その海賊、後悔
後悔後先に立たず──という言葉がある。
海賊船ガレオス号の船長レオは、今まさにそれを、身を以て感じていた。
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突如としてこちらに向かって走ってきた豪奢な貴族船に、レオは目を剥いた。
翡翠色の瞳が大きく開かれて、青い空と白い帆を映し込む。
貴族の船を襲うというのは、なかなかに勇気がいるものである。
大概大した成果は得られないくせに、リスクだけはやたらと高くつく。
大損するだけで、負けが決まった賭けのようなものだ。
──が、しかし。
その甲板に立つ女が酷く美しいものだから、ついつい欲が出た。
あれは、相当な値が付く。
見れば大した護衛もおらず──というより、そもそも人の気配があまり無い。
これ幸いと乗り込めば、危惧していた護衛が出てくるでもなく。あの美しい女が──よく見れば、それは大層若く。まだあどけなさを残した少女であったのだが──慌てもせず、柔い笑みで荒くれ者たちを出迎えた。
今思えば、そのときに不審に思って然るべきだったのだ。
──だがしかし、述べたとおり「後悔は後先に立た」ないわけで。
悠々と近づき、傷物にしてしまうぞなんて脅しをかけながら。そっと指を滑らせた頬の、絹の様な肌触りに、思わず「売り飛ばしてしまおう」という気持ちが揺らいだ。
本当に傷物にして囲ってやろうか、などという不埒な考えが首をもたげ、真っ直ぐに見つめ返す無垢な赤色に胸が高鳴る。
それはまるで、恋する乙女のような心地。
女がいないわけではない。抱いたことがないわけでもない。
今だって、拠点に気に入りの女の一人や二人は囲っているし、自分なりに可愛がっている。
だが、しかし。
そんな女たちに向ける感情とは、何かが違う。
侵しがたい神聖な何かに対する──畏敬の念のようなものさえ湧き上がってくるような──これは、なんだ。
レオを仰ぎ見る少女の口元が、ゆっくりと持ち上がって。唇は柔らかく開き、その小さな隙間から真珠のような歯が覗く。
「殿下以外が私に──勝手に触れていいとは申し上げておりませんことよ」
氷を鳴らしたような酷く冷たい声に、レオの抱いた幻想はパリンと音を立て、無残に砕け散った。
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そこからはもう、阿鼻叫喚の地獄絵図であった。
声を出す暇もなく。
発せられた言葉の意味を悟り、咀嚼し、理解するより前に。
少女の影から飛び出してきた黒い縄に、レオは抵抗する間もなく縛り上げられ、平伏させられたのだ。
甲板を支配する、静寂の間。
せ、船長ォ! と、誰かの叫び声をきっかけに、船上は戦場へと姿を変えた。
──が、しかし。
湾曲刀やらナイフやら棍棒やらを振り回す海の荒くれ者達は、立ち向かう端からレオと同じ運命を辿っていった。
いつの間にか後ろ手に縛られ、締め上げられ、武器は海へと投げ捨てられる。
たった一人のたおやかな少女に、大の男が──それも、荒事を生業とする男達が、手も足も出せないとは。
黒々とした影が、少女の足元から伸び、今や甲板を覆い尽くさんばかりにその枝葉を伸ばしている。
相変わらず、少女はそこから一歩たりとも動くことなく。ただ静かに微笑んでいれば、そこに殺意も敵意もない。
だからこそ、却って恐ろしい。
胸の高鳴りを感じたはずだった。
美しい芸術を鑑賞するような、その見事な造形に嘆息するような、畏敬の念があの時は確かにあった。
しかしそれは、それは──
「バケモンか……?」
「あら……私としたことが。名乗りを忘れるだなんて、失礼いたしました」
それは、本能が感じた畏れを、己が胸のときめきと勘違いしただけではなかったか──。
「センテナ王国クレイシア公爵が娘、イザベラ・クレイシアと申します。どうぞ、お見知りおきを」
まるで、この甲板が舞踏会の会場であるかのように。少女──イザベラは、蘇芳のドレスの裾を摘むと、優雅にお辞儀をしてみせた。
自身を縛り上げているのが、目の前の少女であるということを忘れてしまいそうな程、自然な所作。
「本日お尋ねしたのは、他でもありません。貴方達の所業に、殿下──センテナ王国第一王子、サイラス様が大層お悩みでいらっしゃるのです。……私は、それがとても悲しい」
ですから、とイザベラは続ける。
縛り上げる力は、更にその力を増して。遂に、呻き声が口の端から漏れ出した。
「死か従属か、お選びいただけますかしら……?」
とんでもない化物の巣に手を突っ込んでしまった。
藪から蛇どころか竜が出た。
だから止せば良かったのだ。負けの決まっている賭けなんて──。
後悔、後先に立たず。
「嫌だと言ったら……?」
「あら? 死か従属か、二択しかご用意しておりませんことよ? イエス、ノーでは、答えになっていないではありませんか」
まるで不出来な生徒を諭すような、優しく窘める声に合わせ、答えを促すように束縛はきつくなる。
「なぁ、お姫さんよ。もうちっと縄を緩め──いだいいだいいだい!! ぎぶぎぶ! 折れる!」
「駄目です」
「それはわかったっ痛え゛!」
「痛くしてますもの」
これが恨み辛みからの行動だったなら、どんなに楽だったろう。まだ光明はあったはずだ。
正であれ、負であれ、そんな"情"があればそこにつけ込むことも容易い。
だが、無関心では取り付く島もない。
鏡面に小波が立たないように、霞を押すことができないように、それはただ無意味な謀略と命乞い。
淡々と返される言葉に、最早選択の余地はないと知る。
「…………わかった。お姫さん、アンタに従おう。──従属だ」
バケモノにやる命は惜しいんだ、とレオは静かに白旗を上げた。
海の男も、海で散らさぬ命は惜しい。
船上の戦場は笑いどころです。(は?)
ここまで読んでいただきありがとうございました。