遮蔽カーテンの影
私が看護師として働いていたとある病院は、地域に根ざした市立病院だが、如何せん古すぎて医療器具も入院ベッドもガタが来ているような所だった。
当時看護師一年目の私は、その日が初めての夜勤で、緊張しながら先輩看護師と仕事をしていた。
夜の病院はタダでさえ恐ろしいというのに、私が勤務していた内科のナースステーションは他よりも暗く、電球がチカチカと点滅してより恐怖を煽る。更に春先の暖かい日が続くとはいえ、夜ともなれば急に冷え込む時頃だ。背筋が冷えるとあるはずのないものがいるのでは、などと勘違いだってする。
夜中の零時を回る頃、ナースコールが鳴った。
一番奥の大部屋の患者だった。
「すぐ伺います」
私は懐中電灯を持ち、その部屋に向かった。
内科の病棟は立地が悪いせいか外の光は一切入らない。懐中電灯が無ければ自分の足も見えないほどの暗さだ。
私がその大部屋に入ると、しん、としていて、誰の寝息も聞こえなかった。懐中電灯でベッドを照らし、患者を確認するが、なんと誰一人としていなかったのだ。
「イタズラ·····かな?」
私は呆れたため息をついたが、窓際のベッドの一つだけを遮蔽カーテンが隠していることに気がついた。
懐中電灯で照らしてみると、ポツンとそこに座る影が映っていた。この人が呼んだのだろうか。私はカーテンを開けようとした。
「開けるな!」
しわがれた男の声がそう怒鳴った。鼓膜がビリビリとするような大声で、もしかしたら二つ隣の部屋まで聞こえたかもしれない。私は驚いてカーテンから手を離した。
上がる脈拍を無理やり押さえ込んで、男の人に聞いた。
「どうされましたか?」
「······」
「······」
「······」
どんなに待っても男は何も言わなかった。私はイタズラなのではと思い始め、照らされたカーテン越しに男をじっと見ていた。
男は老いているらしい割に体が大きいようだ。正座をしているのか座高も高く、背を曲げていなければきっと見上げるほどはあるだろう。
髭も髪もボサボサで、細い毛があちこちに跳ねているのがわかる。大分待っていると、男は枯れ枝のような腕を伸ばして私に聞いた。
「······お守りは、あるか?」
「お、お守り?」
私が黙っていると、男は更に腕を伸ばした。
「お守りは、持っているか?」
「どこのお守りです?」
「どこでもいいさ。お守りはお守りだもの」
「ええ、持ってますよ。祖母から貰った神社のお守りを」
私がそう言うと、男は腕を引っ込めて、「そうか」と言った。
「もう帰っていい」
男がそう言うので、私はナースステーションに戻った。
「おかえり。どこ行ってたの?」
ナースステーションに戻ると、先輩の鈴木さんが夜食を食べていた。私が急にいなくなったと思い、心配していたらしい。
私の分に買ってきたという梅と鮭のお握りと、お茶を一本もらい、鈴木さんの隣で夜食を食べた。
「ナースコールが鳴って、見に行ったんですけど、変なおじいさん? に掴まっちゃって」
「おじいさん? どこの?」
「一番奥に大部屋があるじゃないですか。左の廊下の先の······」
私がその時のことを説明しても、鈴木さんは変なものを見るような目で私を見ていた。私も信じてもらおうと躍起になって話したが、鈴木さんは笑って私の肩を叩いた。
「ちょっと仙崎さん! 私を驚かそうとしてるのね。あんまり本当みたいに喋るから、ちょっとだけ信じちゃったよ」
「嘘じゃありませんよ! 私本当にそんな事聞かれて······」
「ありえないわよ」
「どうして!」
「だってあなたの行ったところは倉庫なのよ。そのおじいさんどころか、病室なんてありゃしないのよ」
そう言われ、私は呆然とした。鈴木さんはご機嫌で夜食を頬張り、見回りするわ。と懐中電灯を持って席を立った。
私はお守りを鈴木さんに貸そうとした。自分でもこの行動はどうしてか分からなかった。鈴木さんは笑って「また冗談言って」とお守りをつついて行ってしまった。
私はナースコールから先程までのやりとりを一通り思い出すと、全身をガタガタと震わせた。今になって汗が溢れ、涙が止まらなくなってしまった。
結局それが原因で、私は一ヶ月で別の病院に移った。病院を離れる時、私は最後に鈴木さんと話したかったが、見回りに行ってからそのまま会わなくなっていた。
彼女は今日、夜勤なのだろうか?