スパイを、結果的に追っ払った。
結衣はタナベの親父や商店街の面々に自分の正体を明かし、事情を説明、親父は結衣のことを上手く伏せて、警察に通報したが、取られた物が何もないというので、警察はそれほど真剣に取り合わなかったようだ。
タナベに工作を仕掛けようとした黒幕とみられる『はなまる総合開発』には、おそらく今頃、商店街の面々からクレームの電話が殺到している。「ウチに忍び込んだ不審者が、お宅の会社に雇われたと言っていた。どういうことか説明しろ!」とかそんな具合に。
これは俺がコンビニをクビになったきっかけである、大学生たちから学んだ手法で、もちろん、スパイは自分の雇い主を喋ってなどいないが、まあ、嘘も方便というヤツだ。
さて、『肉のタナベ』に忍び込んだ女スパイというのは、結衣が居候していた先輩スパイだった。
先輩スパイは組織を抜けて、あるいは裏切って、『はなまる総合開発』から直接仕事を請け負ったものとみえる。
そのせいで、結衣が住ませてもらっていた部屋は組織に差し押さえられ、結衣はそこに置いていた荷物ごと住処を失った。別の賃貸を借りるにも金がない。組織に部屋を用意してもらうとなると、知らないおじさんと同室になるという。
その上、先輩が自分に手柄を用意した上で組織を抜けたという状況から、泣き出すほどの心細さを訴え、同情した俺は自分の部屋に彼女を泊まらせた。
一連の流れで、俺たちの間には不思議な連帯感が生まれ、気付けば互いを相棒と呼び合っていたが、明くる朝、結衣はとうとう俺にもスパイになれと言い出した。
確かに俺はバイトをクビになったばかりだし、選り好みする立場でもないと考え、結衣の指示通り、スパイとして組織の運営するウェブサイトに登録しようとしたが、俺の端末がガラケーだったので、それが不可能だった──。
俺はこれまでの流れをこう振り返ると、湯船の中で、うーん……と唸った。なるほど。意味が分からん。
やっぱり、『スパイ』だ。これが入ると全然ワケが分からなくなる。
何だ『スパイ』って。何だこの単語。
俺は深くため息をついた。風呂に入るとため息が出るのはなぜだろう。
何にしても、俺がやるべきことは決まっている。自分が生活していくための、金を稼ぐこと。つまり、次の仕事を探すことだ。
俺は思いを新たにして立ち上がった。そして、サウナに入り、水風呂に浸かり、そしてまたサウナに入り、水風呂に浸かると、その足でダメ押しにまたサウナに入り、露天風呂に浸かって、シャワーで汗を流し、下ろしたてのまっさらな下着と洗いたての服を着て、待合室へ出た。
「お前、長風呂もたいがいにしろ」と結衣が苦情をもらした。他所行きのワンピースに着替えている。
「いや、朝の銭湯が、思いの外良くてな。すまん。コーヒー牛乳おごるから」
俺がそう言うと、結衣はにわかに表情を緩めた。
「えー……。フルーツ牛乳がいい」
「いいぞ。もちろん」
俺たちは、待合室のベンチに並んで、牛乳瓶をあおった。横を見ると、ドライヤーが甘かったものだろう、ベージュのワンピースの襟からのぞく結衣の鎖骨に、まだ濡れた髪の毛先がしなだれかかっていた。
「なかなか、オツなものだ」と俺は本心からそう言った。




