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改めて魏志倭人伝を読み解く ー 有象無象の珍説奇説を木っ端微塵に蹴散らす  作者: 幸田 蒼之助
今後も未解明のまま放置される

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28/35

学者達は魏志倭人伝の謎を解明する気がない

 これまで4章にわたって述べてきたように、魏志倭人伝を丹念に紐解き、かつ記紀歴史観に照らし合わせれば、卑弥呼邪馬台国の謎はすんなり解けるのです。

 かつ現代における考古学的成果が、その裏付けになるのです。


 魏志倭人伝は、楽浪海中(・・)即ち日本列島に住む(・・・・・・・)倭人について記述しています。著者陳寿は冒頭にわざわざ、そう明示しています。つまり邪馬台国は間違いなく、日本列島のどこかに存在したのです。

 三国志第30巻「烏丸(うがん)鮮卑(せんぴ)東夷(とうい)伝」全体と、その一部たる倭人伝との兼ね合いをきちんと考慮すれば、邪馬台国は半島にあった……だとか、そういった珍説奇説の類いは議論の余地無しなのです。


 ちなみに「邪馬()国/邪馬()国」の、「壹」と「臺」の文字の違いについても論争があります。(三国志)魏志倭人伝とそれ以降では、表記がそのように異なります。

 ですが結局、どちらも「とぅ」と発音するのです。何故なら「壹」の(つくり)は「(とぅ)」ですし、また「臺」も「とぅ」と読んだ形跡が存在します。なのでどちらにせよ、読みは「ヤマトゥ国」で正解なのです。

 それぞれが後々「壹→壱」「臺→台」と変化したにせよ、そもそもの発音は「とぅ」で共通しているのです。


 折角魏志倭人伝に、邪馬台国までの詳しい経路が書かれているにもかかわらず、邪馬台国の位置が長年謎のままだった。これはつまり、

「現・福岡県糸島市付近で間違いない」

 とされていた、国内重要拠点たる「伊都国」の比定が誤っていたせいです。

 ソリューション(問題解決)の基本として、

「間違いない、常識だ、とされている箇所を再度疑うべし」

 という考え方があります。常識だ、論争の余地もない……とされてきた伊都国糸島説をこそ、実は真っ先に疑うべきでした。


 本来そこは、魏志倭人伝に書かれている経路の矛盾から、変だと疑わなければならないのです。

 もし伊都国が糸島市付近だったとすれば、わざわざ末廬国唐津湾を経由した理由が分からない。壱岐からダイレクトに、糸島市へと渡れば良かった筈なのです。しかも末廬国唐津湾から糸島市への方角(・・)も、記述と完全に矛盾します。

 かつその次の、投馬国や邪馬台国へ向かう記述を見るに、伊都国の南側は海でなければ説明がつきません。ですが糸島市の南側と言えば山です。これまた完全なる矛盾です。


 そして、国内外を結ぶ外交や交易の一大拠点、という伊都国の役割とも矛盾します。魏志倭人伝を丹念に読めば、伊都国は正にそのような意義を持っていた事が解りますから。

 糸島市の位置関係は、外交の窓口としての役割を果たすには適しているかもしれませんが、対馬海峡に面しているので防衛上の懸念があります。本来ならば後の大宰府のように、外海から一歩内陸側に入り込んだ要衝に、そのような拠点が築かれて然るべきなのです。

 加えて糸島市は、国内――連合国家邪馬台国――における交通の一大拠点……とするには相応しくない位置、地形だと言わざるを得ません。


 結論を言いますと、伊都国糸島説は、

「魏志倭人伝記述と完全に矛盾しているのに、邪馬台国畿内説と北部九州説を共に(・・)説明するに相応しい場所だから」

 という思惑で、敢えて諸々の矛盾に目をつぶり(・・・・・)、未だ学会が後生大事に掲げているだけなのです。畿内説、北部九州説双方にとって、伊都国糸島説を唱え続ける事にメリットがあるからなのです。


 換言すれば、伊都国糸島説の看板を下ろしてしまうと、両者がプロレス(後述)を続けていられなくなります。それはアカデミズムにとって、非常に都合が悪いのです。


 では、伊都国糸島説を見直すと、そこに何が見えてくるのか。

 つまりは幸田が、ここまで4章にわたり解説してきた「邪馬台国宮崎説」です。

 これこそが数多(あまた)ある諸説の中で、一番客観的、かつバランスの取れた説だと言えるのではないでしょうか。ちょっと複雑な数学の問題がキレイに解けた時のような、スッキリ感があります(笑)


 邪馬台国が宮崎平野だったとすれば、魏志倭人伝に記された経路情報とも矛盾なく説明がつきます。記紀歴史観とも合致します。そして何より、畿内ヤマトとの政治力学関係にも合理的説明がいきます。

 かつ、それを考古学的成果が裏付けています。なにしろ実際に、魏志倭人伝記載の卑弥呼の墓と完全に一致する巨大墳丘墓が、宮崎市に存在するのです。


 ですが、アカデミズムとしてはそれを認めるわけにはいかない……という事情があります。それが第1章の冒頭で述べた、彼らの役割や思惑なのです。


 戦後のアカデミズムは、占領軍GHQによる「公職追放」からスタートしました。大学教職や学校教師が全て、クビになったのです。

 彼らが再度職を得るためには、アメポチになる必要がありました。つまりGHQの目標たる日本破壊スキーム構築の、片棒を担ぐことを約束した人々のみが、大学のポストや教職にありつけたのです。


 ですから彼らは、GHQの掲げる「War Guilt Information Program(戦争犯罪宣伝プログラム)」に則り、太古に遡り我が国の歴史を破壊し始めたのです。何故ならそれこそが、「強い日本人」の矜持の源泉であると見做されたためです。

 日本人を弱体化するためには、まず日本人の歴史を毀損すべきだ、という戦略が掲げられたのです。そして学者や教師がその実働部隊となりました。


 現職の学者先生方は、

「いやいや。そんな訳あるかよ(ワラ」

 とおっしゃるかもしれませんが、貴方がたの師や先輩達は間違いなく、そういった思惑の(もと)歴史教科書を書き直してきたのですよ。


 そういう、アメポチ(・・・・)アカデミズムとしては、まず神武史観を認めるわけにはいきません。長く栄えある日本の歴史の、正に象徴ですから。

 そこで太古の歴史を「神話、ファンタジーだ(ワラ」と無視し、上代天皇の実在すら否定してきました。それこそ宮崎には無数の神武神話が存在しますが、丸っきり無視しました。「臭いモノに蓋」のスタンスを維持しました。


 ましてやさらに、邪馬台国さえも宮崎平野だったと判明し、それが神武史観とキレイに繋がってしまう……なんて話は絶対に受け入れられないわけです。戦後70年にわたって築いてきた、アカデミズムの思惑による古代史観が、根底から崩れますから。


 よくよく素直に考えれば、卑弥呼邪馬台国はそもそも、神話の地「日向(ひむか)国」であった蓋然性が濃厚なのです。

 しかしそれを一顧だにせず、畿内だ北部九州だと騒ぎ続けた事自体、不自然です。つまり学者達は、

「何となく日向(宮崎平野)っぽい……」

 という漠然たるイメージを抱きつつ、それを忌避すべく畿内説や北部九州説を掲げたのではないか……とさえ勘繰ってしまいます。これぞ「臭いモノに蓋」です。


 つまり思惑を同じくする者同士が、プロレス――出来レース――を続けているのではないでしょうか。

 だからこそ、幸田に言わせれば実にあっさり解ける「魏志倭人伝の謎」を、学者先生方が未だ解かない。いや真面目に解こうとしない。

 「魏志倭人伝の謎」は、戦後アカデミズムにとってタブーなのです。だから彼らは真剣に挑まず、プロレスに明け暮れているのです。このままでは今後もずっと、謎のままに留めておくつもりなのでしょう。


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― 新着の感想 ―
[良い点] ついに最新話まで追いついてしまいました! めっちゃ面白いです! 歴史は詳しくありませんが楽しく読んでます! 謎が解けるってのは気持ちいいですよね!
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