記紀歴史観と魏志倭人伝記述が繋がった!!
第1章の最初にも書いた通り、我が国の古代史に卑弥呼邪馬台国の歴史が登場しないのは、いわゆる古代史最大のミステリーとされています。
そこで大昔から、様々な人々がこの課題に挑みました。
最初は、
「神功皇后こそが卑弥呼だったのではないか」
と、多くの人々が考えました。日本書紀などは正に、それを意識して編纂されていると言われています。
ですが魏志倭人伝に描かれている卑弥呼像と、我々の知る神功皇后像には大きな隔たりがあります。
そこで最近の学者や研究者は、
「第7代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫こそが卑弥呼ではないか」
といった説を唱えています。
根拠は、姫が巫女だったと書かれているため……だそうです(笑)
いやいや弱すぎますわ。それに年代的にもちょっと微妙です。
再度、魏志倭人伝をよく読んで下さい。邪馬台国関係者の名称に着目すべきです。
まず、邪馬台国長官が「伊支馬」と書かれています。
魏朝の人々が倭人の発音を聞き取って書いているわけです。既に何度か述べたように、あちらとこちらでは言語学的特質が異なりますので、正確に聞き取れたのかどうかは非常にアヤシいです。おまけに当時の漢字の発音も、今となっては全く不明ですから、
「いくま、いくめ、いきま、いきめ、いこま……」
等々、様々なケースを考慮すべきです。
邪馬台国宮崎説の核心部分を成すのが、宮崎市中心部にある「生目」という地名です。当稿にて再三触れていますが、生目古墳群という特筆すべき遺跡が存在します。
その生目古墳群からざっと4km弱の場所に、「生目神社」が存在します。
非常に古い神社であることは間違いありません。11世紀の宇佐大鏡(宇佐神宮の記録)には既に、その名が記されています。ですがその後の戦乱のせいで生目神社の記録が失われ、創建の由緒等は不明です。
生目神社は今日、
「藤原景清という源平時代の平氏の落人が、当神社で目を洗ったら眼病が治った。以来、それにちなんで『いきめ神社』と呼称された」
と言われています。
なるほど、と納得しそうになりますが、これもまた奇妙な話ですよね。
藤原景清(平景清)。確かに当時、宮崎では多少名の知れた人だったようですが、所詮は落人です。
極めて古くから存在する由緒正しい神社の名前を、たかだか落人のエピソードにちなんで、敢えて変更するでしょうか。非常に不自然です。
実はこの生目神社には、垂仁天皇の謂われがあるのです。
第11代垂仁天皇。本名「イクメイリビコ」です。常陸国風土記や令集解には、「伊久米天皇」「生目天皇」と記載されています。
これぞ正に、生目神社の由来……ひいては宮崎市生目という地名の謎を解く鍵ではないでしょうか。
さらには魏志倭人伝に記されている「伊支馬」の正体を明かし、我が国の記紀に記された歴史と繋がるキーとなるのではないでしょうか。
前章最終節でも述べましたが、神武東征及びその即位は紀元前1世紀です。これは地質学や考古学的裏付けがあります。
当時は春秋暦もしくは月読暦という、いわゆる二倍年暦が使用されました。これは魏志倭人伝にもそう書かれていますし、正統竹内文書の伝承者である第73代武内宿禰こと、つい先日亡くなった竹内睦泰氏もそう明かしています。
この仮定に基づいて、神武天皇即位を紀元前1世紀半ばとし、歴代天皇の即位年を二倍年暦で計算し直すと、第11代垂仁天皇は正に卑弥呼の時代の方だと判るのです。
かつ、記録こそ失われているももの、垂仁天皇は古代宮崎において活躍されたため、生目の地名や神社名が存在するのではないでしょうか。
推測はこれにとどまりません。その1代前、即ち第10代崇神天皇を見て下さい。
お名前は「ミマキイリビコ」です。
改めて魏志倭人伝を眺めて下さい。邪馬台国副官として「彌馬獲支」の名があります。発音はおそらく「みまぉぁっき」です。仮に歯の悪い年配の倭人が「みもぁき」と多少アバウトに発音すれば、魏朝の人々は「みまぉぁっき」と聞き取って「彌馬獲支」と記述しそうなものです。
で、この「彌馬獲支」こそが実は、ミマキイリビコ崇神天皇もしくは御妃ミマキヒメではないでしょうか。
崇神天皇もまた、前述のように二倍年暦で計算し直すと、長寿だった卑弥呼と年代的に重なります。
崇神天皇といえば、記紀によれば「ハツクニシラス」の名を冠された、上代天皇政権における中興の祖とされています。これぞ正に魏志倭人伝に記された、女王卑弥呼擁立以前の、
「その国、本は亦、男子を以って王と為す。住むこと七、八十年。倭国は乱れ、相攻伐すること歴年」
という記述に合致するのではないでしょうか。
であれば卑弥呼は、第9代開化天皇皇女「ミマツヒメ」ではないかと幸田は想像します。
記録ではあたかも、第10代崇神天皇の妹であるかのように書かれています。しかし上代天皇の皇子皇女は、全て男児が第一子であるかのように記述されており、少々不自然です。ですから実は、ミマツヒメは崇神天皇の姉だったかもしれません。
魏志倭人伝には邪馬台国長官について、「卑弥呼の男弟」と書かれています。ですが弟たるミマキイリビコ崇神天皇は記紀の記述通り、始終本国を不在にし、諸国征伐に明け暮れていた。そのためその息子……つまり卑弥呼の甥であるイクメイリビコ垂仁天皇に、本国統治を任せていたのではないでしょうか。
さらに付け加えると、魏志倭人伝によれば卑弥呼の後継者は宗女「壹與」と書かれています。宗女とは、姪もしくは一族の女という意味だそうです。
なお、「壹與」の読みですが、実は今日、「壹」(魏志倭人伝記述)も「臺」(後漢書東夷伝他の記述)も、「とぅ」と発音することが判っています。「壹」は旁が「豆」。「臺」も例えば昔の大陸人や半島人が、博多の事を「覇家臺」「八角島」と表記しています。
ですので、邪馬壹国(邪馬台国)の読みは「やまと」、卑弥呼宗女名は「とよ」です。
というわけで改めて、崇神天皇皇女を調べてみて下さい。「トヨスキイリビメ」という名前がありますよね。卑弥呼ミマツヒメから見れば姪にあたる、有名な巫女です。
つまり、トヨスキイリビメこそが、魏志倭人伝に書かれている「壹與」……卑弥呼の後継者なのです。
おまけに前節にて述べたように、魏志倭人伝記載の卑弥呼没後事情と、景行天皇及びヤマトタケルによる熊襲征伐が概ね符合します。
こうして魏志倭人伝に記載された名称と、記紀の歴史記述が見事に繋がりました。皆、皇室の人々です。
両者をちゃんと読めば、我が国古代史最大の謎は、謎でも何でもないのです。
魏朝の外交相手「邪馬壹国」は「やまと国」でした。
それは畿内ヤマトではなく、神武東征の出発地たる日向の国……即ち本家ヤマトでした。だから当時既に大勢力となった畿内ヤマトといえど、本家が魏朝と外交を結ぶことに異を唱えられなかった。
かつ畿内ヤマトとは同族ながらも別勢力だったからこそ、記紀編纂時点で本家の歴史が曖昧になっていたのではないでしょうか。或いは畿内政権の正統性を主張したいがため、本家ヤマトの歴史を抹殺してしまったのではないでしょうか。
というわけで幸田に言わせれば、卑弥呼邪馬台国の謎は、今日判明している諸々の情報を仔細に検討すれば割とあっさり解明可能なのです。
しかしながら、アマチュア研究家はともかくとして、本職の学者さえも未だ真相に近づけずにいます。これはどういうことでしょうか。
次章にて、その事情を明らかにしたいと思います。




