1.風変わりな美女
世の中には、『よく分かること』より『よく分からないこと』の方がずっと多い。
その日、バイトから帰り、玄関のドアを開けると、知らない女が着替えている最中だった。
春から夏へ、季節が巡り行こうとする途中の、よく晴れた日の暮れ方のことだ。
いちいち表札を確認しようとは思わない。俺の鍵で俺が開けた、俺の部屋の玄関で相違ない。
女は半裸のまま、何か人権に対する重大な侵害を受けたというふうな愕然とした表情で、こちらを見たまま、凍りついたように動かない。
俺はその辺の奴と比べれば、だいぶ身体が大きいので、少し怯えさせてしまっているのかもしれない。
脱ぐ途中なのか着る途中なのか知らないが、おそらくウニクロの『ウォームテック』だろう、手首に黒いアンダーウェアの袖を引っ掛けた女の肢体は、胸と尻の肉付きが良く、反対に、よく鍛えられていると見えて、腰回りの筋肉は引き締まり、メリハリがあって大変よろしい。
「お前……誰だ」と女が言った。
なるほど。こちらのセリフだ、とか、そういうことはさておき、俺たちには、互いについての理解が必要だ。その点は共感出来る。
「俺は、不動 泰山。この部屋の、世帯主だ。俺も聞きたいんだが、お前は、誰だ?」
「え……スパイだけど……」と女は言った。
「そうか……」とだけ答えて、俺はまじまじと女を見る。
いいだろう。世の中には、『よく分かること』より『よく分からないこと』の方がずっと多い。
肩を覆う黒い髪の、一筋一筋を際立たせるように女の肌は白く、反して唇の色は目の覚めるように赤い。そして、繰り返しになるが、胸と尻の肉付きが大変よろしい。
俺は筋金入りの童貞であるからして、若い女の下着姿など、間近で見るのは初めてだが、なるほど、とんでもないライブ感だ。
「いやお前、いつまでジロジロ見ている! 分からんか! 女の着替え中だぞ!」
そう言いながらも、女は徐々に自分の置かれた状況を、自分なりに解釈しつつあるものか、顔色がみるみる紅潮し始めた。
「いや、分かる。お前が着替えていることは。だがな、ここは、狭くてしみったれちゃいるが、俺が家賃、敷金、仲介料を払って、誰に後ろ指を差されることもなく、大手を振って住んでいる、俺の家だ。
俺がしたのは、バイトから帰ってその玄関の鍵を開け、中へ入った、それだけだ」
「確かに、ここはお前の部屋だ。確かにな。だが、私はご覧の通り、着替えているわけだ。うら若き乙女が。せめて目を逸らすとか、何なら一旦部屋から出るくらいの気遣いがあって然るべきだろう。
大体お前、何とも思わないのか? 目の前で女が着替えていて、『あわわわわ! なんでこんなトコで着替えてんだよー!』とかなんとか、あるもんだろう普通」
「いや、俺も男だ。当然、思うところはある。お前の言う通り、お前は若い女だし、顔もスタイルも大変よろしい。特に、胸の肉付きには感じ入るものがある。実際、圧倒的な迫力だ。肌の艶も申し分ないし、上下揃えた紫の下着も要を得ている」
「やめろ! レビューをするな! そういうことを言ってるんじゃない! もっとこう、あるだろ! お前これ、普通にセクハラだからな!」
そうだろうか、と俺は首を傾げた。が、考えれば考えるほど、そうは思われない。そこで俺は、自分なりの考えを述べた。
「確かに、普通、知らん女の着替えを見るようなことは、社会的に許されることではないのかもしれない。しかし、繰り返しになるようで悪いが、ここは俺の部屋だ。お前の家でもなければ、女子更衣室でもない。何より俺は、一人でここに暮している究極の核家族だ。ここに着替えている女がいることなど知る由もない。
つまり、ここでお前が半裸でいることについて、俺には一切落ち度がないわけだ。そうだろ?」
「まあ……そうなんだが……」と女はキマリが悪そうに漏らす。
「目の前に裸の女がいて、俺にはそれについて、誰に咎められるいわれもない。そういう時、俺はな、見るんだ」
「見るな!」女は声を上げる。
「いや、お前取り敢えず、着たらどうだ。見られたくないなら、見られたくないなりの格好をすべきじゃないか?」
女はそれに答えず、憮然とした表情で腕に絡まったアンダーウェアを脱ぎ捨て、代わりに、床に広げたスカートだのブラウスだのを急いで着込んだ。
「もうヤダこの人……すごいまっすぐな目で見てくる……」などとボヤきながら。