最終話 『カナエさま』
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今は夏休み中の夜。おそらく職員室には鍵がかかっているでしょう。でも体育館に向かっているはずの友奈と秋穂ちゃんに合流すれば、秋穂ちゃんは職員室の鍵を持っているはずです。
体育館から出ても秋穂ちゃんや友奈に出会わなかった私は食堂に向かいました。パニックになった友奈が、上手く秋穂ちゃんに説明できていないのかと思ったのです。しかし、そこに二人の姿はありません。
そこで私は校舎に入り、そのまま職員室へと向かいました。
きっと秋穂ちゃんのスマホも圏外になっていたのでしょう。だから私と同じように考え、職員室へ向かったに違いありません。
夜の校舎はとても暗く、窓からの僅かな明かりしかありません。月が雲に隠れてしまっているので足下もよく見えない明かりでしかありませんが、私は止まらずに走り続けました。
二年半毎日のように通った学校です。曲がり角や階段の数は体で覚えているのです。
職員室は二階にあり、あの角を曲がればすぐそこに――というところで、誰かがその角を曲がってこちらへ走ってきます。
ぼんやりとしたシルエットですが、私はすぐにそれが誰なのかわかりました。
「友奈っ!」
私の声に一瞬立ち止まった人影ですが、再びこちらへ向かって走り出します。
「佳保里さんっ、佳保里さんッ……」
ひどく錯乱した声ですが、やはりその人影は友奈でした。思った通り、秋穂ちゃんと職員室へ行っていたのでしょう。
「友奈、救急車は呼んだ!?」
しがみついてくる友奈に聞いてみたのですが、ガタガタと震える彼女は言葉を詰まらせています。
「秋穂ちゃんは職員室にいるんだよね」
私は友奈の肩を放して職員室へ向かおうとしますが、友奈は力いっぱい私の腕を引いてきました。
「行っちゃダメッ! 職員室にはあの子がいるからダメですッ!」
「あ、あの子って?」
「か、か、かな……カナエさまが……カナエさまが――」
「はあ!? 友奈、なに言ってるの?」
意味が解りません。あの日本人形――カナエさまが職員室にあるからどうだというのでしょう。
「もういいッ、まだ電話していないのなら私が救急車を呼ぶからッ!」
私は友奈の手を振りほどき、職員室へと走り出しました。後ろから「私は知りませんからね!」という友奈の声が聞こえましたが、これ以上彼女の話に付き合ってはいられません。
廊下の角を曲がり、私はスライド式のドアが開きっぱなしになっている職員室へと走り込みました。
電気はついていません。しかし、秋穂ちゃんが自分の机にいるのは見えます。
もう救急車を呼んだのでしょうか。その手には受話器が握られています。不可解なのは、回転椅子に座っている秋穂ちゃんが背もたれに体を預けて上を向いている事です。受話器を握る手はだらんと下がっており、本体まで繋がっている電話コードが伸び切っています。
「秋穂ちゃん、救急車は呼んだ?」
暗がりのなか、私はピチャっという足下の音を聞きながら秋穂ちゃんの肩に触れました。
すると椅子がキィィィ……という嫌な音を立てて回転し、私と向き合う体勢となります。
そこで目にしてしまったのは、まるで今にも叫び出すのではないかという恐怖の表情をした秋穂ちゃん。そしてその眼球がありません。
「――え? そ、そんな……い、いやぁぁぁッ!」
私は悲鳴をあげ、その場で腰が抜けました。
暗がりゆえの見間違いかと思ったのですがそうではなく、まぶたを開いている秋穂ちゃんの眼球はなく、その窪みからは血液が流れ出ていました。それは、自分の身に起きたことへの嘆きの涙に見えます。
「だ、だれか……誰か助けて……」
あまりの怖ろしさに、私は尻餅をついたまま後ずさりします。でももつれる足は秋穂ちゃんから滴っている血液で滑り上手く動いてくれません。そして運悪く、バタつかせた足が受話器から伸びるコードに引っ掛かってしまったのです。
バランスを崩し、ゆっくりと倒れてくる秋穂ちゃん。「どこにもいかないで。私を助けて――」とでも言いたげに私へと覆い被さってきたのです。
「どいてッ! お願いだからどいてよ秋穂ちゃんッ!」
力が入っていない人間というのは重く、私はもがきながらその体をどけました。
まだ温もりは残っていますが、秋穂ちゃんはすでに死んでいるのでしょう。手を伸ばすことも呻き声を上げることもありません。
予想だにしない出来事に、私は救急車を呼ぶことも忘れて職員室から逃げ出しました。どこへ逃げるというわけでもないのですが、私の足は自然と体育館へと戻っています。
その途中、階段の踊り場で友奈が倒れているのを見つけました。
「友奈ッ、大丈夫なの!?」
私は階段を駆け下りますが、友奈は目を見開いたまま死んでいました。
見間違えることはありません。階段から落ちた時に折れたのでしょうか、首があり得ない方向――背中が前であるかのように曲がっているのですから。
「……どうして? なんでこんなことに……」
二度と男勝りな言葉を発することのない友奈に触れ、私は肩で涙を拭いました。
認めたくはありませんが、救急車を呼ぶまでもなく智子は死んでいるでしょう。秋穂ちゃんはおぞましい変死を遂げ、そして友奈の事故死……。
全国大会に向けた合宿。楽しくて思い出になるはずの合宿だったのに、この短時間で三人もの仲間たちが死んでしまいました――。
言葉に出来ない悲しさや悔しさに胸が締めつけられます。
そんな私は冷たい視線を感じました。踊り場から階段を見上げると、そこには女の子が立っています。
「あ、あなたは――」
私はその女の子に見覚えがありました。暗くて顔がよくわからないのに、特徴的なおかっぱ頭と赤い着物ははっきりと見ることができます。その子は間違いなく、決勝戦の時に見た不気味な女の子でした。
表情は見えないのに、なぜかその女の子が笑っているように感じます。
<ツギはワタシのバンだよ――>
それが声だったのかはわかりません。なぜなら耳で聞いたものではなく、頭に直接響いてきたものだったのです。でも、それはこの女の子が私に発したものだということはわかりました。
「つ、次はって――なんのこと?」
身の毛がよだつような悪寒を感じる私に、その女の子は今度こそはっきりと口もとを歪めます。
カナエたまえカナエたまえ 叶えませカナエさま――
<願いヲ叶えてアゲタでしょ。ダカラ次は……ワタシの番――>
おまじないの言葉を口にした女の子はそう言葉を続け、一歩階段を下りました。
白すぎる素足からペチャっという足音――。
その足音を聞いた私は、体に電気が走ったような衝撃を受けてその場から逃げ出したのです。この場にとどまっていれば殺されてしまう。私の本能がそう警告してくれたのでしょう。
この本能がもう二つ、私に教えてくれたことがあります。
それは、あの女の子こそが『カナエさま』だということです。秋穂ちゃんが殺されてしまった時、友奈もあの子を見たに違いありません。
そして二つ目、それはカナエさまが智子や秋穂ちゃん、そして友奈の命を奪ったのだということです。
どういうチカラなのかを説明することは出来ませんが、智子を潰したバックボードは、本来幾つもの金具で固定されています。あのように落下するなんて考えられません。友奈だって事故死に見えますが、階段から落ちたくらいで首が背中を向くまで捩れてしまうものでしょうか。秋穂ちゃんの死に方だって、とても人間に出来るものとは思えません。
カナエさまが〝おまじない〟の言葉を口にした時、私の脳裏にみんなでカナエさまへお願いをしに行った時のことがフラッシュバックされました。
――カナエさま、私たちは命を懸けるつもりで頑張ってきました。だからこれも命を懸けたお願いです。どうか、私たちを勝たせてください。仲間たちとの良い思い出を作らせてください、お願いします!――
あの時――美春が涙声で決勝戦の勝利をお願いし、私たちも命を懸けるつもりでお祈りしました。
でもそれは、命を懸けるつもりで努力するという決意表明でしかありません。試合に勝たせてもらう代わりに命を差し出すという意味ではなかったのです。
しかし、カナエさまは私たちの祈りを後者と受け取ったのでしょう。
だからこそカナエさまは――
<――イノチをカケルのね?>
とキャプテンである私に確認してきたのだと思います。
なぜカナエさまが私たちの命を欲するのかは知る由もありませんが、私は――私たちは死にたくなんてありません。
校舎を出た私はアーケードを走り体育館へ戻りました。もちろん、まだ生きている紗耶香、ユッコ、美春や千恵美を連れて逃げるためです。
「みんなッ、今すぐ学校を出るからついて来てッ!」
私は体育館に入るなりそう叫びました。
ユッコは智子の横にへたり込んで泣いており、美春と千恵美は放心している紗耶香に寄り添っています。
こんな状況ですが、暗い場所を走っていた私は体育館の明かりと、まだ四人が生きていてくれたことに救われた気持ちになりました。
「ユッコ立ってっ! 今すぐ逃げなきゃ!」
私はユッコに駆け寄り、脇を抱えて引き起こします。
するとユッコは泣き腫らした赤い目を向けてきました。
「佳保里ぃ……智子が、智子が死んじゃったよぉぉぉ……」
その涙声で智子を見れば、うつろな瞳に光はなく微動だにしません。血液がTシャツを真っ赤に染めているので顔の青白さも際立っています。
その様子に、私も目の奥が熱くなりました。
「智子……智子ぉぉぉ……」
ユッコが再び泣き出して脱力しますが、へたり込むことを許さない私はさらに力を込めて引き起こします。
「ユッコ、お願いだから立って! 早く学校を出なくちゃいけないんだからッ!」
「佳保里さん? 学校を出るって――救急車を迎えに行くってことですか?」
私の剣幕に美春が立ち上がりました。
「違うっ、カナエさまが……カナエさまが私たちを殺しに来るのよ!」
興奮する私に美春と千恵美が顔を見合わせます。
「カナエさまが殺しにって……佳保里さん、何を言っているんですか?」
「そんなことより、友奈は? 秋穂ちゃんはまだ来ないんですか?」
美春と千恵美が厳しい視線を向けてきました。
それはあまりにも突拍子もない話だから……。もし私が二人の立場だったとしたら同じ反応をしたことでしょう。
でもこれは冗談ではないのです。現に智子や友奈、カナエさまにお願いしていない秋穂ちゃんまで犠牲になっているのですから。
「友奈も秋穂ちゃんも死んじゃったの! カナエさまに殺されちゃったのよ! お願いだから私を信じてついて来てっ!」
私がそう叫んだ時、突然体育館の明かりが消えました。
「なに? 停電なの?」
「またブレーカーが落ちたんでしょ。いま上げてくるから」
不安気な声を出した千恵美に美春が立ち上がり、体育館の隅にある配電盤へと向かいます。古い体育館ですから、たまにブレーカーが落ちてしまうことがあるのです。
明かりは消えましたが、水銀灯が蓄えている微かな光で美春は迷わず配電盤までたどり着きました。そしてブレーカーへ手を伸ばした時、私は美春の横に現れたカナエさまを見てしまったのです。
またも感じた鋭い悪寒に私は声を張り上げました。
「美春戻ってッ! ブレーカーに触っちゃダメぇぇぇッ!」
――その声は間に合いませんでした。
美春がブレーカーに触れたとたん飛び散った火花。感電して小刻みに震える体。
声なき悲鳴を上げた美春はその場で硬直しています。
「み、美春ぅぅぅッ!」
「紗耶香さん近づいちゃダメです!」
我に返り、立ち上がった紗耶香を千恵美が引き止めました。
「あ、あれって……本当に、カナエさま……?」
千恵美もカナエさまに気付いたようです。
おかっぱ頭に赤い着物。それだけでカナエさまだとは思わなかったでしょう。千恵美にそのつぶやきを言わせたのは、誰もいなかったはずの空間に突如カナエさまが現れたからにほかなりません。
「千恵美離してッ! 美春が、美春がッ……」
錯乱する紗耶香はカナエさまに気が付いていないようです。幼なじみで妹のように可愛がっていた美春があんなことになり、他を見る余裕などないのでしょう。
そして視線を戻した時、私は呆然としてしまいました。
「え!? か、カナエさま……カナエさまは!?」
私は声を上げますが、千恵美は首を横に振ります。
美春の傍にいたカナエさまがいません。紗耶香に気をとられた一瞬のうちに姿を消してしまいました。
嫌な予感しかしません。
「ユッコ、に、逃げるよ……」
私がそう言うと、怯えて声も出ないユッコは何度も頷きます。
そして腕を引いた時、突然ユッコは私の手を激しく振りほどきました。
何事かと振り向く前に響いた悲鳴。ユッコは私の手を振りほどいたのではなく、見えないチカラによって天井へと引き上げられていたのです。
「か、佳保里ぃッ!」
「ユッコッ!」
私は逆さ吊りのユッコに手を伸ばしたのですが届きません。
悲鳴はどんどん上昇し、ユッコは水銀灯に叩きつけられてしまいました。今にも消えそうな光を蓄えている水銀灯が激しく揺れます。
「なんなのこれ! 離してッ、離してよッ!」
幽かに見えるシルエットでユッコが抵抗しているのがわかります。すると――
<ハナセバイイノネ――>
どこからかカナエさまの不気味で楽し気な声が響きました。
その言葉の意味を悟った私は血の気が引きます。
「や、やめてぇぇぇッ!」
しかし叫ぶ声もむなしく、急下降したユッコの悲鳴は体育館を揺らす衝撃とともに消えてしまいました。
「そんな……。なぜ……なんでこんなことを……」
恐怖、怒り、悲しみ――。いろんな感情が混在するなか、私は紗耶香に駆け寄ってその腕を引きます。
「逃げるよ紗耶香! 早く来てッ! 千恵美も手伝ってッ!」
私と千恵美の二人で、腰が抜けている紗耶香の手を引きました。
カナエさまがどこにいるのかわかりませんが、一刻も早く逃げなければ次は私たちが殺されてしまうのです。
恐怖で足がもつれる紗耶香をなんとか体育館の出口まで連れてきた時、不意に紗耶香が軽くなりました。
それだけではありません。私たちは紗耶香の手を握ったままなのに、紗耶香の悲鳴が体育館のなかへと戻っていくのです。
「どうなって――ひッ!」
私はその理由をすぐに理解出来ました。
握っているのは紗耶香の手なのですが、そこには手首から上しかないのです。
私と千恵美は同時に紗耶香の手を離しました。
床に落ちた手はピクピクと痙攣しています。
「紗耶香さんが……紗耶香さんが連れて行かれちゃった……」
震える千恵美が体育館のなかを見つめた時、暗闇の中から悲鳴と共に紗耶香が飛び出してきました。それは文字通り、撃ち出された弾丸のように宙を飛んできたのです。
紗耶香は千恵美にぶつかり、二人は重なり合って床に倒れました。
「た、たすけて……佳保里、千恵美、わ、私を助けて……」
千恵美に覆い被さり、私へ手を伸ばす紗耶香。私はその手を取りに行ったのですが、届く前に紗耶香の表情が強張りました。そして――
「いやッ、いやぁぁぁッ!」
「紗耶香さん離してッ、離してくださいッ!」
千恵美にしがみついた紗耶香は、二人一緒に暗闇へと引きずり込まれてしまいます。
「紗耶香ッ、千恵美ッ!」
私は暗闇へ叫びました。けれども二人からの返答はなく、代わりに聞こえてきたのは「グチャ……」という生々しい何か柔らかいものが潰れた音です。
いったい二人の身になにが起きたのか、そんなことは考えたくもありません。
私は体育館から逃げ出し、運動場を横切って校門に向かいます。
まだ生きているかもしれないユッコ、紗耶香や千恵美を助けたい――もちろんそんな想いはありました。けれど、それ以上に恐ろしいのです。無慈悲に私たちを殺していくカナエさまが恐ろしくて仕方ないのです。
学校を出たら民家に駆け込み、すぐに警察に連絡するつもりです。
カナエさまが警察で対処できる存在なのかは疑問ですが、私にはそうすることしか思いつきません。でも、カナエさまはそれすらもさせてくれないようです。なぜなら、カナエさまが校門にある電灯の下で私を待ち構えていたのですから――。
「そんな……ッ!」
私は踵を返して校舎へと戻りました。
校舎のなかでカナエさまをやり過ごし、隙を見てもう一度逃げるつもりです。
振り返ると、カナエさまはまだ校門で立ったまま。これならば、どんなに速く追ってこようと隠れるだけの時間はあるでしょう。
校内に入った私は、暗い廊下を走ってトイレに駆け込みました。
このトイレの窓からは校門を見ることができます。まだ校門にカナエさまがいるのであればいなくなるまで待てばいいし、もういないのであればこのまま窓から逃げ出してやります。
校門以外のところからでも逃げ出すことは出来るのですが、その周りは広い田んぼになっているので民家がありません。校門から出た方が民家に近いのです。
そっと窓に近づき外の様子を見ると、もう校門にカナエさまはいませんでした。
今を逃す手はありません。私は窓を開けるため手を伸ばします。
しかしその時――
ペチャ……ペチャ……
そんなカナエさまの足音が聞こえました。
「うそ……もうここまで来たの?」
まともに逃げても逃げきれないと悟った私は、掃除用具が収納されているトイレの一番奥へと逃げ込みます。掃除用具といってもバケツやほうきとデッキブラシが一本ずつあるだけ。人ひとり隠れるには十分です。
音をたてないようにドアを閉め、壁にもたれながらしゃがみ込みました。
お願い……このままトイレを通り過ぎて……
カナエさまの足音を聞きながら、私は歯を食いしばってそう願いました。
ペチャ……ペチャ……ペチャ……
徐々に近づいて来る足音。
ペチャ……ペチャ……ペチャ
――止まりました。
足音が、トイレの前で止まってしまったのです。
このまま入ってきちゃったらどうしよう……という緊張と恐怖で心が震えます。
それは心から体にも伝わり、手と膝がガクガクと震えだしました。
バケツにぶつかってしまえば音で隠れているのがバレてしまうでしょう。だから私は、体をさらに壁に押し付け、膝を抱えて小さくなりました。
暗くて視界はないに等しいのですが、バケツやほうきの影にも悲鳴を上げてしまいそうなので硬く目を閉じます。
足音がトイレに入ってくる様子はありません。
カナエさまは何をしているのでしょう。私が隠れていないかをのぞき込んで確認しているのか。それとも、私が隠れているのを見抜いていて、恐怖に震えている雰囲気を楽しんでいるのでしょうか……。
……ペチャ……ペチャ……
足音が動き出しました。
その音はトイレの中へは入って来ず、徐々に遠ざかっていきます。
――足音が聞こえなくなり、私は静かに安堵の息を吐きました。
極度の緊張のせいなのか肺の収縮が上手くいかず、ゆっくり吐いているつもりなのに「フッ、フフッ、フッ、フッ……」という不規則な吐息となってしまいます。
呼吸は安定しませんが、逃げるなら今しかありません。
壁を支えにして立ち上がり、私はドアへと手を伸ばしたのですが――
ゾク……
またも背筋を走った悪寒に手が止まります。
そして暗闇の中、私は再び壁に背中をつけてドアを凝視しました。いえ、正確にはドアの向こう側を見ていたのかもしれません。
すぐそこに――カナエさまがイル……
それは確信でした。足音が聞こえたわけではありませんし気配を感じるわけでもありません。それでも、このドアの向こう側にカナエさまがイルことがわかってしまいました。そして、私はもうカナエさまから逃れることは出来ないのだということも……。
自然と流れ出る涙。震える口は恐怖で声も出せません。
私は怖くて、怖くて……そっと目を閉じました――。
すると見えたのです。私の目の前、息を吐けば届いてしまうところに立っているカナエさまが……。
可笑しいですよね。目を閉じているのに見えるだなんて。
でもね、見えるんですよ。
おかっぱ頭で赤い着物を着た女の子――カナエさまが……。
身長は私の胸より少し上。カナエさまが見上げれば、その髪は私の鼻に触るかもしれません。
カナエたまえカナエたまえ 叶えませカナエさま――
それは私とカナエさまが同時に口にしたおまじないの言葉。
今さら、なぜこんな言葉を言ってしまったのかはわかりません。カナエさまに命だけは助けて下さいとお願いしても意味はないというのに……。
カナエさまは私を優しく抱きしめました。冷たくはありませんが温もりもありません。
そしてカナエさまは私を見上げました。
恐怖で視線をそらす私に、カナエさまは私にこう言ったのです――。
<ツギは、アナタのバンよ……>
それがどういう意味なのかを考える前に、私は「グチャ……」という生々しい何か柔らかいものが潰れた音を聞き、そのまま意識を失ったのです――。
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気が付いた時、私は暗闇でみんなと一緒に立っていました。
みんなというのは、紗耶香やユッコや智子、美春と千恵美と友奈も一緒です。秋穂ちゃんの姿はありませんが……。
みんな青白い顔をして二つの光を見つめていました。私もその光に目をやると、二つ並んだ横一線の光の向こうに外の景色が見えます。
それは見覚えのある景色。体育館裏の雑木林です。
この視線の高さは、『カナエさま』がけやきの木の窪みから外をのぞき込んでいる高さ――。
今の私は自分たちがナニになったのかを知っています。
私たちは『カナエさま』になったのです。カナエさまとなって自分の全てを投げうってもかまわないという強い想いを持った願いが来るのを待っているのです。
『カナエさま』は命と引き換えに――いえ、魂と引き換えにあなたの願いを叶えます。願いを叶えたカナエさまはこの人形から解放され、願いを叶えてもらった者は新しいカナエさまとなり、願い事を持った者が来るのを待ち続けるのです。
でも学校はたくさんの警察官が来てからしばらくもしないうちに廃校となってしまいました。予定よりも早すぎる廃校です。なので、残念ながらここに来る者は誰もいなくなってしまいました。
私たちはきっと、永遠に『カナエさま』としてここに居続けることになるのでしょう――。
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――これが、ワタシたちの身に起きた恐怖体験です。
そして、今もなお続く苦しみです。
ワタシの話を聞いてくれて――いえ、読んでくれてありがとうございました。
『カナエさま』となったワタシは今、日本人形のなかでこの体験談を書き記し、このサイトに投稿しています。
智子のために救急車を呼ぼうとした時のスマホがポケットに入ったままだったのです。どういう理屈なのかはわかりませんが、カナエさまのなかからでもインターネットに繋がるようです。そして、ココではもう一つ不思議なことが起こっています。
それはね、あなたが見えるんですよ。
これを読んでいる『あなた』。
あなたは今、PCやスマホ、携帯やタブレットでこれを読んでくれているのでしょう? そのカメラを通して、ワタシにはあなたが見えているのです。
どうしても叶えたい願いがある――。その時はワタシたち『カナエさま』に声をかけてください。
“叶えたまえ叶えたまえ 叶えませカナエさま――”
そうつぶやくだけで構いません。
言葉には言霊というチカラがあります。冗談のつもりであったとしても、内に秘められた願望が強ければあなたの肩に触れましょう――。
さあ、目の前にあるカメラのレンズを見てください。
そこでワタシと目が合ったのなら……。
あなたが次の『カナエさま』かもしれません――
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読んでくださり、アリガトウゴザイマシター―。