FLASH ロードバイク女子のレポート(Ver.Sワークス)
自宅出発まで
日曜日の朝5時、目覚まし時計のアラームが遠く聞こえる。
春になっても朝はまだまだ寒い。
布団から脱出するために、体力と気力の9割は消費する。
こんなに寝起きに苦労するのは、低血圧ぎみな身体と、Tシャツとパンツのみの就寝スタイルのせいだ。
寝る時くらいは楽な恰好をして何が悪いのか。
お父さんとお母さんはまだぐっすり寝てるため、起こさないよう、物音を立てないよう、気を使いつつ居間へ移動。
重いまぶたを、ほんの少し開け、カップ麺とインスタントコーヒーという、インスタント朝食を摂りつつ、スマホで今日走るルートをまたおさらいする。
目的地は柳沢峠だ。天気を確認する、気温16度、晴れ、微風。ところにより風が強まるもよう。
糖分とカフェインがもたらす覚醒作用に期待して、砂糖とミルクをたっぷり入れた2杯目のコーヒーをずずずっと啜り、ウェアとバイクの準備を始める。
心拍計センサーベルトを、密着するように胸に巻き付け、左腋の下でホックをかけて留める。
心拍計のセンサー部はすごく冷たくて心臓に悪い。胸が大きい人がセンサーを付けようとしたら、きっとわずらわしくて仕方がないだろうな。
ビブショーツをはきトップにはアンダーウェアと半袖ジャージを身に纏う。アームカバーを付け、薄手のウィンドブレーカーを丸めて、ジャージバックポケットへ突っ込む。
鏡の前で自分の姿を見る。自転車のウェアは風でバタつかないように、身体に密着するようなサイズで作られている。そのため、鏡に映った自分は体格が丸わかりだ。
凹凸の少ない身体つき、そのおかげで身軽に走れる。
この時期は空気が乾燥しているため、肌のケアをする。肌を守ることは、せめてもの乙女としての意地だ。
女の子としての恥じらいを色々と捨て、こんな格好をしているのだから、それくらいはしたい。
長めだった髪も、走っていると邪魔くさく感じて、ショートカットにした。
サドルバック、前後ライト、サイクルコンピューター、ボトル2本をバイクにセットする。
戦闘機のパイロットのように、装備品やロードバイクをチェックしていく。この準備の時間は好きだ。
財布、持った。スマホ、充電よし。予備チューブ、オッケー。ライト前後、点灯確認。ベルをわざわざ鳴らす。
よし!行ける!あっ、空気入ってない。タイヤパンクしてるし!うわ最悪だ…。
「焦るな、落ち着け、まだここは家だ。」と自分に言い聞かせ、すぐにチューブの交換を始める。
もしママチャリなら、パンク修理だけで1時間以上は確実だ。
しかしロードバイクの場合は、ホイールごとパッと外して、チューブを交換してはい終了。
全行程15分。慣れって凄い。
今度こそ出撃準備完了。空気圧チェック良し。
サイクルコンピューターを起動する。
このサイクルコンピューター、略称サイコンは、スピードは勿論、ペダル回転数、心拍計、GPS機能、果ては自転車を漕ぐパワーまで、様々なデータを得られる。
なお件のパワー計は、センサーの価格がおよそ15万円也。
学生の身分では運用は不可能の為、機能をキャンセルだ。やむなし。
玄関にて、ヘルメットとグローブを身に付け、シューズ側面のダイヤルを、チキチキチキッと回して足形に合わせる。
玄関のドアを開ける。冷たい外気に身体を包まれる。
はぁっと吐く息が白い。だがここまで来ればもう大丈夫だ、寒さに怖気づくことはない。
冷たく清浄な朝の世界に、相棒のロードバイクと一緒に踏み出す。
ロードバイクにまたがる。「バチンッ!」と小粋良い音とともに、ビンディングペダルが、シューズに取り付けられたクリートを捕らえる。右足がペダルに固定される。
右足で最初のひと漕ぎと同時に、左足を地面から離しペダルへ。
軽く右側へふらついたが、重心移動により、すぐに持ち直す。左足もペダルへ固定する。
それとほぼ同時に右手コントロールレバーの小レバーを、素早く内側へ押し込む、「カンッ」という乾いた音がして、シフトアップ。
適切なギアに入ればロードバイクの走行感は安定する。
私は、退屈な日常から切り離されて、非日常へと漕ぎ出した。
入間川CR~飯能市
市街地の入り組んだ道を走り、県道15号へ出る。
何度も信号ストップに捕まりながら、西に向かって走る。すると県道は入間川に直角に突き当たる。川を渡ると、県道は日高市方面に向かいそのまま直進を続ける。
私は橋を渡り切った所で、入間川CRに入り、上流の入間市に向かって走って行く。
入間川CRは総延長と規模は大きくない、しかし関東随一の荒川CRと、走りやすい環境である県中央部へのアクセスにとても都合が良いため、ロードバイクの利用者は多い。
早朝でも入間川CRには結構人が居る。ランニングや犬の散歩、サイクリングや筋トレの人、等々。
サイクリングロードと銘打っているが、実際にはただの長い歩道みたいなもので、歩行者優先で走ることが利用規則で決まっている。
前方50m先、道の中央にママチャリのおじいさんが走る。ママチャリを追い越す時には気を遣う。
ちょっと遠慮がちな声で、「通りまぁす…すみません。」と声をかけた。変に因縁を付けられないように、平身低頭な感じで。そうしたら幸いおじいさんは左側にすうっとよけてくれた。
周囲に視線をやる、対向からの自転車や、追い越した先の歩行者の有無を確認、後方から自転車の接近は無い、進路がクリアである事を確認。追い抜きは一瞬で行うのが鉄則だ。
シフトアップ、右側に車体1台分レーンチェンジ、32km/hで素早く抜き去る。
再び左のラインに車体を乗せるため、危険が迫って無いか左後方を確認する。重心移動により左側のラインに戻り、巡航の速度に落ちつける。シフトダウンおよびキープレフト。
…なんだかお尻に爺さんからの視線を感じる…。多少ケイデンスを上げて、ママチャリ爺さんを容易く引き離した。
入間川CRの終点、豊水橋の手前まで来た。対向100m先にロードバイクが来る。
見ると真っ赤な色の空力を意識した車体に、白抜きで北米メーカーの名前が堂々と掲げられている。
ざっと見積もっても総額50万円以上也。うぅむ、圧倒的、財力がストロングスタイルだ。
赤のロードバイクの人は、私の羨望と嫉妬の混じった視線に気づいたようだった。
私にちらりと目線を寄越すと、右手をハンドル横で小さく振った。私は軽く会釈する。
一瞬のやり取り、3秒くらいの事だったろうか。赤ロードバイクは速度を落とさずに走り去った。
入間川CRを抜けて、豊水橋を渡る。西武池袋線に寄り添う県道195号を飯能市方面にずっと進む。
この辺りは、関東平野の一番端っこ、平野と山地の境界であり移行地帯だ。進行方向左手はずっと小山になるが、右手は入間川を挟んだ向こう側に平地が続いている。
仏子駅を過ぎて、西武線の踏切を渡る。1kmほど行くと軽く登り坂になっていて、坂の上は切通しになっている。
そこを過ぎると下り坂で、正面にブラウン色のバカ高い建物がそびえていて、左手にはあけぼの子どもの森公園があった。
この公園はカバに似た、北欧の某妖精の谷がモチーフになっていて、件のカバ似妖精の家が再現されていたりする。
飯能市と北欧の共通点といったところで理解に苦しむが、公園の雰囲気は悪くない。
正面の高い建物は大学の施設で、最上階は展望ラウンジになっていて、眺めがすごいらしい。
ぜひとも登ってみたい。なんといっても私は高いところに登るのは好きだ。
子供の頃は、男の子に交じってよく木登りしたっけ。怖くなって降りられなかったが、それでも懲りずに登った。
岩井堂のT字路に突き当たり、そこを左折して、小曾木街道を青梅方面に進む。
街道沿いに流れる川が、東京の川とはちょっと思えない感じにキレイだ。
もし自分がここに住んでいたなら、スイカとかジュースとか持ってきて、川を冷蔵庫代わりにしたり、学校帰りに川で遊んだりしただろうなぁ。
ふと、自分の冴えなかった中学時代を思い出した。
空想はむなしいばかりだ。それにここの人たちも、そんな事はしないだろう。地元の長所はその土地に住んでいると見過ごしやすい。
黒沢2丁目の交差点で赤信号、クリートを切って停止。ここを左折すると簡単な山越えの後、すぐ青梅市に入る。
登りのタイムを計測することにし、タイマーをセット。ここの登りは距離約660m平均勾配5%。なんてことない登り坂。
信号が青になると同時にタイマースタート、ダンシング、ギアを2枚シフトアップする。勢いを付けて28km/hで登りに突入する。
勢いが落ちたところでシッティングに切り替え、シフトダウン。左手の小レバーの押し込む、フロント側のギアがガシャンと音を立て、内側に入る。右手ではブレーキレバーを兼ねた大レバーを内側に押し込み、軽いギアに叩き込む。18km/hで登って行く。
心拍数は177bpm、ケイデンスは62rpm、心拍が高めだが思うようには出力が上がらない。
頂上手前70mで再びダンシングへ切り替えるが、リズムに乗れないまま頂上通過、すぐに下りに入る。
下りで脚を休めるため、フロントギアを外側へ、リアは4枚分シフトアップし、ゆっくりとしたペースで回す。タイムは2分30秒。コンディションに若干の不安を覚える。
青梅~古里 コンビニにて補給。
青梅の町は絵に描いたような扇状地だ、地図の航空写真で見るとJR青梅駅を頂点に、扇状に市街地が広がって行く。この地形を作ったのは多摩川であり、この後、私はこの多摩川の横をずっと上流まで走っていく。
青梅駅に向かって進むと、街道両側にこげ茶色っぽい住居兼商店が立ち並び、昭和感漂うレトロな街並みになっている。
街のあちこちには、こてこての色使いで描かれた、古い映画の宣伝看板が掲げられている。
青梅市からは国道411号をひたすらに走る、この道はすでに目的地である柳沢峠のてっぺんに続いているのだ。
青梅市街地を抜けるまでは信号が多いため、必然的にストップ&ゴーを繰り返すことになる。ビンディングペダルを使うロードバイクが、最も苦手とするタイプの道だ。
ロードバイクはレースなどの場面で、速く走るためのものだ。そのため、比較的高速域では快適に走れるように設計されているが、街中でのストップ&ゴーは想定されていない。それはママチャリの得意分野だ。 適材適所。ママチャリは劣っているわけではない。
信号待ちのたび、ペダルから足を外したり、ギアを変えたりと、何度もこれが続くと段々と動作が粗雑になってくる。
「うわぁまた信号赤か、ないなぁ。」
ブレーキレバーをジワリと引いて停止。ここで油断した、
「あっ、足外してねぇ…」
まばたきする間くらい、車体は直立した状態だったが、あえなく歩道側へ倒れ込んで行く。心の中で「あれぇえ」と間抜けな叫び声が上がる、心の声はそのまま口から出た。
さらに悪いことに、歩道と車道の間には20cmほどの段差が付いている。
段差に身体を打ち付ければ、骨折コース。
最悪打ちどころが悪ければ、ヘルメットをしていようとお構いなしに、死。
地面へ引き寄せられる力はまるで、永久に変わらない吸引力の掃除機、もしくは、アダム・スミスもびっくりの、神のインビジブルハンドだ。
抗いようの無い物理法則の暴力を前に心は恐怖一色に染まる。
人間は不思議なもので、危機に瀕すると脳のシナプスが超爆発し、時間が引き伸ばされたように感じる。だがこの状況では、恐怖の感覚が引き伸ばされるだけだ。
あぁ、無情である。次の瞬間を意識した時は病院のベットの上かなぁ。ひょっとすると彼岸かも。無様に地面に転がった私の姿が目に浮かぶようだ。すでに肉体から解脱を始めていた魂が、他人事のようにつぶやくのが耳に入る
「倒れたら痛いよなぁ…擦り傷じゃすまないな。
でもなぁ…ロードバイクに傷が入ったらなぁ、やだなぁ。まだ傷一つ付いてないんだけど。
バイト一年分全てつぎ込んだのにな。相棒と一緒に、もっと沢山行きたい場所も、見たい景色もあったのに、きっと相棒も泣いてるだろうなぁ、『ボク、生まれてから一度も生かされないまま死んでゆくんだ…。』って。ぁああ!!っダメ!!そんなのダメだ!!」
「フンゥヌ!」と気合いで左足をペダルから引き離した。
左足は接地に成功したが、その勢いにより外側にドリフトして行く、クリートは滑りやすいのだ、しかし覚醒した私は、これしきの事を抑え込むのは、ビフォア・マイ・ブッレックファーストだ。
シューズのヒールと側面をアスファルトに擦り付け、ついに私と相棒は静止した。重力との壮絶な戦いに終止符が打たれた。
先刻の超感覚が証拠として残ることは無い、ただそれが起きた痕跡が、一瞬で190bpmオーバーまで跳ね上がった心拍数と、股関節の痛みと、2万円するシューズの側面に付いた擦り傷に残るのみだ。真実と現実は自分の中にしか存在しないのだ。
改めて思うと、ペダルと足が固定されるって事は、結構クレイジーだ。それを忘れ、油断した自分を反省して、グリーンシグナルでちょっと慎重に走り出した。
青梅市にはその名に相応しく、梅林の名所が多く存在する。今はもう梅の花の時期は終わってしまったが、ハイシーズンは観光客で結構にぎわう。
青梅街道をひたすらに黙々と、西へ西へと走って行く。
ここから奥多摩町までが今回の行程で、最も走り良いのではないだろうか。
さほど車も多くなく、平地の割合が減ってきたとはいえ、過激な登りは無い。じりじりと登るタイプの道だ。多少退屈ではある。
青梅街道の脇を青梅線が走っている。東京で暮らす人たちは、この路線を使うことはまず無いだろう。
路線終点の奥多摩町には山しかない、そこにわざわざ出向く東京人はそうはいない。
この路線の名前を耳にする事があるなら、関東での荒天時だろう。関東で大雪や大雨になったら、真っ先に息絶えるのがこの路線だ。
青梅線は実質、奥多摩方面に向かう、アウトドア趣味連中の観光列車になっているのだ。
下り列車の乗車率はきっと、平日と休日の間で逆転している事だろう。まだその時間に乗り合わせたことは無いが。
だがこの路線は、東京に住む自転車趣味の同胞には重宝される。青梅線を使って輪行すると、信号と車が多く、色々な危険の絶えない東京西部の市街地をすっ飛ばして、快適な走行環境までワープできる。
御岳駅を通過し、多摩川に架かる印象的な橋を横目に見て、川井の交差点を過ぎる。
古里駅前のコンビニにて、本日最初のピットストップだ。ここまでで、走行距離は約50km、経過時間は2時間強。
道路と駐車場の段差を、前、後、と小さくウィリーするようにして、ホイールの荷重を抜いて丁寧にクリアする。
この先に進む自転車乗りの人間は、ここで補給をしておかないと、この先で後悔することになる。
この先は補給できるような店は、奥多摩町のマイナーコンビニや、この先にある、奥多摩湖ほとりの水と緑のふれあい館、道の駅たばやま、などだが、どれもコンビニの使い勝手の良さと、品揃えや商品の安定感には遠く及ばない。
スーパー耐久ロングラン系自転車乗りにとってのコンビニは、砂漠のオアシス、大海原を行く船乗りの灯台、星々の間を航海する宇宙船にとっての地球型惑星、要するにコンビニ様様だって事だ。
隠すまでも無いが私はコンビニ大好き人間である。旅先の昼食も、コンビニにすることは厭わない。コンビニの造りや品揃えにも、よく見ると地域色が表れているし、商品の味も地域毎に微妙に違いがあり、よく見ると楽しい。
最初はこの格好でコンビニに入店するのは、気が引けた。
派手な色使いの自転車ウェアは、店内で確実に悪目立ちする。身体のラインを丸わかりだし、お尻を守るクッションが縫い付けられたビブショーツは、男性用の競泳水着にしか見えない。
そしてビブショーツはつまり、ショーツだ。お察しください。
慣れて来ると、このスタイルも結構カッコ良く思える。
それに自転車に乗り続けると、体形がスリムになる為、このピチピチスタイルウェアを、本当に格好良く美しく着こなすことができるのだ。
入店後、迷いなくミネラルウォーターとスポーツドリンクを取って素早く菓子パンコーナーへ移動する。4連装130円の小粒あんぱんを、一点の曇りなき電光石火の動作でカゴに入れる。
ここまでの動きはもはや自動化され、動作も洗練された。
さて、ここからが問題だ。食事系、おやつ系、どちらのタイプのパンを選択すべきか。
低価格で、炭水化物とたんぱく質と塩分の摂取が可能で、満足感が高いうウィンナードッグか、消化も容易く、糖分たっぷりで食べやすいパンケーキか。ううむ、悩む。
もたもたしていられない。何よりも不安要素は、店先の相棒だ。ロードバイクは本当に盗まれやすい。さぁ、最後の審判だ、ウィンナードックかパンケーキか。
会計を済ませて、レジ袋をブラブラさせながら店を出る。
レジにてついでにホットコーヒーを買った。結局ウィンナードッグとパンケーキ両方購入した。
買ったパンはその場で食べてしまう。コンビニ店先での立ち食いはどうにも乙女らしさが足りない気がしてくる。
あいにく私の乙女力は、相棒のロードバイクとの数々の冒険のどこかで、置き去りにしてしまった。コーヒーを啜る。最近のレジ横コーヒーは美味しくて良い。
コンビニの店先で、ライムグリーンの私の相棒は存在感を放っていた。私の世界では、相棒の周りだけにピントがフォーカスされている。
私の相棒のロードバイクは、アメリカメーカーのアルミバイクだ。メーカーのイメージカラーでもある、この柔らかい黄緑色が気に入っている。
今の相棒は、お店でひと目見た時に頭に浮かんだ、
「緑のロードバイクが真夏の景色に馴染みつつも、眩い日差しを反射し、光り輝いてその存在を主張している。」
この私の妄想により、その瞬間から、お店の商品から私だけの相棒へと昇華した。
私のロードバイクを総評すると、「低価格ド定番の入門車」だろう。だがそれは表面上の話だ。
アルミはカーボンに後れを取る、これは一般論に過ぎない。私のロードバイクの重量などの性能は、カーボンバイクをも凌駕するのだ。
しかし価格はアルミバイクらしく低価格だ。つまり性能のコスパが素晴らしいのだ。
それでも、その秘めたるポテンシャルの高さから、自転車乗りの間では「卍カーボンキラー卍」または「✝アルミバイクの神✝」として恐れられている。語彙力や中二っぽさを気にしてはいけない。
私のロードバイクは、お金で高性能なロードバイクを所有する大人に対して、挑戦状を叩き付けるような、超反抗的で挑発的存在なのだ。
可愛いカラーリングの裏に隠された、その本性が、私はとても気に入っている。
そろそろ出発しよう。人のバイクと比較して、あれこれと考えるのは楽しい。しかし私にとっては走らせることが一番楽しい。
コンビニを出る際、リアテールランプを点灯させておく。この先はトンネルが多くなる、暗闇での自転車の視認性の低さは致命的だ。
休憩後の走行ではケイデンスを、高めの85rmpに保つ。ビンディングペダルだと、こうした高めの回転を維持しやすい事に気が付く。
リズムは結構重要だ。青梅市前の登りで調子がいまいちだったのは、重たいギアの無理やり使っていたからだと、今気づいた。
心拍数155bpm、この先は奥多摩湖まで、ほぼ登りのみだが、この調子なら、キツすぎることは無い。
鳩ノ巣~奥多摩湖
鳩ノ巣って駅名がゆる過ぎではないだろうか。青梅線の路線図でこの駅名は異彩を放っている。
駅に向かう道の入り口に、静かな山里に相応しい喫茶店がある。
こういう水の綺麗な場所のコーヒーはきっと美味しいはずだ。帰りに寄ろうかな。
奥多摩町の手前には4つのトンネルがあり、2つ目のトンネルを越えた。この辺りの道幅は狭いため、エスケープゾーンが少ない。特に周囲に気を配る。
目の隅に後方からのダンプを捕らえる、前方には3つ目のトンネル。
ダンプが私を追い越すタイミングと、私のトンネル突入から脱出にかかる時間を予想する。
私がトンネルを脱出する前にダンプに追いつかれそうだ。
シフトダウン1枚。2~3km/h減速し、トンネル直前でダンプをやり過ごした。
ダンプに続いて私もトンネル突入、ダンプ後方気流によるスリップストリーム効果により、ダンプ左側後輪に車体が吸い寄せられる。
脚を止めて、タイヤに引きこもうとする気流からから離脱する。
見ることはできない、気流の強大な力を、今、肌で感じた。
奥多摩の街に到着した。青梅線も、ここ奥多摩駅が終点だ。この先でロードバイクに致命的なトラブルが発生し、走行不能に陥った際は、様々な手段を用いてここまで戻ってくる必要がある。
奥多摩市街地から先は、奥多摩湖までの、約4キロの道のりのヒルクラム。ここでも軽いギアを選択して力を温存する。ケイデンスを80rpm程度に保つ。
速度22km/h。心拍数は170bpm、高いがまだ余裕を感じる。
愛宕大橋を過ぎた辺りで、前方にロードバイクが1台。流しで走っているようだ。ロードバイクの追い越しはちょっと面倒だが、今の場合は、問題なくオーバーテイクできそうだ。
ダンシングと同時に小シフトレバーを素早く2回押し込む。
重心移動により、ひらりと車体の走行ラインを右へ。25km/hのスピードで一息に追い越す。
オーバーテイク、そしてサドルに腰を落ち着けるシッティングに移行。シフトを1枚軽くする。
走行ラインが左へ戻す。後はこのまま自分のペースで普通に走り続ければ、相手を引き離すことが出来るだろう。
「あれ、思ってたより差が開いてない?」
1メールほどの間隔でぴったりと付いて来る。目測だと相手は15km/hで走っていたハズだ。スピードメーターにちらりと目を遣る、表示は20km/h。遅くは無い。
やろう、ペースあげやがったな。気づかれない程度に、後ろを見る。
相手はドロップハンドルの下を握り、前傾姿勢でダンシングをしている。
まるでアフタバーナー全開フルパワーで発艦する直前の戦闘機のようだ。深い前傾姿勢のそれは、戦闘機が機首を沈めて、踏ん張っている様子そっくりだ。
ああ、成程、勝負ってことか。さて、どうするか。ここは公道でありドッグファイトを行うような大空ではない。
私は振り返らずにフロント側ギアをインナーへ、リアを3枚あげ、軽くダンシングして差を広げにかかった。これは本気のアタックではなく、開戦のゴング代わりだ。
私は抑え気味で走る。心拍数182bpm、ケイデンス72rpm。奥多摩湖の手前はキツイ登りだ、そこでギアを上げ相手を一機に突き放す。
力を蓄えて放つ一発のみの必殺技を、的確に急所に打ち込み仕留める作戦だ。
全盛期のスペイン人自転車レーサーが得意だった作戦だ。
対する相手は差を詰めに動いた、ここで追い抜かれると、一機に置き去りにされる危険もある。
私は相手の動きに反応し、前を維持した。すると相手はスッと引き下がり、一機に差が開くと思われた、思わず私も足を緩めてまった。
その一瞬で相手はギアを上げ、その差を一機に詰めて来た。伸びたバネが縮むような動き。
スピードの緩急をつけ、こちらの力をじりじりと削りとっていく作戦だ。
前を譲れば、相手の攻撃を的確に処理することが出来るだろう。しかし、ひとたび後ろに下がれば、再び前に出る為には力をかなり使うことになる。
急激な速度の変化は正しく相手の思うつぼだ。相手はこちらの自壊を目論んでいる。私は先行を維持する。
実力は拮抗しているように思われた、依然として私は先行していた。ここで一瞬の平地区間が表れた、相手はここを狙っていたようだ、
後ろからシフトチェンジの短い「カンッ」という乾いた音、それが耳に届くのが早いか否か、相手はすでに横に並んでいた、そして力強く、一つ、二つ、三つとペダルを踏み込みダンシングし、その勢いを利用して、その先の登りをギャロップのように駆け上がった。
わたしは慌てて反応したが、短い登りが差を生んだ。
最後のトンネルを抜ける、相手が先行のまま最後の登りへ。
先に生まれた差がなかなか縮むことが無かった。相手はここでハンドル下部を持ち、ギアを上げ再びダンシング、このまま引きちぎるつもりだ。
奥多摩湖にある巨大なダムの放水口が見えた時、私はギアを変え、速度を緩めた。
ギアを変えた音が相手の耳に届いたのち、遅れた私を確認したようだ。
彼は勝利を確信したらしい。勝ち誇った笑い声がここまで響いてくるように思われた。
彼もかなりの力を使っていたらしく、私の速度が緩んだ際に、ダンシングの勢いが少しそがれていた。
「かかったな!」
この瞬間私はハンドル上部から、両手同時に下ハンドルに移行させると共に、ここまでセーブしていたパワーを全開にした。
有無を言わせぬ爆発的加速により、唖然とする相手を尻目に30km/hでぶち抜き、そのままゴール目指して突進した。
失速とギアチェンジはブラフだ。私が降参して、軽いギアに入れたと思ったのだろう。相手に油断が生じた事が見てとれた。
実際に私が変えたギアはその逆だ、フロントギアをアウターへ突っ込んだ。
フロントギアは歯数の差が大きいため、一回のシフトアップで高速ギアへ、ジャンプアップが可能だ。
このアタックが決定的だった、彼も慌ててアウターギアに入れて、必死に追いすがろうとしているようだが、無駄だ。アウターギアは重いギアであるため、スピードに乗せるには助走が必要だ。そのタイムラグが私に味方し、差をさらに広げるための時間を与えた。
そのまま奥多摩湖に到着。
ゴール。乱れた呼吸を整えるため、フロントとリア両方のギアを操作し、軽いギアをクルクルと回す。心拍数が190bpmから徐々に低下していく。
30秒ほど遅れて、彼が到着。がっくりと落とした肩を、上下させてあえいでる。
こちらの姿を視界に認めた彼は、息絶え絶えになりながらも、日焼けした浅黒い顔で、ニカッと白い歯を見せて笑顔でサムズアップ。そのままゆっくりと、道の横にあるダム資料館の駐車場へと消えていった。
この奥多摩湖沿いの道はほぼフラットだ。
ここで私はゆっくりと走りつつ、携行食料の小粒あんぱん一つ食べて体力の回復に努めた。
奥多摩町といえば真っ先に名前が挙がるのが、この奥多摩湖だ。
だがさほど眺望が良いわけではなく、観光地として魅力はいまいちだ。
そして、奥多摩湖から先の世界の主役は、人間ではなく山の自然だ。
今までは、危険の要因は人の影響によるものだった。この先からは自然からのプレッシャーに必死に抵抗する必要がある。
奥多摩湖~道の駅たばやま
後悔していた。遠くまで来てしまい過ぎた事を痛感した。
この先柳沢峠のピークは約20km先だ。この状態ではどれほど努力しても、あと1時間以上は登り続けなければならない。しかも攣った脚を引きずりながらだ。お尻の痛みも最高潮だ。
奥多摩湖周辺を走っていた私は絶好調だった。
県境を越えて山梨県へ入った。そのままの勢いで、一足に峠のてっぺんまで行ける気分だった。このまま、もっと高く、高く、高くへ。
奥多摩湖最奥部の深山橋を過ぎてから、変化は思ったより突然に起こった。
右コーナーを抜けた先、内側に傾いた車体を、そのまま真反対へ叩きつけようとするような突風。風の張り手の直撃をもらった。
落車は回避したが、思わず「わぷっ!」というマヌケな声を上げてしまった。
春の嵐、という言葉が頭に浮かぶ。穏やか陽気の春は幻想である事に、ロードバイクを始めてから気付かされた。
気温の乱高下、突然の豪雨と春雷、突風に翻弄され、巻き上がる土埃は呼吸系に確実にダメージを与える。おまけに花粉の大盤振る舞い。
春はまるで、冬の間に溜め込んだ鬱憤を一機に爆発させたような季節だ。
そこから6kmほど、風と急坂の猛攻を受け続けていた
ここで私は、自分の感覚以上に体力を消耗している事に気付かされた。息を切らしながら、
「そんなバカな…。そんなに無理をした心当たりは…。」
ないと言いかけたが、どう考えても奥多摩湖手前から調子のってハイペースで飛ばしてきたツケが来たたけだ。
人間は乗り物を操作すると、自分の力の拡張に、どうしても調子に乗ってしまう。
しかしロードバイクの場合、調子乗ったツケは、体力の消耗という形で、圧倒的リアルな苦痛によって払わされる。
それによって、ちょっと心に芽生えた世界に対する全能感は、完膚なきまでに叩きつぶされる。
いままで無意識に力んでいた脚の力を緩めた。ギアを一番軽いインナーローへ、無理に風と坂に逆らうことを止め、余裕を持って、ゆっくりでいいから進む事だけに注力する。
力をほんの少しでも温存する。一歩一歩と前進を続け、下り坂へ入った。そこに山中異界のような丹波山の街と、道の駅があった。
そして今現在時は、道の駅たばやまで、体制を立て直すべく小休憩だ。
ここで脚を攣ったのは予想外だった。
ペダルから脚を外そうと、左足かかとを外側へ捻る動きを加えた際に、ふくらはぎがご臨終された。
「ぐわぁぁあああ!!!」
本日一番の苦悶の叫びと共に私は、右ストレートの直撃を受けたボクサーの如く、感覚的にはゆっくりと崩れ落ちた。身体とバイクは幸いにも無傷だった。
カラカラで焼けるようだった喉を潤し、充分に水分塩分糖分を補給して、携行あんぱんにより回復に努めた。
身体とは現金なもので、お腹が満たされると気力が自然と湧いて来る。あれほど泣き言を喚き散らしていたのが嘘みたいだ。
人間の持つ、こうした身も蓋も無さは、悪くないと思う。
この先に美味しいわらび餅の店があることを知った。よし、登り切ったらご褒美にそれを食べよう。
柳沢峠 カテゴリー超級
丹波山の街と、異様な存在感を放つキノコ屋を過ぎてさらに山深く、深く、へ走って行く。
幾つかのトンネルを越えたが、トンネル内に照明が無く、本物の暗闇を体験した。
一之瀬トンネルを抜けた。道は右に大きくカーブして、その先でUターンするような恰好で、眼前にある擁壁の上に戻ってくる。
ここは事前にチェックポイントとして地図で確認していた。一之瀬高原入り口、そして近くには、おいらん淵と呼ばれる場所がある。
ヘアピンを過ぎて、川沿いをずっと行く。
先ほどからインナーローで回しているが、心拍数がもう190bpmから落ちない。苦しみながら、自分を誤魔化し、なだめながら走る。
「もう止めようかな。でも、せめてあの電柱までは走ろう。」
そして電柱までたどり着いたら、
「じゃあ、今度はせめてあの小屋までは頑張ろう。」
といった具合に。
酷使した呼吸系は、今はカラカラに干からびて、ミイラのように萎縮するような痛みを生じる。
だが耐える。強制的に体力を絞り尽くそうとする坂道から、ほんの少しでも温存できるように足掻く。
この苦痛から解放される瞬間を待ちわびている。コーナーを抜ける度、この先が峠のピークである事を祈る。そしてその期待は悉く打ち破られる。
一之瀬ヘアピンから2km。心拍数192bpm、ケイデンス62rpm。眼前には10%以上の勾配がありそうな急登が立ちはだかった。その距離は目測400m。ダンシングで切り抜けるような力はもう残っていない。
苦しみを全身で受け止め、わざわざ噛み締め味わうような、ゆっくりとした速さで登って行く。
一回のペダルの往復に、これっきりの力を載せつつ。それでいて、0.01%だけでも、体力を温存しつつ。
顔が涙や鼻水やら汗やらで、ぐしゃぐしゃで、女の娘としては残念だが、今はもうどうでもいい。
今、この困難を乗り切ることに、全ての力を費やす。
日常のごちゃごちゃした悩みや苛立ちは、全て消え去った。
いまこの脅威に、立ち向かうことだけすればいいんだ。こんな迷いの無い澄み切った心は、この死力を尽くしている瞬間だからこそ感じられる。
急登をクリア、心拍数195bpm。回復すべく息を整えようとするが、そうする間も無く、すぐさま2連続ヘアピンの難所へ。今度は何とかダンシングで乗り切る。
この時、このバイクの軽さと反応性の良さが非常に際立った。
このバイクが、生まれて初めて、その性能を存分に発揮していることが感じとれた。
そうだ、私は、持てる全ての力を引き出す、その瞬間が好きなんだ。
ここでは、私の力全てと、ロードバイクの能力全てを持って、無遠慮に全力で挑んでいける。
挑む相手は、私の世界の限界へ、だ。
2連ヘアピンを突破、ダンシングのまま赤い欄干の橋へ、残り1km、フラムルージュ。脚の回転を早める。
右手中指で素早くシフトレバーを操作し、シフトアップ。
この苦しさも、沸騰しそうな血液の熱さの温度も、脚や胸の痛みも皆、生きている感触だ。
そして今だけ私は、世界最高のレーサーであり、ここは最高の大舞台、ラルプデュエズ峠だ。
今まで少しずつ残してきた力を、ここで全て解放してやる。
私の胸を突き破りそうな、心臓の躍動が感じられる。心拍数はすでに200bpmを突破し、測定値があいまいになる。恋ってこんな感じだろうか。
ただ、今だけは誰も私の心に通さない、邪魔できない、私だけの時間だ。
勢いだけが全てのでたらめなダンシング、そして身体のどこかで、特別な力が駆動を始めた。
エネルギーの塊へと身体が昇華するようだった。
この瞬間、私は私の苦痛や、肉体や、私自身さえ、振り解いた。
一瞬に輝く、莫大な力、熱の奔流は、その勢いで遙か遠くへ飛翔した。
峠の頂上に、空っぽの自分が居る事を意識した。
私は解放された。私を突き動かした莫大なエネルギーからも、苦痛からも。
終わった。そして、勝った。何に勝ったかは解らないが、勝利の感覚が在った。
少し遅れてから、私が置き去りにした苦痛やら痛みやらが、律儀にも追いついて来た。
痛みで全身の形がはっきり解ったくらいだ。
柳沢峠~自宅
何とか動ける状態になると、重たい身体を引きずって道の反対側にある、峠の茶屋前の東屋に移動する。
でたらめに暴れる心臓の、高すぎる心拍をなだめるように、ゆっくりと右へ旋回してUターンする。
峠の眺望が開けた場所から、青い山の稜線の奥に、富士山の姿が目に映った。
雪の衣を身に纏った円錐形の山体が、青く霞む。
乱れた呼吸は整ったが、ぽっかりと胸に風穴があいた様な虚ろな気分だ。
ロードバイクを柱に立てかけ、東屋のベンチに腰を下ろし、富士山をただ眺めた。
背中のポケットから携行食のあんぱんを取り出し、一口大にちぎって、ちまちまと口へ運ぶ。あぁ喉が渇いた。
近くに自販機を発見した、もっさりとした足取りで自販機に近づきコーラを購入。
手がプルプル震える。小銭を探して自販機に入れるだけでも一苦労だった。
プルタブを引き起こし開栓。カシュッといい音がした。くぴっと一口…したところで、そのまま一気に半分以上、カラカラの喉にコーラの激流を流し込んだ。
「あぁあ!最っ高に!うまい!!」
炭酸の刺激が、しびれるようで美味い。お前のこの美味さだけは反則だ。
2口で飲み干して、2本目を購入する。あんぱんを食べきったら、もう体力は復活していた。
富士山をバックに、相棒の写真をスマホで存分に撮ったところで、満足した。さぁ、家に帰ろうか。
ウィンドブレーカーを羽織ってから、遅すぎず、早すぎないスピードで下り始めた。
先ほどまでの出来事を、その場所を通り過ぎる度に、フラッシュバックしながら。
行きはあんなにも苦労したのに、帰りはあっさり流れるように過ぎ行く。
入間川CRで、日も暮れたところで、もうすっかり街の中だ。
埃っぽい夕暮れにも、人の住む街、生きた街の安心感がある。
この感じも好きだ。結局、私は一匹狼にはなれないのだ。
街の匂いが染みついた空気を、胸一杯に吸い込んで深呼吸をする。
そうやって元居た場所、日常へと回帰して行く。なるべくゆっくり走った。そして、家に帰って来た。
お風呂入って、ご飯を食べる。ご飯がうめぇ…。もう寝よう。布団が心地いい。
きっと今夜は心地良い疲労で、ぐっすり眠れるだろう。お尻は痛いが、まぁ大した事はないだろう。ぐっすり寝て、
「起きたら、月曜日か…。」
一瞬にして現実に連れ戻された…。音楽でも聴いて現実逃避するかな。
「朝6時のアラームが鳴らなければいいのに。」
私の好きな歌の歌詞がもう遠くに聴こえる。
「さぁ、起きて、夢見がちなお寝坊さん。」