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改めて魏志倭人伝を読み解く ー 有象無象の珍説奇説を木っ端微塵に蹴散らす  作者: 幸田 蒼之助
考古学視点と歴史観

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政治力学という新たな視点

 卑弥呼の墓は、魏志倭人伝の記述を素直に信じると、前節でも述べた通り全長150mクラスです。

 殉葬者100人オーバーという記述もありますから、確かに巨大な墓だったでしょう。

 では卑弥呼時代の邪馬台国に、巨大な墓といえば卑弥呼のみだったのでしょうか。卑弥呼の墓のみ突出して巨大な墓が造られた、と考えるべきでしょうか。

 いや、それは少々不自然ですよね。


 なにしろ邪馬台国は、大陸の魏朝が、(タテマエ上はともかく)事実上の対等外交相手と見做しているのです。それは魏志倭人伝を精読すれば解ります。

 つまり魏朝の対等外交相手たる邪馬台国は、その強大な権威や権力を背景に、卑弥呼の墓以外にも100mクラスの墓を複数、築造していて然るべきだと言えるでしょう。

 卑弥呼の墓だけが突出して大きかった、その他は小型や中型の古墳(または墳丘墓)が少々……ではなく、

「全長100mクラスの、弥生後期の墳丘墓もしくは最初期型の古墳がゴロゴロ存在するような場所があれば、それこそが邪馬台国の最有力候補である」

 と考えられるわけです。


 そのような候補地が、考古学的に見て全国に幾つ存在するでしょうか。

 かつ、そこは政治力学(・・・・)的に考えても、

「魏朝が倭国の政権、首都とみなすに相応しい場所」

 である筈なのです。


 これは非常に重要な視点です。この点、敢えて強調しておきたいと思います。


 陳寿は魏志倭人伝を、中華思想に基づいて執筆しています。

 ですが注意深く読めば、魏帝が卑弥呼邪馬台国を、周辺諸国とは別格扱いしている事が解ります。

 周辺諸国をけもの偏(・・・・)付きの名前で卑下する一方、倭人のみ例外的に、大国かつ文化国と見做しています。冠を被っていない、とか、みんな裸足だ……などと細かいところにケチをつける一方で、モラルや習俗が素晴らしいと倭人を持ち上げています。


「制紹、親魏倭王卑弥呼。帯方太守、劉夏が使を遣わし、汝の大夫、難升米、次使、都市牛利を送り、汝が献ずる所の男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈を奉り、以って到る」

 と書かれているように、卑弥呼邪馬台国はファーストコンタクトにおいて、驚くほどケチ臭い(笑)貢物を差し出しました。生口(奴隷!?)計10人と、布を20m強。あたかも、

「挨拶に出向く以上、仕方ねえから一応申し訳程度の手土産を持参したわ」

 といった感じです。

 これに対し、魏帝は卑弥呼に、金印紫綬に加え膨大な贈物を差し出しました。いや卑弥呼のみならず、使者の難升米や都市牛利にまで大層ゴージャスな礼品を授けています。


 まあ確かに、それこそが中華冊封システムにおける慣例ではあるのですが、それでも破格の扱いです。なので卑弥呼の側が恐縮し、改めて膨大な返礼を贈っています。そこから両者の親密な外交が始まりました。


 魏朝だって、卑弥呼邪馬台国を対等外交の相手と定めるにあたり、当然ながらそれなりの情報収集と判断を行っている筈です。

「な~んかショボい貢物を抱えてやって来た連中が、『オレ達ぁ倭国の統治者卑弥呼サマの使者だ』と言うから、それをすっかり鵜呑みにして金印紫綬を授けたアルね。ところがそいつら、実は倭国の辺境に棲む弱小勢力に過ぎんかった……。哎呀(あいや)~、下手こいたアルよ」

 では済まないのです。

 そんな事になれば、魏朝にとって極めて大きな「汚点」「失策」となってしまいます。


 しかし、決してそういうわけではありませんでした。後々まで大陸の歴代王朝の正史に、卑弥呼邪馬台国の記述がみられます。ですが、

「卑弥呼邪馬台国は、実は倭国の統治者でも何でもなくて、単なる一地方勢力に過ぎんかった」

 とは書かれていません。

 ですから卑弥呼邪馬台国は、間違いなく当時の倭国の国家政権そのものであったか、もしくはそれに匹敵する国内最大勢力であったか……のいずれかなのです。


 ここで考慮すべきは、卑弥呼邪馬台国時代、畿内には既に強大な勢力――畿内ヤマト勢力――が存在した点です。


 学校の歴史教科書には、何故かそうは書かれていませんね(苦笑)

 しかしこれは、考古学的成果からも明白です。皆さんもご存知のように、畿内には3世紀中盤以降の巨大古墳が多数存在します。

 強大かつ安定した勢力無しに、巨大古墳をドカドカ造りまくる事など出来ますか? 無理ですよ。

 少なくとも3世紀中盤以前、既に畿内ヤマトが強大な勢力を得ていた事は、疑いようがありません。この件、次章にて改めて解説します。


 この3世紀中盤以前というのは、正に卑弥呼が権勢を誇った時期です。つまり畿内ヤマトが強大な勢力を確立した……と考古学的に証明されている時代は、卑弥呼邪馬台国時代とダブっているのです。ですから両勢力が併存(・・)していたか、もしくは政治力学的包含(・・)関係にあったと考えられます。


 卑弥呼邪馬台国は、その畿内ヤマト勢力を差し置いて(・・・・・)

「我こそは倭国の統治者だ」

 と名乗って魏朝と対等に外交を結べたのです。政治力学的に、それを成し得た存在であると言えます。

 これは非常に重要な視点だと思いませんか。

 魏朝も、卑弥呼邪馬台国を倭国の正当な統治者と認める。畿内ヤマトも、両者の外交にケチをつけられない。妨害も出来ない。正にそのような政治的存在こそが、卑弥呼邪馬台国なのです。

 邪馬台国所在地論争において、実はこれぞ最も重視すべき視点なのです。


 そしてそれが、考古学的にも裏打ちされる場所とは、どこなのでしょうか。

 つまり弥生後期の大型墳丘墓や、初期型前方後円墳が幾つも存在する場所……です。魏志倭人伝に書かれているような100m超級の墓が、ゴロゴロ存在する場所です。

 それこそが、「我こそは倭国の統治者だ」と名乗って魏朝と外交を結んでも、畿内ヤマトからケチのつかない政治学的な力関係(・・・・・・・・)を有していたのです。


 そう考えると、答えはひとつですよね。

 記紀歴史観を踏まえて推測するに、卑弥呼邪馬台国は、「古代日向勢力」即ち「本家ヤマト」以外にあり得ないのです。出雲でさえ、候補たり得ないのです。


 邪馬台国が本家ヤマトだからこそ、魏朝に対し、

「こっちが本家だ。倭国の正当な政権だぞ」

 と堂々と主張出来たわけです。魏朝もそれをすんなり認めたし、畿内ヤマトもそれにケチのつけようがなかった。

 実に明快です。かつ考古学的にも、まさしく宮崎平野はその条件にピッタリなのです。これこそが前節において述べた「答え」です。


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