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改めて魏志倭人伝を読み解く ー 有象無象の珍説奇説を木っ端微塵に蹴散らす  作者: 幸田 蒼之助
今後も未解明のまま放置される

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日高祥氏リポート「笠置山墳丘墓」(後)

 日高氏の調査によれば、笠置山墳丘墓は地山整形(元々存在する小山を削って整形)による築造で、著書記述から想像するに前方部より後円部の方が低いようです。これも前節にて述べた、生目1号墳他との類似性が気になります。

 さらには、生目1号墳の後円部径が74mですから、明らかに笠置山墳丘墓を意識して築造されています。氏曰く、両者は相似型だそうです。


 ちなみに、興味深いのはその周溝(V字溝)です。

 例えば応神陵や仁徳陵を見て下さい。古墳の外形をそのままなぞるように、周溝が巡っています。ですがこの笠置山墳丘墓は周溝が横に大きく張り出していて、墳丘墓のみを囲んでいるわけではないのです。

 後円部の上側(つまり北側)には、南北33.6m、東西42mの楕円形円墳があり、また左側(西側)の広大なエリアが墳丘墓と一体となって(・・・・・・・・・・)周溝に囲まれているらしいのです。


 その左側エリアにあるのが、建物、及び100を超える土壙墓。そして何と、膨大な数のたたら製鉄炉。つまりこの墳丘墓は、単なる墳丘墓ではなく、

 ――上空から見ると羽根を広げた鳥型をした、葬祭複合体(コンプレックス)だ。

 というのです。


 如何でしょうか。こんな墳丘墓や古墳が、他に存在するでしょうか。


 何故、前方後円墳はあんな形をしているのか。どんなコンセプトがあるのか。――

 つまりそもそも、太古より鳥信仰(鶏はアマテラスの神使)があるのです。だから鳥型をコンセプトに葬祭コンプレックスが築造された。前方後円墳のあの形状は、その名残りではないか……というのが日高氏の推察です。

 なお、そのせいなのかは不明ですが、当地の旧名は「瓜生野(かしわ)田」です。地名にまで鳥信仰の痕跡らしきものが見え隠れします。


 また「径百余歩」のみならず、土壙墓100強というのも、魏志倭人伝の記述「徇葬者は奴婢百余人」に合致します。

 それらを以って拙速に、

「卑弥呼の墓だ」

 と断定する気はありませんが、ただし記述通りの墳丘墓が存在するのはまぎれもない事実なのです。即ちこれこそが、邪馬台国宮崎説の極めて有力な物的根拠だと言えるでしょう。


 幸田が氏の著書に目を通した限りでは、笠置山墳丘墓に槨構造が存在したかどうかは書かれていません。氏も確認出来ないうちに、破壊されてしまったのでしょうか。

 ですが前述の通り、膨大な出土品の記録は弥生時代の遺物ばかりで、古墳時代の遺物の記録がありません。ですのでやはり、古墳ではなく墳丘墓ではないかと考えられます。実際、専門家の出土品鑑定によれば2世紀後半から3世紀中頃の物だそうですから、正に卑弥呼邪馬台国の時代に合致します。

 この笠置山墳丘墓こそが、新たな古墳時代の幕開けを促し、前方後円墳全盛へと誘ったではないでしょうか。


 ついでにもう一つ興味深いのは、弥生期既に、宮崎で大々的に製鉄が行われていた事です。

 氏が膨大な数の、たたら製鉄炉跡や炉片を発見しています。膨大な数の鉄滓や、金床石等も採集しています。土壙墓からは副葬品らしき鉄剣も多数見つかっているそうです。

 葬祭コンプレックスの建物跡の柱穴から、庄内式土器片と鉄滓が出土したり、周辺の複数の弥生遺跡でも大量の鉄滓が出土していることから、古代宮崎においては極めて早くから製鉄が行われていた事は明白です。


 北部九州の学者先生方は、

「3世紀にはまだ、国内に製鉄技術は存在しない。出土した3世紀の鉄器類は全て、大陸や半島からの輸入品だ」

 とおっしゃっていますが、宮崎には既に製鉄技術が存在したのです。宮崎の製鉄は北部九州から伝わった、という説もまた、疑わしいのです。


 幸田の邪馬台国宮崎説では、北部九州は2世紀終盤、宮崎を出た崇神天皇により平定されたと考えます。実際北部九州では、2世紀末頃に多くの集落の環濠が埋め立てられています。これはそれらの地が、他勢力により征服された事実を裏付けます。

 これぞ魏志倭人伝の、

「倭国は乱れ、相攻伐すること歴年」

 です。つまり卑弥呼の指示で崇神天皇が北部九州平定に乗り出し、製鉄技術もその際北部九州に伝わったのかもしれません。


 話を戻します。

 日高氏が再三にわたって、県や市へ調査を訴えたにもかかわらず、結局笠置山墳丘墓は破壊されました。

 何故かまともに取り合って貰えなかった事が、著書記述から読み取れます。氏が著書中で「先生(専門家)」と呼ぶ方にも助けを求めたり、はては藁にもすがる思いで(吉野ヶ里遺跡のある)佐賀県教委にまで窮状を訴えたそうですが、全くダメ。

 不可解な事に、一度は調査が実施され(後円部上側にある、楕円形の円墳の方か)、試掘の結果、石棺が発見されたそうです。

「これで本格調査が始まる筈」

 と先生(専門家)に教えられてホッとしていたところ、数日後に工事が再開され全て破壊されたのだとか。


 他にも、日高氏は郡司分古墳群について触れています。うち1つは110mもある柄鏡式――つまり墳丘墓もしくは前期型前方後円墳――らしいのですが、これまた氏の目の前で破壊されたそうです。県の前方後円墳一覧にも載っていないため、おそらく未調査でしょう。

 また、同じく柄鏡式120mの小松谷古墳も未調査のまま破壊されているそうで、宮崎県は一体何を考えているのかと悲しくなります。


当「笠置山墳丘墓」に興味を持たれた方は、以下の、大地舜氏(クラハム・ハンコック「神々の指紋」の翻訳者)のリポートもご覧下さい。

幸田の駄文より余程しっかりとした、詳細なリポートですので、是非お読み頂きたいと思います。


https://www.shundaichi.com/37034393402148822269123923506937444.html

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