その令嬢、感動
センテナ王国公爵令嬢──イザベラ・クレイシアの一日は、香り高い一杯の紅茶から始まる。
朝日差し込む部屋の中、射干玉の黒髪が濡れたように輝く。
つと伏せた目蓋の、重たげな睫毛の向こう。まるで血のような、深い赤の瞳が、カップの中の水面を凝っと見つめていた。
いつもと変わらぬ、穏やかな朝である。
侍女が食器を片付ける、陶器の擦れる音と、小鳥の囀りだけが耳を撫でる。
「午後から殿下にお会いしたいのだけれど、先触れは?」
「送ってございますよ、お嬢様」
「ありがとう。それなら大丈夫ね」
真っ直ぐに長い黒髪、切れ長の瞳。
同世代と比べれば発育のよろしい身体に、白い肌。
年相応の可愛らしさは無いが、息をのむほどに「美しい」。
その美貌は、各国の王子から求婚があったなどという、真偽不確かな噂も流れる程である。
だがしかし、この少女の心に在るのはたった一人。
──センテナ王国第一王子、サイラス・レガトリアその人である。
厳しく冷たい美貌の少女は、彼という存在に対して酷く甘かった。
どれだけ甘いのかといえば、それこそ砂糖菓子やチョコレートに蜂蜜をたっぷりかけたような──とでも言えば伝わるだろうか。
しかし、その甘さは恋の甘さではなく──また、愛の甘さでもない。
彼の行いを全て許容し、彼の発言をすべて是とし、彼の思いを全て善とする。──そうした、存在への甘さ。
年頃の少女の、異性に向ける感情にしては、やや異質なそれ。
恋だの愛だのというものを、最早超越した──何か。
例えばサイラスが、「鴉は白い」と言ったとしたならば。ハイと言うのではなく。そうしてしまうのが彼女のやり方である。
サイラスが望むのであれば、望むようにした上で、その選択が最適解になるようにすればいい。
故に、彼に間違いはなく。彼が善で彼が全なのだ。
権力者に侍る人間としては、失格に近しい盲目的な信奉。
しかしながら、それを万事上手く回してしまうのが彼女の長所であり──同時に欠点でもあった。
「今日も殿下は健やかかしら?」
「お嬢様がいらっしゃれば、末永く健やかであらせられると思いますよ」
「うふふ、ありがとうリディ」
ころころと鈴を鳴らすような、朗らかな笑い声が、クレイシア家に日常の訪れを告げる。
──何事も、知らぬは当人ばかりであった。
✲✲✲
センテナ王国は、海に浮かぶ島国である。
国土はそれほど大きくなく、中小国家という言葉がよく似合う。
大陸と違い、国土を接しないため、国土を巡る戦争は無く。
穏やかな気候に豊かな農海産物。貿易の飛び地としても機能していれば、まさに楽園とも呼ぶべき美しい国家であった。
幸い、国際情勢も安定していれば、何の憂いもない──はずなのだが。
ごく親しい人を招き入れる応接間にて、客人と向き合う彼の表情は優れない。
先触れの通り、お茶をするに相応しい時間に現れた令嬢──イザベラは、そんな彼の様子を見るやいなや。頬に手を当て、思い煩ったような溜息を吐いた。
「嗚呼……殿下。先日の事、お怒りでいらっしゃいますの?」
「先日……? あぁ、婚約発表のことだね。……言いたいことがまったく無い訳ではないけれど、怒ってはいないから安心するといいよ」
「良かった! もし愛想を尽かされでもしたら、私……国と一緒に心中するところでしたわ」
「国ごと人質かい……?」
サイラスの質問に、ニコリと笑顔で答えてみせる彼女の訪いは、彼にとっても喜ばしいことではあったのだが。しかし、同時に面倒事の来訪を告げる、悩みの種でもあった。
いかんせん、彼女の基準は一般からかけ離れた所に存在しすぎている。
それなりに長く共に在ったはずなのだが──未だ、その挙動には慣れないままであれば、困惑が勝つ。
「それにしては浮かないお顔。せっかくの休日ですのに。──はっ! 最近巷を騒がせる賊に頭を悩ませておいでですのね……! 直ぐに死か従属か選ばせてまいります!」
「待て…………」
何故か瞳をキラキラと輝かせるイザベラに、サイラスは一層頭を抱える。
確かに最近近海で出没する海賊船に、貿易船が襲われていて悩ましいところではあったのだが。──彼女がそうすると言うのであれば、宣言通り海賊たちは「死か従属か」の二択を迫られることになるだろう。
悪いことでは決してない。ないのだが──別に海賊のせいで浮かない顔をしていたわけではない。
今日は一体何が起きてしまうのかと、それを不安に思っただけである。
案の定、こうして何か起きそうなわけだが。
「ですが殿下、いずれにせよ看過することはできませんわよ。──殿下がいずれお治めになる国に牙を剥く駄犬には、きちんと躾をしなければ」
「……そうだね、襲われて亡くなった人もいるそうだから、こちらとしても手をこまねいているわけにはいかないのだが…………」
「何か問題が?」
「君が殺しすぎてしまわないか不安かな」
そう言えば、突如として輝き出したイザベラの表情に。サイラスは、己の返答の失敗を悟った。
「まぁ! なんとお優しいのでしょう。ですが殿下……我が主上──! 野良犬にかける慈悲など勿体のうございます!」
「……ベラ。君の能力は微塵も疑ってはいないけれど、でも君は俺の婚約者だ。──わかるね?」
「ええ、それはもう!」
二人がけの小さなテーブル越し。二人の視線が絡み合う。
サイラスはイザベラの手をそっと握ると、幼い子どもに言い聞かせるように──或いは、愛おしい恋人に囁く睦言のように、言葉を紡ぐ。
「万が一があったら、俺はとても悲しいのだけれど?」
ぱちり。ぱちり──と、長い睫毛が瞬いて。暫し、時が止まったような間が開いた。
「……あ……嗚呼……。本当にお優しい……! 今のお言葉を聞いて、一層の励みになりましたわ!」
「……うーん。駄目か」
握った手はそのまま、サイラスは心の中で天を仰ぐ。
すべてが裏目に出ている。──最早、己の存在自体が物事を裏目に導いているような気さえする。
「私がきちんと成果を挙げ、生きて帰ってくれば宜しいと、そう仰ってくださるのですね──!」
「……そうだね。それが望ましいね」
綺羅綺羅と、宝石を散りばめたように。紅い双眸が喜色に煌めく。
その無邪気な輝きに、サイラスは静かに白旗を上げた。
哀れな海賊に、従属という幸いあれ。
届かぬ祈りは、きっと海の泡となった。
ここまで読んでいただきありがとうございました。