11.仕事がないなら、スパイになればいいじゃない
夢を見た──。
コンビニのバックヤード、ウォークイン冷蔵庫の脇を抜けた先の事務所で、俺は店長と向かい合って、古くなってガタついたパイプ椅子に座っている。
「不動くん、言いにくいんだが……」
バイト先の店長は、宣言通り、その先がよほど言いにくいようで、天井の蛍光灯に目をやったり、揉み手をしたり、もぞもぞと尻を動かしたりする。
遠慮がちなエアコンの風に、心細げにそよぐ彼の髪の毛に似つかわしい、気弱で、人の良い中年の男だ。
「店長、言いたくないことは、言わなくていい。いつか話せる時が来たら、聞かせてくれ」
俺は店長を励ますつもりでそう言ったが、店長は首を横に振った。
「ありがとう。でも、今言わなくちゃいけないことなんだ。不動くん、明日から、来なくていい」
「つまり、『来てもいい』し、『来なくてもいい』、好きな方を選べると」
俺がそう確認すると、店長は、逆にこちらが驚くほど目を丸くした。
「なるほど、画期的な新解釈に愕然としているよ。僕の言い方が悪かった。もちろん、お客さんとして来てくれる分には、歓迎する。でも、店員としては、もう、ここに来てはいけない」
つまり、もう来てはいけない、ということを言っているのだろうか。要するに、クビだと。
「よかったら、理由を聞かせてもらえないだろうか。俺は、俺なりに、この仕事を一生懸命やったつもりだった」
「確かに、君はとても真剣に業務に取り組んでくれたと思う。だが、ほら、例の件で、クレームが半端じゃないんだ。もちろん、僕はあの件について、君に責任がないのは理解している。だが、やはりこれは、商売なんだ」
「そうか。確かに、誰が悪かろうと、店にとって重要なのは、お客が来ることだ」
「それと、不動くん、すごく、言いづらいんだが……君、ずっとタメ口なんだよなぁ。まあ、僕はいいにしても、お客様に対してそれだと、接客業としては……」
「なるほど、一理ある」
「一理かぁ……自分では、もう少しあるつもりだったんだが。正直、面接の時から気になってはいたんだけど、深夜ならお客も少ないし、君の大きな身体は防犯上役立つかもという、甘い考えがあった。これは、僕の判断にも責任がある」
「今から直すというのでは、もう、遅いだろうか。少し、時間はかかるだろうが」と俺は尋ねた。
「申し訳ない。実は、もう次の子を採用しているんだ。僕はね、とても弱い人間だ。こうでもしなければ、試用期間で君を解雇する決断が出来なかった。不動くん、許してくれ」店長は深々と頭を下げる。
「やめてくれ、店長。アンタは、この店で家族を立派に養ってる。朝早くから、夜遅くまで働いて。そんな人間が、弱いはずがない」
「君ほんと、人間としてはいい奴なんだよなあ……」店長は噛み締めるように言った。
「俺は、この店の『あんまん』を食べた時、心まで温まるように気持ちになった。多分、あんたの、その優しい心根が、あんまんにもこもってるんだな。店長、俺は店員じゃなくなっても、ここのあんまんが食いたい。また、来てもいいかな」
「ウチはコンビニだから、そのあんまんは多分、他の店舗のものと一緒だけど、ぜひ、また買いに来てくれ。お客としてなら、いつだって大歓迎さ」──
──俺は、目を開いた。
「おはよう!」若い女の声がする。
「ああ……おはよう」と俺は曖昧に返事をした。記憶や意識を確立するのに、少し時間がかかった。
「どうした? 元気がないな。朝は弱いのか?」
「いいや、特にそんなことも……」と言いつつ、身体の節々がやけに痛むのを感じて顔をしかめる。
「もしかして、床に寝たせいか?」
若い女……そう、結衣だ。結衣は、たたんだ布団の上に座り、俺を見つめていた。「お前が床に敷いて寝ていたはずの掛け布団が、朝、目が覚めたら私にかかっていた」
そういえば、そう、布団が1組しかないので、俺は掛け布団を床に敷き、結衣には押し入れから引っ張り出した毛布を、俺はタオルケットをかぶって、狭い部屋の中で微妙な距離をとりながら眠ったのだった。
しかし、夜中に結衣がくしゃみをしたので、風邪をひいてはいけないと思い、自分の敷いていた布団をかけたのだ。
「いや、夢を見たんだ。さみしい夢だ。そのせいで、妙に落ち込んだ気分だった」と俺は言った。
「そうか。昨日は、泊めてくれてありがとう。迷惑かけたな」
「いや、どうってことない。それにお前、金と家の問題が、まだ全然解決してないだろ」
「まあ、そうだが、かといって、いつまでもここにいるわけにもいかないだろう」
「俺は別に構わんけどな」
「彼女とか、いないのか?」
「いたら、断固としてお前を追い出していたかもしれない。俺にはそういう人がいたことがないから、正確には分からんが」
「そうか。お前は優しいし、顔だって悪くないが、だいぶ変わり者だからな」
「よく言われる。俺は、ここと比べれば、とんでもない田舎で、ばあちゃんに育てられたから、そのせいかもしれない。もっとも、俺はばあちゃんのことが大好きだし、そのことについて、ちっとも気にしちゃいないが」
俺はそう言ってから、はて、では他人の家に勝手に上がり込んでいた女スパイというのは、俺と比べても、よほど変わっているとはいえないだろうか、というようなことを考えた。
「何にせよ、お互い次の仕事を探さなくちゃいけない。生きていくのにはお金が要るからな」結衣は眉間にシワを寄せて腕を組む。
「その通りだ」
「そこで相棒、お前、スパイに登録しろ」
「スパイに登録?」俺には、その一文がいまいちスッと入ってこなかった。スパイというのは、登録するものだろうか。
「そうだ。今、招待を送るから、そこから登録するといい」
「招待? を、送る?」なんとなく説明を受けているような雰囲気はあるが、何も頭に入ってこない。
と、不意に俺の携帯が、悪い夢にうなされる中年男みたいな声で震えた。
「そういえば、お前ガラケーだったな。今時珍しいぞ」
「スマホを買っても、使いこなせそうにない」と言いながら、俺は二つ折りのガラケーを開く。
──新着メール1件──
カーソルを合わせてメールを開く。
──件名:ゆいみょん♀さんから 招待状が届きました!──
「メスの『ゆいみょん』から、招待状が届いたんだが」
「私だ。なんだ『メスの』って。オスもいるみたいに言うな」
「お前が『ゆいみょん』だったのか。いや、メスの記号がついてたから」
「え? それ、メスの記号なのか? バス停みたいで、かわいいと思って……」
俺には、その記号がバス停に似ているとはあまり思えなかったし、バス停がかわいいという感覚も正直よく分からなかった。
「割と有名な記号だと思うが、感性が人それぞれなのと同じように、知ってることも人それぞれだよな。俺にも、みんなが知っていて俺だけ知らないようなことがたくさんある」
「とにかく! それが、私のスパイネームだ」結衣は羞恥心を勢いで押し切るように語気を強める。
「スパイネーム……。そうか。何かに似てるな」
「かわいいのがいいと思って夜中に考えたんだが、気づいたら、ちょっと似すぎてしまった」
「それなら仕方がない。まあいいさ。で、どうすればいいんだ?」
俺が質問すると、結衣は事細かに説明してくれた。
つまり、『組織』が管理しているウェブサイトにアクセスし、そこに登録することで、『組織』からスパイの任務の斡旋を受けられるというのだ。
結衣には申し訳ないことに、俺があまりにそういう方面の知識にうといせいで、かなり余計な時間をとらせてしまったが、彼女の粘り強い説明の甲斐あって、ようやく大方のことを理解した俺は、メールに添付されたリンクを押した。
画面が切り替わる。
──20××年1月29日をもって、モバイル版サービスの提供を終了いたしました──




