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改めて魏志倭人伝を読み解く ー 有象無象の珍説奇説を木っ端微塵に蹴散らす  作者: 幸田 蒼之助
魏志倭人伝を読み解く

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有明海に面した佐賀平野こそが本命

 伊都国はおそらく、佐賀平野です。唐津湾末廬国の位置が正しいならば、そこから東南五百里(40km弱)と言えば佐賀平野なのです。

 皆さんも、改めて地図をご確認下さい。


 もし糸島伊都国説を()るならば、奇妙な事に気付きませんか?

 地図をよく眺めて下さい。

 そうです。糸島の海岸線は、壱岐から直接見えるのです。ですからわざわざ唐津湾に上陸し、船から大荷物を全部降ろして、厄介な陸路を糸島まで移動する必要が無いのです。壱岐島から糸島へ、船で直行すれば良い話なのです。


 ちなみに唐津湾-福岡県糸島市ルート上の海岸線は、現在も卑弥呼邪馬台国時代も大差ないと考えられます。何故なら地球気温が偶然、現在と似たりよったりなので、海水面の高さが同程度だと考えられるからです。

 当該ルートは現在、海岸間際の岸壁や平地を縫うように、道路や鉄道線路が通っています。

 そんな厄介な陸路を通る事に、魏朝御一行様がすんなり納得したでしょうか。

「壱岐島、あそこに見えてるアルよ。何で直接、糸島伊都国に向かわなかったアルか!?」

 一行はぶうぶう文句を言いながら、糸島伊都国まで移動したことになります。これは非常に不可解です。


「いや、そりゃぁ……復路の事情を考えて、唐津湾末廬国に船を留めたんじゃね!?」

 と考える人も、いらっしゃるかもしれません。確かに復路は、唐津湾から出港するより糸島から出港する方が、渡航がより困難な可能性があります。

 しかし、そうだとすれば、実は「伊都国」という概念そのものが崩壊するのです。

 こういう発想は、アタマの悪……もとい、思考力の不自由な(笑)学者先生方には思い付かない点だと思われます。皆さんも良くお読み頂いて、ご理解下さい。


 伊都国について、魏志倭人伝の記述を調べると、

「女王国より以北は、特に一大率を置き検察し、諸国はこれを畏憚(いたん)す。常に伊都国に治す。国中に於ける刺史の如く有り。王が使を遣わし、京都、帯方郡、諸韓国に詣らす、及び郡が倭国に使するに、皆、津に臨みて捜露す。文書、賜遺の物を伝送し女王に詣らすに、差錯するを得ず」

 と書かれています。つまり後世の大宰府のような、遠国統治の重要拠点だった事が判明するのです。かつ半島と国内を中継する港湾都市です。

 だとすれば一大率を置く伊都国は、当然にして、極めて合理的な場所に位置していたのではないでしょうか。


 つまり伊都国は、


・卑弥呼邪馬台国から程遠くて、

・(国内)遠国統治の要となる位置にあり、

・同時に国内各地との移動に便利な港湾都市で、

・その上、半島経路の中継点として最適で、

・防衛上の懸念の少ない場所に位置した。


 と考えて良い筈なのです。その5条件を満たす場所を、重要拠点と定める筈なのです。幸田が卑弥呼サマならば(笑)、間違いなくそう考えて一大重要拠点を決めます。

「なるほど伊都国か……。うん、そこを拠点とし、一大率を派遣しよう」

 と決定するでしょう。それが一番自然な思考なのです。


 で、それは、どう考えたって糸島市ではありません。

 糸島は確かに平地で、都市開発に向いています。しかし面積はそれ程広いとは言えず、大都市建設に適しているとは言えないかもしれません。

 そして何より、南側が山に阻まれ、他所(よそ)への移動が困難なのです。加えて北側が海で、半島方面に面しているため、常に防衛上のリスクに晒されます。


 ですから一大重要拠点に適してるとは言い難いのです。言い換えると、

「何故、糸島なんかを重要拠点と定め、一大率を置いたのか……さっぱり意味が分からん」

 というわけです。


 幸田は無慈悲にも、学者先生方の主張に対し、さらに追い打ちをかけます(笑)。ここを先途とばかり、糸島伊都国説を徹底的に粉砕します。


 魏志倭人伝記述を分析するに、伊都国の南側は海に面していた蓋然性が極めて高いのです。何故なら投馬国や邪馬台国へ「南へ(・・)水行○日」と書かれていますから。

 しかし、糸島市はどうでしょうか。

 地図をよくご覧下さい。前述の通り、南側はずっと山ですよね。……


 ついでに言えば、ここで宗像末廬国説も消えます。

 もし宗像市が末廬国であれば、その次の伊都国に繋がらないのです。宗像市から東南約40kmと言えば、伊都国の候補は必然的に田川市や飯塚市付近となりますが、どちらも前述の、伊都国候補たり得ません。

 伊都国の何たるかをキッチリ踏まえれば、宗像を経由する理由が見えないのです。

 ですので末廬国を宗像市付近と比定し成り立つ諸説もまた、ここでご退場となります。ありがとうございました(笑)


 というわけで魏朝御一行様は、唐津湾末廬国に上陸し、陸路、松浦川や厳木(きゅうらぎ)川伝いを通過。そして多久市、小城市を経て、有明海に面する佐賀平野伊都国に到達したのです。まず間違いなく、それが真実です。


 皆さんよくご存知の、吉野ヶ里遺跡のある佐賀平野です。断じて糸島ではありません。

 いや、吉野ケ里遺跡が伊都国だとは言いませんよ。何故なら吉野ヶ里遺跡の最盛期は、卑弥呼邪馬台国時代より若干後だと考えられるのです。


 また、何も吉野ケ里遺跡と特定せずとも、伊都国比定地は佐賀平野のあちこちにその候補を求める事が出来ます。

 例えば当地の研究者達は、

「肥前国府……つまり長崎自動車道佐賀大和IC付近こそが、弥生時代における吉野ヶ里遺跡以上の拠点ではないか」

 と考えているそうです。


 それもまた、難点が無いわけではないのですが、いずれにせよ佐賀平野一体がかつては大きく拓けていて、肥の国、火の国、筑紫、そして(とよ)の国や日向(ひむか)国へと通ずる一大拠点だったのです。

 それこそ「一大率を置く伊都国」に相応しい重要拠点だったのです。

 だからこそ吉野ヶ里遺跡のような、大規模な集落が建造されたのではないでしょうか。


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