認知バイアスで紐解く現代社会
■ココロの盲点
誰しも、「認知バイアス」という色眼鏡を通して世界を見る。
認知バイアスの実在は科学的に証明されているし、認知バイアスの多くは長い進化の過程で生じた適応だとされている。だから人間である以上は認知バイアスから逃げられない。認知バイアスの存在を理性的に学習し、理性によって直観を補正するのでなければ、私達は現実を語ることができない。
良い本がある。池谷裕二による2016年の『ココロの盲点 完全版』である。80項目の認知バイアスそれぞれについて、極めて洗練された平易で読みやすい解説がなされる。
現実の生活における他者の考え方にもし何か不満を感じた時、この本を眺めれば、その考え方の不合理性をいずれかの認知バイアスに分類できることが多いだろう。仕方ないね、と諦めがつくかもしれない。人間は所詮、合理的ではないのだ。
誰もが、様々な問題意識を持って暮らしている。心理学が膨大な実証研究によって築き上げた、「認知バイアス」の豊富な概念は、思考や議論に優れた言語を提供することだろう。
なお、認知バイアスの考え方は、行動経済学などにおいて大規模に実用されている。
■近代主義
現代社会は、民主主義や市場主義という社会思想の上に成り立っている。私は、民主主義や市場主義を大衆主義と見て、否定的に見る思想的な立場に属している。言わば、現代のみならず近代という枠組みに、根本的な欠陥があると思っている。現代の民衆において一般的な考え方は、私にとっては言わば「近代主義」であり、私が属する立場は言わば「近代主義批判」、あるいは「近代批判」である。
そうであるから、上記良書で記述される80個の認知バイアスについて、以下、近代主義批判にこじつけて論じてみたい。
人間が自らの認知バイアスを直観的には客観視できないように、人々の集団である社会もまた、自らの社会思想に含まれる認知バイアスを客観視できないはずである。人や社会が自省的であるために、認知バイアス論は強力な武器だ。
以下、認知バイアス80項を取り上げる。各項目の冒頭に示す、日本語名、英語名、二重鉤括弧内の説明(『...』)は原書から引用した。
■#1 選択肢過多効果 choice overload effect
『選択肢が多すぎると、選択する気力が落ちる傾向』
素朴に戦略を考えると、与えられる選択肢は多いほうが嬉しいように思える。最も自分に適したものを選択する自由が与えられているからだ。しかし実際には、あまりに多くの選択肢が提示されると、人間は選択自体を面倒くさく感じてしまう。また、選んだ後になって、より良い選択があったのではないか不安になってしまう。ある程度、絞り込まれた選択肢が提示されることを好む。
つまり人間は、自分の思考がある程度は他者によって誘導されることを望んでいる。その意味で人間の知性は、主体的な存在ではない。
これはきっと、人間が社会的な動物だからだろう。周囲の仲間から並外れて固有の考えを持つことは、それが何らか正しかったとしても敵視されかねないし、たいていは正しい価値観に一々噛みついてみることも、エネルギーの無駄使いに終わる。
選択肢過多効果は、人生における選択の全てについて言える。私達は、与えられたある種のレールに沿って生きることを、しばしば自ら望んでいる。しかし、個人におけるそのような判断が集団として集積された時、社会が半ば無前提に乗ることになるレールが、好ましい結末に繋がっているとは限らない。
民主主義や市場主義が当たり前の時代に生まれた人々が、個人の立場でそれらを再検討することなど稀である。時代の社会が基礎としている社会思想は、さほど十分に論理的な検討が加えられたものではないのだ。
■#2 熟慮の悪魔 the devil in the deliberation
『じっくり思案して出した決断ほど考えが一貫せず、またモラルに欠ける傾向』
推敲した文章の主旨がぼやけて、荒削りな感情の見える当初の案が結局は良かったなんてことがある。また人間は、判断の時間が限られている時には常識的に良識的に振る舞うものだが、時間が与えられて熟慮すると、計算高さが素朴な良心を上回ってしまうことがある。
そもそも、短時間でなされる判断は、無意識に基づく。無意識は、膨大な経験によって構成された勘である。時に理性の賢さは、無意識よりもずっと低い。よって、考える時間を多く与えられることが、却って判断を誤らせることがある。
人間の進化の歴史においては、今のような言語や理性を持つよりもずっと以前から、猿の形を持つ前から社会を形成していたことだろう。そこにおいても、家族の愛や、社会の何らかのモラルは存在したに違いない。
近代科学の時代に人間が社会を論じようとして提出した代表的なモデルは、「合理的選択理論」であって、個人という単位における合理性の追求が仮定された。現実社会を数理的に抽象化するためには、モラルという複雑性を捨象するほかなかったのだ。ゆえに、現代の政策における経済学の一見論証された絶対的な合理性とは、人間の利他性を仮定しただけで大部分が瓦解する程度の論理構成であるにすぎない。その根本理由は、幸福の計測不可能性にある。
何にせよ、自然選択によって調和していた、人間を含む自然環境について、科学という理性を導入したことは、とんでもない遠くへと私達を運んだ。技術が莫大な幸福をもたらしたことは確かに思えるが、しかし理性の功罪の両面については、人類は自覚的ではない。
■#3 選択盲 choice blindness
『自分で選択したものでも、知らぬ間にすり替わると、変化に気づかない傾向』
選択肢を与えられて、それぞれの優劣を考えて選んだとする。質問者が、選んだものを手渡す振りをして、実際には別のものを渡す。すると選んだ人は、すり替えられたことに気づかないどころか、選んだ理由を問われて、手にしたものを見ながらその長所を述べ立てる。人間は、合理的な推論の記憶を偽造するのだ。
民主主義社会において、私達は為政者を投票で選ぶ。現実に選ばれた人々は、既存の膨大な利権構造や、官僚との交渉に晒される。かくも巨大化した社会において、有限な選択肢に対する選挙という単純な方法によって、庶民の意図がどれほど政治に反映されるだろうか。
市場主義について言うなら、消費者が商品を選ぶという建て前はありながら、その動静のあまりに多くが商業広告によって動かされているのではないだろうか。
選択盲によって、私達は、完全な強制のもとにあってすら、疑似的な選択行為によって、自身の自由性を錯覚してしまう。近代社会における民衆の自由な主体性は、彼ら自身が自覚するよりもずっと少ない。
■#4 内発的動機づけ intrinsic motivation
『他人から指示されなくても湧きあがるやる気。達成欲求、回避欲求、親和欲求、権力欲求など』
金銭などの賞罰によらない動機を、内発的な動機と呼ぶ。例えばゲームやボランティアに見られる。好きこそ物の上手なれ、とはまさにこのことだ。
近代思想がその思想的な根拠とした合理的な個人というモデルは、内発的な良心を捨象した。社会的な行動には金銭で報いて、反社会的な行動には刑罰で報いることを原則とした。法治国家における自由競争によって、言わば外発的な良心を形成しようとしたのだ。
それはまるで学生に対して、偉くなっていい思いをしたければよく勉強しろと言うようなものだ。そのように報酬を目当てに地位を得た高級官僚が、郷土の庶民を心から愛すると言うようなものだ。しかし、実際に社会を担うのに適切な人材とは、内発的な良心に優れた人々であるにほかならない。内発的であることが真性の良心の条件だと言っても過言ではないだろう。
ゆえに昔、内発的動機づけを捨象して近代経済学に置換した時、社会幸福の最終的な破滅は約束されたのだ。
■#5 リアクタンス reactance
『強制されるとつい反抗したくなる傾向』
勉強しろと急かされるとちょうどやろうと思っていたのにやる気がなくなる。一人の他者から論難されると敵愾心が湧くが、社会的に定められた規則だと通知されると素直に従う。
歴史的な絶対王政などの階級社会は革命され、近代に大衆は平等な人民による社会を立てた。
現実の社会は完全に平等ではないし、そもそも人類におけるあらゆる財の完全な平等などナンセンスに違いないが、少なくとも社会思想の上では、大衆がいかなる他者にも拝跪しないでよい権利が約束されたのだ。
しかし、個人が直接に感知できる範囲での感覚の好転が、より遠く大きい因果では破壊をもたらすこともある。
親からの躾は子供にとっては煩わしく感じられるが、完全な放任主義が常に最も幸福をもたらすわけでもない。幼稚なリアクタンスの感情に従うことが、自身の運命を不幸にしてしまうこともある。
近代的な大衆主義における平等主義は、例えば儒教道徳における徳治主義と摩擦する。なぜなら、理念において人民が平等であるなら、徳や良心は権威ではありえないからだ。立派な人を尊敬することを強いられない社会は、実際に立派な人が存在しない社会を導きうる。
ゆえに、自由主義の理想とは、個人主義の上に浮かぶものにすぎないのだと言える。完全な自由の素朴な追求は、常に現実味に欠ける。
■#6 コントラフリーローディング効果 contrafreeloading effect
『何もしないで得る報酬よりも、労働対価としての報酬を好む傾向』
現代における労働は普通、賃金を得る手段だが、人間の本能は、労働することそれ自体を目的にもしている。
つまり私達は言わば嗜虐的ないし被虐的であり、結果とは別に努力自体に価値を直観する。
この認知バイアスの理由については、人間が社会的な動物であることが一因であるかもしれない。個人が利己的ではなく一定程度自己犠牲的であることが、集団の生存可能性を高めたということの結果かもしれない。この認知バイアスは猫には見られないという。
それゆえ、この認知バイアスをいわゆる「社畜」や長時間の残業労働と関連づけて考えることも可能かもしれない。私達は、苦しんだことそれ自体に価値を見て、自分に尊さを感じ、あるいは他者を蔑む。
そのことは、労働者像を画一化していくだろう。例えば、典型的な賃金労働者としての人のあり方を、模範と見なすことに繋がるだろう。
であれば逆に、祖先からの相続などによって努力にも才能にもよらずに貴族的な生活をしていて、労働していない人々は、労働していないという一事によって蔑まれる。しかし、歴史的な大衆批判などの社会哲学は労働者階級よりも資本家階級によって作られてきたと言える。労働に忙殺される人々においては、良心について高度に思考する余暇などないとも指摘できるだろう。
苦しみに価値を見ることは、他者もまた苦しめ、という恨みを生じる。また、努力自体に価値を見れば、利己的な努力と社会的な努力との価値の区別は失われやすい。それにより私達は、労働に汗を流すことをほとんど直ちに、社会貢献の程度であると履き違える。そのことは、金銭主義によって規格化された労働者の無反省を助長する。
■#7 ダニング=クルーガー効果 Dunning-Kruger effect
『無能な人ほど(無能がゆえに自分の無能さに気づかず)自己を高く評価する傾向』
あまり謙遜して積極性を失っても損をするから、人間の自尊心はやや楽観的にできている。学校のテストなどでは、客観的な点数が与えられて、自身をいくらか客観視できる。しかしそのような客観的な比較が難しい話題については、能力の低い人々ほどかえって尊大になってしまう。
例えばテレビの報道を見て、人々はしばしば、学者や経営者や官僚や政治家を馬鹿と罵る。厳しい選抜を経ていて客観的には実力差が明らかな相手に対してすら、人はしばしば、要点を見抜いたつもりで論評する。あるいは歴史的な人物を比較して、短所を比較する。
人々はしばしば、「わかりやすい政治」を求める。社会の政策判断の中枢において最も知的な人々が論じ合う議題において、末端の大衆に対する「わかりやすさ」を求められれば、どんな正確な推論も世論の流行によって危機に晒されるだろう。
ゆえに、近代民主主義における、大衆主義に見られる民衆の謙虚さの欠如は、この認知バイアスに立脚していると言える。現実は無限大に複雑であり、政治は本質的に、才能ある人々によって扱われるべきものだ。
■#8 バイアスの盲点 bias blind spot
『自分は偏見が少ないと思う偏見。他人の欠点にはよく気づく傾向』
人は自分自身について真に客観的にはなれない。いかに「認知バイアス」の議論を学んだとしても、他者の認知バイアスをより多く捉えてしまい、自らの認知バイアスをフェアに自覚することは極めて難しい。
「先入観を排する」ということは、本質的には不可能だろう。いくら謙虚に客観的に物事を見ているつもりであっても、それは何らかの先入観を前提としている。
民主主義と市場主義が当然の近代に生まれた人々は、その時代に生まれたがゆえの先入観を持っている。様々な物事を明らかに正しいと思っており、一方では常に何かを独善的に断罪している。
例えば歴史的な冷戦のような構造において、自由主義的な陣営も社会主義的な陣営も、自身の正義を拡大して見てしまう。社会思想についても、歴史的なものの欠点はよく目につくが、自分自身が所属しているものについては合理的に構成されていると感じやすい。
直観的に明らかにどうである、と言うことにはほとんど意味がない。
■#9 ローゼンタール効果 Rosenthal effect、ピグマリオン効果 Pygmalion effect
『期待された通りに成果を出す傾向』
教師が贔屓する生徒は丁寧に扱われ勉学の意欲も湧くが、逆に期待されなかった生徒は成績が下がる。間違った認識であっても、その認識がかえってそれを現実化してしまうことの一例である。
このことは、学校のみならず以降の生涯について言えるかもしれない。高い学歴を持つ社員に企業はより多く投資し、初めもし才能が逆転していたとしても、結果的な実力が期待通りになる。家庭や学校、社会から愚鈍と見なされた子供は、実際に才能があっても愚鈍として生涯を終えるかもしれない。
現代の学校における成績評価は、近代経済学に基づいている。
というのも、近代経済学の自由市場主義は、部分最適が全体最適をもたらすと楽観するものであって、そのような部分と全体の矛盾について捨象することが、近代思想の根幹になっている。つまりそこでは、利己的に有用な知性と、社会的に有用な知性とが区別されない。前者のみが知性と呼ばれて評価されるのだと言える。
よって、現代の教育機構は、その意味で知的な子供達に多く投資する。逆に言えば、そのような教育機構に摩擦を感じて極端にはドロップアウトした子供達は、学問的な空間から断絶されることになる。議論を構成する方法を学ぶ機会もなく、有意義な意見を主張する機会もなく、労働に忙殺されて無知なまま、知的に対話できるコミュニティに接する機会もなく生涯を終える。
既存の体制に調和的な人々の方が知的に優れている、という先入観が、現実になる。民主主義的であることが疑いもなく倫理的な価値であると見なされる社会においては、体制を懐疑する生徒は教師に蔑まれて多大な損をする。それゆえ、社会思想が誤りを含むことは、社会全体の自浄作用を損ないうる。
■#10 記憶錯誤 paramnesia
『実際には見聞きしていないことが誤って思い出されること。思い違い。デジャヴや前世の記憶もこの一種』
人間の記憶力は無限大ではないから、物事の要点を記憶したり、抽象化した概念に代表させて記憶されることがある。自分自身にわかりやすくそのように組み立てたストーリーは、後になって想起する時、しばしば、本当に観察した事実の記憶そのものと区別がつかない。
人類にとっての歴史もまた、そのようなものである。
歴史とは、それぞれの地域でそれぞれの人々が、与えられた情報と与えられた利害関係のもとで書き残した情報の積み重ねである。私達は、歴史に対して、必然や進歩といった物語を見るし、また逆にその物語を主観に反映して、客観的な事実と見なす。
近代主義は、歴史が過去から近代に向かって進歩してきたと見る。劣った人々や、間違ったことをした人々が敗北し淘汰されてきた経緯として見る。産業においては、正しいことをした企業が生き残ると考える。しかし、現実を丹念に調べれば、そんな受け止めやすい物語とは異なるひどく複雑な事態が存在することがほとんどなのだろう。
■#11 おとり効果 decoy effect
『(それ単体では無効な)選択肢が増えることで判断が変わること』
現代を生きる私達はすでに、近代主義の道を長く来た。ゆえに、その根本にある合理的個人や個人主義という仮説を取り去った場合の社会像を思い描くことは難しい。しかし、現代の現実と少し異なる世界を思い描くことはできる。
例えば、倫理の価値が強く言われて、個人における自由主義がいくらかでも抑圧されれば社会はどうなるだろうか。
ナチスドイツのファシズムがもたらしたホロコーストや、ソビエト連邦の共産主義がもたらした大粛清の記憶が歴史にはある。不幸な抑圧が行われる階級社会よりは、いかに残酷な一面を含むにせよ、現代の資本主義と民主主義が合理的であるように思われる。
しかしながら、大衆主義批判の立場から見れば、近代的なファシズムも共産主義も、強く大衆主義に由来するものと見なされる。大衆主義に由来するそれらへの批判は、人間に貴賎が存在する社会に対する近代的平等主義の絶対的な優越性を言えていないのだ。
弾圧と大量虐殺という、選択することのありえない選択肢を提示されることで、人間の価値選択はそこに注目してしまう。それによって、近代主義の否定が直ちに残酷な専制を意味すると言われて、それを信じる。
近代的な大衆主義への批判的な言論を、専制のステレオタイプな暴虐の例示だけで封じようとすることは乱暴だろう。
■#12 擬似的空間無視 pseudoneglect
『視野の左半分に注意を払う傾向』
この認知バイアスには、近代大衆主義との関係が見られない。
■#13 言語隠蔽効果 verbal overshadowing effect
『他人に説明すると記憶の細部が不正確になること』
現実は、一瞬の光景であっても、言葉にはしえないほど複雑な情報を含んでいる。人間には、複雑なものを複雑なままに記憶したり思考したりする能力が一定程度備わっている。それゆえ私達は、顔を区別できるし、心理を考えられる。
犯罪者を見た人が警官に顔立ちを説明すると、後で本人を見ても本人と断定しにくくなる。自身が行った言語化に、記憶や認知が引きずられてしまうのだ。
私達が客観的にコミュニケーションをするためには言語によるほかないが、言語の表現力は限られている。直観的な常識によって当たり前の事実すら、しばしば、法律や科学の言葉で記せば膨大になる。
例えば近代思想は人権という概念を用い、法律的に人権の保護を謳うことによってこそ個人の幸福は守られるとした。そのことは、人権の不在は、凄惨な虐待をもたらすという含意をもたらした。
古代社会においては人権が無かった、と言えば、今で言う人権そのものの概念が無かったことは事実かもしれない。しかし常にモラルが絶無であったと見なせばあまりに愚かだろう。そこでは、別の概念による別の言葉が、いくらか合理的に現実社会を組み立てていたと見なせる。
しかしそれは、わかりにくい。私達が現実をうまく抽象化した良い概念や言葉を見つけることは、いつも、そのモデルが捨象した何かに盲目になることを意味している。
■#14 シロクマ抑制目録 white bear suppression inventory
『考えないように努力するとかえって記憶に留まってしまうこと』
言葉やアイデアが与えられると、人はそれに引きずられる。絶対に押すなよ、と言われると押してみたくなる。何かを否定することは、少なくともそれを意識することだから、否定によって、認知からの削除を意味することはできない。
民主主義や市場主義という既存の体制を肯定的に教育することは、対照的に否定される敵を必要とする。体制の歴史が正義の戦いへの勝利だと謳うことは、かつてその体制と戦って倒れた何者かがいることを教える。世界における紛争の存在は、既存の秩序に満足していない誰かの存在を言う。
教師が白だ黒だと述べる時、これほどの愚者が迷いなくそう言うならむしろ黒と白じゃないのか、と疑う子供はきっと存在する。
ゆえに、歴史の全体を隠蔽することはできないし、間違った社会思想が修正される可能性は常に残る。
■#15 自我消耗 ego depletion
『疲労していると自制心やモラルが低下する傾向』
自身への厳しさは、脳における自己コントロールの現象であり、強い自制が続いた後には、かえってコントロールが弱くなり、モラルも低下する。ご馳走を眼前に置かれて我慢させられることは、単にそれだけで精神力の消費をもたらす。
近代的な仮説における合理的な個人像においては、利他的な行為を行う際には自制を必要とすると考えられる。しかしその仮説を否定する立場から見れば、利他的な行為は内発的な動機に基づきうる。
そして逆にもし、利他的な性質を内発的に強く持つ人に、利己的なロジックの中で暮らすことを強いたならば、それもまた一種の自我消耗をもたらすと言えるかもしれない。その自我消耗は、モラルの上昇をもたらすわけだ。
そんな理由で、ある種の人々はボランティア活動に強い興味を持つのだろう。ある種の人々は、近代的大衆主義を批判することに労力を裂くだろう。
■#16 ラベリング理論 labeling theory
『与えられた名称によって判断や行動が影響されること』
私達は、純粋に論理的には思考できない。どんな言葉を用いる時も、そこから連想される様々な概念に判断は影響される。私達は、特定の文脈に適応して議論することができない。論理的に構成された議論を眺めても、一般的な文脈における言葉の意味を切り離して考えられない。
私達が見るのはいつも、対象に固有の実態ではない。既存の経験や知識に基づく類似性として価値を見る。言葉の印象や概念の連想によって、私達は無意識に影響される。
情報の印象の多くはマスメディアによって規定され、マスメディアの動きは経済的な原理によって規定される。それゆえ、民衆は真に民衆自身の言葉を持ちはしない。
■#17 テスティング効果 testing effect
『受動的な反復学習より、頻繁にテストを受けるほうが、記憶が強化されること』
知識は、それを使ってみることで定着しやすくなる。
現代の学校教育において計測される知性とは、直接社会的な利他性を求める意味での知性ではなく、利己的に合理的な知性である。それが社会的にも合理的だろうという楽観が、近代主義である。そのような学校で反復されるテストもまた、モラルや哲学よりも暗記や論理に傾く。歴史教育においては、体制を肯定する認識を繰り返し速やかに出力させられる。
訓練された部分は成長し、その時間の分だけ訓練できなかった部分は退化する。
倫理や善悪と言えば時に曖昧に響くが、その正確な実態は社会的に具体的な因果関係であるにすぎない。そこにはもちろん、方程式ならぬ方程式、公式ならぬ公式が多くある。若い時代の脳にモラル面での訓練を十分に与えないことは、残酷とも見なせる。
■#18 信念バイアス belief bias
『結論がもっともらしければ、そこに至った前提やロジックも正しいだろうと感じる傾向』
人間は、正しい結論が得られているのを見れば、推論の過程も正しかったのだろうと見る。結論が好ましくなければ、推論の方法の論理的な正しさの程度をどうといって評価しない。
あるいはまた、裕福な人の言う言葉には耳を貸す価値があるように感じられるし、地位のある人の意見はもっともらしく聞こえる。地位や権力を持たない人の意見は、無視する以上の価値はないように見える。
そうでありながら人々は、論理に誠実な議論を経て判断したと自覚する。
近代において、大衆主義者達が欲したのは、大衆以上の権威が一掃された結果であった。自由市場主義者達が欲したのは、倫理的権威による規制が撤廃された商業活動であった。民主主義や市場主義の巨大な論理構造は、それを正当化するための言わば詭弁であったにすぎない。望ましい結果の報告を見て、その推論の品質の高さを認めているにすぎない。実際に調べれば、近代主義は、自らを肯定する良い証明を含んでいない。
■#19 情報バイアス information bias
『知ったからといって何も変わらない情報(たとえば、もう済んだことの情報)であっても知りたくなる傾向』
情報は多いに越したことはない、とは言えない。情報を得たり操作するのにコストがかかるが、しかしどうといって役に立たない情報というものは存在する。
私達は、科学技術を発展させ、宇宙の深淵や古代をかつてより深く知った。私達はそのことを喜ぶが、しかしそこには、知識自体を得た喜びも含まれている。
宇宙の複雑性というものは、どうせ無限大に深いだろうと思われる。技術を発展させるほど、その深さを一歩一歩踏破していくことができる。しかしそこに、進歩と呼ぶに値する価値が常に付随するとは限らない。
技術は、諸刃の剣だ。近代主義はいつも、そのことを甘く見てきた。実際、社会的な観点から技術開発を規制することは、自由市場主義における部分の利益追求に矛盾するのだ。
人類の幸福とは、技術発展そのものではない。知識の価値に酔うべきではない。
■#20 利用可能ヒューリスティック availability heuristic
『事例を容易に思い出せるというだけで「正しい」と判定してしまう傾向。例:認知バイアスの解説本を読んで「あるある!」と同意する』
印象的な物事は記憶によく残るから、私達の脳はそれが存在することをよく知っている。現実世界の様々な属性について分布の勢力を問われた時、私達は、脳の中の印象の大きさを、実在についての重大性の分布として安易に応用してしまう。
例えば、体制に沿った報道によって、ある政策に模範的に賛成、あるいは反対している人々が多く提示されると、そのような意見の傾向が世論の大多数であるような感じがする。しかもそれが、正しいように思われる。
実際には、馴染みのある知識から連想されやすいものほど正当であるとは限らない。
■#21 観念運動 ideomotor
『強く念じると無意識に体が動く現象』
この認知バイアスには、近代大衆主義との関係が見られない。
■#22 自己奉仕バイアス self-serving bias
『成功したときは自分の手柄だと思い込み、失敗したときは自分に責任がないと思う傾向』
祖先の親切心がもたらした資源の中にあっても、子供はまるで自身の努力と才能で立っているように自覚する。しかし因果関係の全てを自らに傾けて帰するのではなく、もたらされた不幸を運命だったと諦める潔さも持ち合わせている。
近代の社会思想は合理的個人仮説に深く基づいており、その構造自体からは内発的なモラルは生じない。現代社会にいくらかのモラルが見られるのは、近代思想の現実への適用が所詮は不徹底であって、歴史的な社会が築いた慣習が残存しているからにほかならない。しかし技術が発展するほど、近代思想は徹底して現実に反映される。
そしてやがて人類の幸福が破滅して、人々はそれを悲しい運命だったと受け入れる。
■#23 伝染効果 contagious effect
『成績(や気分)が周囲の雰囲気に引きずられること』
この認知バイアスには、近代大衆主義との関係が見られない。
■#24 根本的な帰属の誤り fundamental attribution error
『他人がとった行動の理由は、その人の置かれた状況や環境よりも、当人の性格にあると考える傾向』
歴史は生存競争であり、社会思想についてもそうだろう。ある社会思想を掲げる人々が滅びて、別のある社会思想を掲げていた人々が生き残ったということはあるだろう。現代の人々も社会思想も、ある意味では確かに、勝ち残ったものである。
しかしだからといって、滅びた種類の人々が愚かで無能だったと考えることは安易だろう。部分的な合理性と全体的な合理性は原則的にすら矛盾するから、「悪貨は良貨を駆逐する」というようなことも現実には起こる。
現実は複雑である。失われるべきものばかりが失われたとは限らない。それなのに私達は、単純に原因を帰して、生存競争そのものを受け入れる。私達の幸福にとって実際には合理的ではないかもしれない生存競争まで肯定する。
■#25 バンドワゴン効果 bandwagon effect
『周囲の意見や流行に影響されがちなこと』
これにはいわゆる同調圧力も含まれる。これが必ず悪いことかはわからない。吉と出るか凶と出るかわからなくても、チームとして一丸になるべき時もあるだろう。しかし、無意識に周囲のムードに流されていて、人真似の態度を自身の意見だと自覚する傾向はあるかもしれない。
例えば、百人の人がある思想を共有していたとしても、彼ら各々が知力を振り絞って同じ結論に到達した可能性は少ないだろう。近代的な大衆主義についても、そこに含まれる全員それぞれが推論してその社会思想の正しさにたどり着いたわけではないだろう。信念や思想を持った人物は稀である。
■#26 人格同一性効果 personal identity effect
『自分の人格を保守するような行動をとる傾向』
犯罪者は、本来自分の人格は善良だが、言わば特別に罪を犯したと考える傾向がある。人は、嘘をつくなと言われた場合よりも、嘘つきになるなと言われた場合に、正直に振る舞う。
人間は、悪い行いをする時、それが自分の根本的な性質によると思うことを嫌い、言い訳を愛する。
人々を騙すような商売をしている人々は、仕事だから、と言う。
仕事だから、と言って、現代の人々は会社の指示に従う。そして、その金銭主義が全体として社会に何をもたらすかに関知しない。自身が罪を問われる謂れなどないと信じて、利己的に生きる。そう生きることに満足する。
それゆえ、近代思想の本質とは、大衆が利己的に生きるための言い訳を提供することである。
歴史的な徳治主義のほとんどが利己心をクズと蔑む中にあって、大衆主義だけが、利己的にしか生きられない弱者の人格を何にも劣らないものとして肯定してみせる。
■#27 クラスター錯覚 clustering illusion
『同じことが立て続けに起こると何らかの傾向や流れがあると信じてしまう傾向』
この認知バイアスには、近代大衆主義との関係が見られない。
■#28 認知的不協和 cognitive dissonance
『自分の行動に矛盾があるときに心理的態度を変更すること』
誰もが、生まれた時代と地域の社会で生きることになる。同時にまた、そこにおける社会思想を前提として生きることになる。
同意していない社会思想を、力関係によって抗いがたく強いられていると考えれば、自尊心が低下する。ゆえに、自分がその社会思想に所属して暮らしているとは、つまり、自分がその社会思想を肯定しているからだ、と心理を置き換える。
そのように、現実の力関係は、心や価値観を変化させることがある。変化させられた人はしばしば、そのことを自覚しない。
■#29 基準率錯誤 base rate fallacy
『全体の統計的な傾向を無視し、特定の情報のみから判断してしまう傾向。例:ヘビースモーカーが肺がんに罹ったと聞くと、ついタバコが原因だと思ってしまう』
この認知バイアスには、近代大衆主義との関係が見られない。
■#30 曖昧性効果 ambiguity effect
『不確実な選択肢を避ける傾向』
この認知バイアスには、近代大衆主義との関係が見られない。
■#31 モラル正当化効果 moral credential effect
『良い行動をとった直後は「次は少しくらい」と逆にモラルに欠ける行動をとる傾向』
この認知バイアスには、近代大衆主義との関係が見られない。
■#32 ゼロリスクバイアス zero-risk bias
『100あるリスクを10に減らすよりも、1のリスクを0にするほうを好む傾向』
この認知バイアスには、近代大衆主義との関係が見られない。
■#33 プロスペクト理論 prospect theory
『不確実な選択に対しておこなう決断が、損得や金額によって変わること。またはこれを説明する理論モデル』
この認知バイアスには、近代大衆主義との関係が見られない。
■#34 感情移入ギャップ empathy gap
『怒ったり、恋愛したりしていると、今の自分とは異なる感情にある人(や自分)の視点で考えられなくなる傾向』
この認知バイアスには、近代大衆主義との関係が見られない。
■#35 アンカリング anchoring
『特定の情報から全体を判断してしまう傾向』
この認知バイアスには、近代大衆主義との関係が見られない。
■#36 一貫性バイアス consistency bias
『「自分は昔からそうだった」と過去の記憶を歪めてまで性格や主義の一貫性を維持する傾向』
例えば日本は、江戸時代に、キリスト教を禁じ、鎖国もしていた。幕末になって西洋の武力に強いられて開国し、西洋を中心とした国際貿易に組み込まれ、キリスト教の布教と信仰を許容した。日本はそれらが最も遅かった国の一つだが、同様のことは世界中について言える。ローマ帝国の国教がキリスト教になる前、ローマ帝国はキリスト教を迫害していた。全ては摩擦を伴って拡大してきた。
自由市場と信教の自由を社会思想とする現代から見れば、過去は一見進歩に見える。つまりは、私達自身がそれを選択してきたように見える。しかし例えば技術開発もまた、私達が選択したものとは言いがたい。産業革命は劇的な経済成長をもたらしたが、経済力は軍事力でもあるから、他国の成長を放置すれば、損な条件で屈服することになるだけだ。私達はまるで私達の利便性のために科学技術を開発しているかのようなつもりだが、実際にはそうする以外の選択肢がない。実際には、私達が技術発展を利用しているのではなく、技術発展が私達の生存競争を利用しているのだ。
人間の価値観は、与えられた結果を肯定し、過去の経緯を主体的な進歩として見る。現在の価値観でずっと生きてきたかのように、近代思想は歴史を眺める。しかしそれは認知バイアスなのだ。
過去の私達の価値観は今とは違った。そしてその変化は、直観的には主体的だったと錯覚されるものの、実際には避けえず強いられてきたものがほとんどなのだ。
■#37 コントロール幻想 illusion of control
『自分の影響力を過信する傾向。例:てるてるぼうず』
人類は技術発展を主体的にコントロールしているつもりになっている。しかし、技術開発を怠れば対外的な競争に敗れるのだから、そもそも選択肢はない。
同様に、人類は歴史に、進歩の物語を感じる。しかし実際にはずっと、全ては抗いえない大きな運命だ。個人の力が世界を変えるためには小さいように、人類の力は人類の運命をコントロールするには小さい。それなのに人々には、その謙虚さがない。
アクセルもブレーキも効かない車に乗っているのに、アクセルやブレーキを踏んで効いたつもりになっているようなものだ。危機に気づいてからコントロール幻想を自覚したのでは、対策が遅れてしまう。
■#38 歴史の終わり錯覚 end of history illusion
『過去の変化にくらべ将来の変化を小さく見積もる傾向』
人間は、過去の状態が変化してきたことに比べて、現在の状態はずっと持続的だと予感する。変化は終わった、と直観する。
例えば、現代の民主主義と市場主義とが、社会思想の完成形であると見る。
実際にはそうではない。歴史は完成などしない。
■#39 正常性バイアス normalcy bias、ブラックスワン理論 black swan theory
『非常事態への対応を避けたがる傾向。例:防犯ベルが鳴っても誤報だと思う』
『ありえないことだと勝手に想定して対応を避けてきたがために、実際に事態が生じると慌てふためくこと』
人間の本能は、明確に見える危機しか危機だと感じない。状況に小さな矛盾を見て小さなストレスや葛藤を感じても、それを無視して、世界の現状を肯定し、楽観しつづける。世界はうまくいっている、と考えつづける。
人々は、自然選択によって優れた人や商品が生存すると考える。世界の既存の秩序に個人の力で抗っても仕方がないから、世界観のフレームとしてその価値観はある。
しかし実際には彼らは、優秀だが損をしている人や、善良だが損をしている人を目撃している。しかし、それに注目して世界に敵対するわけにはいかないから、心理的にはそれらを無視している。そのための手段として、人格におけるモラルの価値を矮小化していく。その矮小化が集団的に反復されることによって、優れたものが勝ち残るという信仰が反復的に強化されていく。
■#40 知識の呪縛 curse of knowledge
『いったん知ってしまうと、知らない人の発想でものごとを考えられない傾向』
近代主義は、部分最適が全体最適をもたらすと楽観する。ゆえにその内部から見れば、部分最適性だけが価値であり優越性であり利益である。自然界の自然選択の原則は直ちに社会動態の原則と見なされる。しかし外側から客観的に眺めれば、それが根拠を持たない、愚かさゆえの楽観であることは明らかだ。
その意味で、近代批判の視座を知ったならば、部分最適を全体最適と楽観できないことは明らかである。万物において、部分合理的な優越性とは別に全体合理的な優越性が存在することが明らかである。つまり、モラルが、単に些細な性格的特徴ではなく、重要な知性であることが明らかである。
その視点から見ると近代主義の内側は、愚かであることを賢さと呼び、無能な者ほど有能と見なしているように見える。近代批判を理解した立場から見ると、その感覚は、非常にわかりにくい。眼前に存在する自明な事実がなぜ理解されないのか、などと感じる。
■#41 非対称な洞察の錯覚 illusion of asymmetric insignt
『私のことは誰も理解してくれないが、自分は相手をよく理解していると感じる傾向』
現代の社会思想は、歴史的に前例のない高みに到達したと自認している。自らが、歴史的な社会思想の成果の全てを踏まえていると自認している。しかし実際には、私達は彼らの何も知らない。逆にまた、過去の人々にとっては現代の社会思想が陳腐だと感じられる可能性もある。
例えば、儒教道徳における徳治主義がある。現代における平等主義と大衆主義、つまりは個人主義と民主主義は、それらに優越する進歩として自らを自覚している。しかし、近代的な大衆主義が古典的な徳治主義に確かに優越すると言える理由は一つもないし、徳治主義を理解していた人々にとって私達の大衆主義の理論が陳腐に聞こえないとは言い切れない。
歴史的な社会思想に対して現在の社会思想が優越しているという直観は、原則的には幻想だ。
■#42 後知恵バイアス hindsight bias
『生じた出来事について「そうなると思った」と後付けする傾向』
近代的な平等主義と大衆主義とは、自分個人に降りかかる被害を嫌う意味で戦争を嫌い、平和を愛する。ゆえに、生じる闘争を正当化する際に、攻撃された場合には、専制体制から侵略されたと言い、攻撃するためには、専制体制に縛られた民衆を解放すると言う。
現代における結果的な現実は、平等主義と大衆主義である。ゆえに歴史とは、悪意ある専制主義者が無謀に戦い敗北してきた歴史である。
人々は、歴史的な戦略家を愚鈍と罵る。自身よりも強い相手に挑んで破れた人々を愚者と呼ぶ。
しかし、部分最適性への信仰を離れるならば、戦って滅びることは必ずしも不合理ではない。そして歴史的には、平等主義と大衆主義の完成が人類の唯一の運命であることは不透明だった。
現代の人々は過去の人々を見て、あの判断は愚かだったと言う。しかし過去のいかなる集団や勢力についても、高い地位にある人々は選りすぐりの賢者達だった。あの損失は避けられたはずだ、と直観して詳細を探れば、致し方ない実情があることがほとんどだ。
■#43 サンクコスト効果 sunk cost effect
『(無駄だとわかっていてもなお)これまでの努力や投資を回収しようとする傾向』
理性によって損失を合理的に受けとめることを、人の感情は妨げる。それは、損失が事実であることを十分に確認しているのかもしれないし、再び失敗しないように深く印象しているのかもしれない。
学校で教えられる社会思想は既存の体制に沿っている。そこからの思想的な転向を促されることは、自身の半生をドブに捨てろと言われるようなものである。共に過ごしてきた家族や友人を捨てるようなものである。固執するほうが人情として正常かもしれない。
■#44 外集団同質性バイアス out-group homogeneity bias
『自分が所属するグループは個性的でバラエティ豊かだと勘違いする傾向。隣のクラスやチームは無個性で平凡に見えること』
自分の立場から遠い人々は些細な存在に見える。のみならず、物語においては積極的にそう描きすらする。
恋愛を描く漫画において、主人公の男女以外の外見が少し劣って描かれることがある。戦争を描く映画において、敵の個人としての人格や感情は薄く描かれる。敵は極端にはゾンビとして描かれ、あるいは昆虫のような地球外生命体として描かれる。
顔が見える相手に銃口を向けて引き金を引くことを、感情は妨げる。個性を認めてしまった相手に対しては残酷に振る舞いにくい。愛情や痛みの対象と、利用や敵対の対象とは区別しなければならない。ゆえに人間は、身近な人間の個性を愛し、遠い人々の個性を捨象する。
しかし実際にはもちろん、全員に個性がある。どんな社会思想や社会闘争で敵性と見なされる人々にも、家族があり、愛情やモラル、豊かな喜怒哀楽がある。
ゆえに、安易に悪役を設定することは感情的な間違った行為だ。集団の団結を妨げる面はあるとしても、物事を多角的に議論する人々が好ましい。誰もが悪口を言った時にはその人の長所を指摘し、誰もが称賛した時には短所を言うことが、一つのモラルである。
■#45 連言錯誤 conjunction fallacy
『全般の情報よりも、特定の情報に注意が行き、それによって全体の判断が歪む傾向』
抽象的な概念よりも具体的な概念のほうが実感が湧く。例えば、単に専制をイメージするよりも、専制による虐殺のほうが具体的で、存在感や現実味を感じさせる。
ゆえに例えば近代的な平等主義を批判的に論じようとすれば、専制を好めば虐殺がもたらされるだけだと、極端な例で全体を否定されやすい。社会思想という抽象的な論点について、特に現代の現実と異なるそれを議論することは、高度に知的であって簡単ではない。
■#46 判断ヒューリスティック judgement heuristics
『特定の判断基準のみで全体を判断してしまう傾向』
ある実験では、被験者達に選挙の候補者2人の写真を1秒間提示して信頼できる側を選ばせるだけで、70%の正確さで当選者を言えたと言う。つまり人間は、他者の内面を計測する時に、実際にはほとんど外見の印象で評価している。
人々は、彼や彼女はいい人そうだ、素敵な人だ、と内面を議論しているように見せて、実際には外見で計っている。外見の尺度と言えば、部分最適が価値である近代においては根本的には経済的な地位だ。
ゆえに、世界の状況を見て人々は、内面のしっかりした人々ほどやはり地位が高く、人間性に問題のある人々ほど社会的に落ちぶれている、と見る。
しかしその時実際には単に逆に、地位が高く裕福な人々ほど優れた内面を有していると直観し、地位が低く貧しい人々ほど蔑むべき内面を有していると直観している。
外見で内面の何が計れると考えることも、内面を直観で何か計れると考えることも、きっと間違っている。世界にはおとぎ話のような相関関係は実在しない。
■#47 情報フレーミング information framing
『同じ情報であっても説明の仕方によって異なって見えること』
この認知バイアスには、近代大衆主義との関係が見られない。
■#48 ルサンチマン ressentiment
『弱者ほど偏屈で嫉妬深い傾向』
この概念は、1844年生まれの哲学者ニーチェによって、近代的な大衆主義を批判するそのものの意味で定められた。よって、付け加える言葉とてない。全く正しい極めて優れた指摘である。
低い立場から見れば倫理や道徳の尺度は直観的に所与だが、社会思想を議論する立場から見れば、様々な道徳を考えることができる。近代主義を相対化する視点から見ると、貴族道徳と奴隷道徳の区別ができる。奴隷道徳はルサンチマンによって生じる倫理の尺度であり、歴史的にはキリスト教、近代においては民主主義によって代表される。貴族道徳における正の価値とは、「大衆的ではないこと」であり、一方、奴隷道徳における負の価値とは、「大衆的ではないことに価値を見ること」である。奴隷道徳の心理は本質的に、自らよりも優れた尊厳を有する人格が存在してほしくないという集団的な嫉妬心、つまりルサンチマンによって生じている。
■#49 セルフ・ハンディキャッピング self-handicapping
『無関係な理由を設けて全力を出さないこと。例:テスト前に掃除を始める』
人間は自らの自尊心を大切にする。全力で努力して自らの才能の不足を自覚するよりは、不遇を弁明にして戦わずに負けることすら選ぶ。
近代的な大衆は、社会思想の舞台で議論しない。モラルの戦場で戦わない。そのための最良の弁明は常に、勉強が忙しい、仕事が忙しい、である。利己的な生活にだけ注力して、しかしいざ必要ならモラルの論点でも大いに戦えるつもりでいる。近代思想が本当に危機をもたらせば、その時になって人類が一致団結して大きな戦果を上げられるつもりでいる。
しかし、現代においてすら生活を弁明に哲学を蔑む人々が、いざ主体的に立ち上がって戦おうと思った時には、単に自らの能力が絶無である現実を知るだけである。論理を構成する力は日々真剣に鍛えておいたほうがいい。
■#50 変化バイアス change bias
『以前の自分を(実際よりも)劣っていたと思う傾向。自己改善の努力を正当化する傾向』
努力したなら成長したと思いたいのが人情であり、そのためには人の本能は過去の自らを貶めることすらする。
近代における社会思想が歴史的な社会思想を蔑んで、現在までの歴史を進歩と呼ぶことも、そうである。
■#51 省略バイアス omission bias
『手を打たなかったことによって生じた害より、何かをしたために生じた害のほうが、悪であると感じる傾向』
間接的な罪のほうが罪に問われにくい。しかし人間の脳はそのことを、間接的な罪のほうが罪ではない、と誤解する。
善悪とは単に社会的な因果関係のことである。ゆえに、罪の程度については、いかに遠く間接的でもいかに近く直接的でも同じだ。人間の利己的な主観が、そのような客観的な視点を妨げるというだけである。
行わなかったことによって他者を殺す罪は、行ったことによって他者を殺す罪とちょうど同じである。
例えば政府によるバラマキ政策を支持して国の対外的な競争力が減少し、将来世代の幸福水準が減少したならば、子供達が味わう苦しみの一つ一つは直に己の罪である。部分最適性を信仰しモラルを失った近代主義をの中にあっては、そのような緊張感がない。エゴイズム同士で足を引っ張りあう。
■#52 圧縮効果 telescoping effect
『最近の出来事はより実際より昔に、昔の出来事は実際より最近に起きたように感じる錯覚』
この認知バイアスには、近代大衆主義との関係が見られない。
■#53 プライミング効果 priming effect
『直前に見聞きした情報によって、別のものごとを思い出しやすくなったり、思い出しにくくなったりすること』
この認知バイアスには、近代大衆主義との関係が見られない。
■#54 単純接触効果 mere-exposure effect
『見慣れているものに好感をいだく傾向』
身近な人々にほど愛着が湧く。庶民は、庶民ほど善良な精神を持っていると感じる。大衆は大衆を蔑まずに愛し、大衆主義を形成する。
しかし身内主義からは客観的な議論は生まれないし、客観的な議論でなければ価値はない。
身内主義は素朴な利他心の根源ではあるものの、理性においてそれに満足することは罪である。
■#55 フレーミング効果 framing effect
『同じ情報であっても置かれた状況によって判断が変わること』
現代人は極端には、労働者としては社畜であり、休日に家族や友人を前にして人間である。
私達にはそういった心の切り替えがあって、それを利用して他者に残酷にもなれる。
しかし、近代を相対化してモラルを見る立場からは、心の切り替えは正当化されない。というのも、自由市場主義による金銭主義によって社会幸福が持続的に発展しているという近代的信仰は事実ではないからだ。
ゆえに、そのような心の切り替え、つまりモラルの文脈のフレーミングが、罪悪と損失の源泉である。
私達は、労働者としてこそ、また他人に対してこそ、人間であるべきである。そこが、近代批判の戦場の前線である。
■#56 確証バイアス confirmation bias
『自分の考えに一致する情報ばかりを探してしまう傾向』
社会的な議論は、数理的な議論とは違い、正しいとか誤りだとかが客観的に確かなものとして言いにくい。
四則演算の正しさはコンピュータで検証しうるだろうし、極端に単純な数理的な証明の正しさはコンピュータで検証しうるだろうが、そういう意味では、社会思想の議論の推論の正しさは最も検証しにくいだろう。
相手の議論が正しくても、認知そのものを共有できない以上は、間違っているように見える場合がある。どんな問題も多角的に見ることができるから、外見的にはいつだって、矛盾を指摘してみせることはできる。
同じ意味で、不都合な社会思想に対して、いくらでも多くの反例を上げて圧倒することは可能だ。
しかしそれは、大声で長く話す人が議論に勝利して見えるという程度の意味しかない。
誰の頭にとっても、自分の頭に最もすっきりと理解できる概念モデルの構造というものがある。であれば、それを補強する材料は重視し、モデルの合理性に否定的な材料は軽視したくなるのが人情である。そして、世界の本質を自分だけが理解しているような気になる。
しかし、外見的な意味で議論に勝利することには、世俗的な意味しかない。重要なのは、自らの精神と自尊心を安堵させることではなく、事実である。
事実は唯一であり、事実だけが客観的である。事実だけが、独善的な残酷の海から人類の幸福を進歩させうる。だから、自分に好都合な材料を集めても意味がない。
的外れな批判を目にした時に、単に論外として却下するのは生産的ではない。相手には相手の認知した文脈や言語がある。ある正しい主張も、文脈を移動されれば正当性を崩される。どこからどこに移動した時どう崩れるのか説明できることが好ましい。
■#57 平均以上効果 better-than-average effect
『車の運転などの日常的な能力について「自分は並以上だ」と思う傾向』
近代は大衆主義の時代であり、大衆主義の時代は凡人の時代である。凡人と言えば響きは悪いが、庶民には、自身をある程度肯定して生きるたくましさが含まれている。基本的にはそれは、健全だろう。
しかしその心理が集団的に作用して、大衆が大衆を平均より少し美化して自覚すれば、凡人より劣った人々は実態よりも多く、凡人より優れた人々は実態よりも少なく直観される。それが進行して完成すれば、凡人は凡人以外を凡人以下と見なすようになる。
そうして例えば、良い学校に通い良い会社で働く人々は、そうでない人々を見下す。ずっと賢い人々からどれほど深く蔑まれているか自覚しない。
■#58 流暢性の処理 processing fluency
『理解しやすいほうを「正しい」と感じる傾向』
愚かな人々には、愚かな人々の言動、愚かな人々の哲学のほうがしっくりくる。程度の低い議論のほうが、正確で論理的に見える。単純なレッテルとステレオタイプを集めたモデルが、宇宙の本質を的確に言い当てているように見える。そして例えば宗教を愛する。
しかし、自分の脳にとって受け止めやすいということは、その程度の議論だということでもある。
宇宙は無限に複雑だから、正確な議論ほどきっと複雑で、賢い人々の言葉ほど理解を越えている。簡単に説明する分だけ事実から遠ざかる。
■#59 自己ハーディング self-herding
『一度下した決断が、自分の次の行動を縛り、考えなしに習慣化してゆくこと』
この認知バイアスには、近代大衆主義との関係が見られない。
■#60 公正世界仮説 just-world hypothesis
『(世界は公正にできているから)失敗も成功も自ら招いたものだと因果応報や自己責任を重視すること』
人々は、正しい行いは報われると信じたがる。ある種の仏教などでは、裕福な生まれの人は前世の行いが正しかったからであり、貧しく生まれることは前世の悪行の報いだと見なされた。世界が公正だと考えることが、社会的な動物として生活する人間の精神を安心させる。倫理的な矛盾に対する葛藤を最小化する。正しい者が勝ち残った進歩として歴史を見てしまう。
しかしもし、部分最適性と全体最適性を区別して考えるなら、自然界における自然選択説を単純に人間社会に持ち込むことは否定される。全体最適性が倒壊していく過程として、歴史には退歩がありえることになる。
裕福な人々は才能があり努力したから地位を得たのであり、貧しい人々はそうではない、と直観することは危険だ。世界は公正ではない。そしてそれゆえに、優れたものが勝ち残るという直観は常に誤りである。しかし人間の素朴な本能にとっては、そのように勝者に媚びて与し、敗者を蔑んで笑うことが最も気楽なのだ。
■#61 保有効果 endowment effect
『入手したものに愛着を感じ、手放したくなくなる傾向』
偶然に出会った恋人も共に長く時間を過ごせばかけがえのないものになる。人間は身近な他者を好み、身内を贔屓する。大量生産の人形すら、触れた数だけ体温が移っているかのようであって、客観的には同一な他の人形とは異なって感じられる。あるいはまた、愛する人が大切にしたものを自らも大切にする。理性的には単に物であっても、感情にとっては物は物以上である。
しかし部分最適と全体最適を区別するなら、身内贔屓に満足することは実に悪徳である。人々は他人の死に涙しないが、自身の死は何よりも恐れる。しかしそれは本能がもたらす感情的な欲求であって、理性の立場から見れば生存に執着する理由は絶対的ではない。そのようにして、世俗的な直観において無批判に前提になっている価値を相対化した視点を求めれば、既存の社会が不合理な欺瞞の集まりだと知られる。近代の価値が相対化されて、近代批判が立ち現れる。
■#62 錯誤相関 illusory correlation、パレイドリア pareidolia
『関係がないものごとにも関連性を見出してしまう傾向』
『ランダムな模様や音声に何らかの意味を見出してしまう傾向。無秩序や無相関を嫌う傾向。例:月の模様にうさぎ』
この認知バイアスには、近代大衆主義との関係が見られない。
■#63 フィック錯視 Fick illusion
『縦棒が横棒よりも長く見える』
この認知バイアスには、近代大衆主義との関係が見られない。
■#64 ステレオタイプ脅威 stereotype threat
『集団に属する人が、その集団の傾向や特徴を意識することで、その方向へと実際に性質や能力が変化していく傾向』
自身のイメージに自身の能力は引きずられる。愚鈍と呼ばれてもし愚鈍と自認すれば事実愚鈍としての実力しか発揮できなくなっていく。ゆえに、個々の技能で自らに勝る人を見つけて尊敬することは生産的だろう。自分をありふれた凡人だと考えればきっと、凡人として人生は終わる。愛着する他者のイメージは、極端にはヒーローのイメージは、人を育てる。
世界には無数の人々がいるから、ほとんどの他者にとって自分の存在は特別ではない。自分という存在は彼らにとって大いに代替可能だから、出会う誰もが自分をステレオタイプで見ようとするし、ステレオタイプで見つづけようとする。近代という大衆主義の時代においては、そのステレオタイプはいくらか世俗的である。ゆえに、押しつけるられるステレオタイプに沿って生きれば、それ以上の存在ではなくなる。
私はあなたが思うような人間ではない、という精神的な態度を持てる人間だけが、凡人以上になる。
■#65 アドバイス効果 advice effect
『他人の意見に流されてしまう傾向』
独立した自分固有の意見を持つということは不可能である。見聞きする他者の全ての意見に自己は影響される。
ゆえに、性質の良い人々との人間関係に帰属することは好ましい。
精神というものはとても汚されやすいものである。モラルの崩壊した時代においては、モラルを愛する傾向を持つことそれ自体が大切な才能である。
■#66 ハロー効果 halo effect
『特定の利点や欠点に目が行き、全体の印象がそれに引きずられてしまう傾向』
世俗的な個人の処世術にとっての他者とはきっと、近づくべき人間と遠ざけるべき人間とである。その意味で、いい人とか悪い人だと言う。
裕福で利益をもたらす人は他に欠点があっても欠点は軽視される。温和で肯定的で心地よい人は、少し能力が低くてもその欠点は軽視される。
しかし詳細に見れば、個人は膨大な属性の集まりである。完璧に理想的な人間も、ありうる限り最悪の人間も、現実には存在しえない。例えば、どんな残虐非道の犯罪者も、もし愚かなら、賢い彼を敵に回すよりもマシである。
現実は理想通りに行かないから、状況はしばしばテキストで習ったより悪い。限られた道具や材料で結果を出すことが玄人であって、条件の中で最適値を返すことが戦略である。優れた戦略とは、人材の長所を活かし、短所を補い合わせることである。
ゆえに、本能的な直観で他者を評価して満足するべきではない。
例えば近代批判の戦況は厳しいから、全ての材料を活かし、全ての材料を最適化せねばならない。
■#67 持続時間の無視 duration neglect、インパクトバイアス impact bias
『つらい体験や楽しい体験を評価するとき、感情の強度に気を取られ、その感情がどのくらい長く続くかを考慮に入れない傾向』
『ある出来事から生じるであろう感情の起伏を大きく見積もる傾向』
この認知バイアスには、近代大衆主義との関係が見られない。
■#68 イライザ効果 Eliza effect
『ロボットやコンピュータについ「人らしさ」を仮定してしまうこと』
人間にとって最大の娯楽の一つは人間であり、また、最も知的な対象の一つは人間である。
宇宙空間において地球は複雑な部分であり、地球において生物は複雑な部分であり、生物について特に人間の脳、そこにあるソフトウェアとしての思想は複雑な部分である。
ゆえに人間は常に他者を願望しているから、時に素朴なAIが書いた文章に人格を感じ、恋愛小説の文章から異性の人柄を空想する。
近代主義を批判する人々は、近代主義を蔑んでいる。彼らにとって本当の人間とは、モラルの議論を知る、語り合うに値する人々のことである。ゆえに、近代主義の時代にあってはそこに孤独があり、理想的な他者への願望がある。知性に対するその信仰は、宗教にも似る。
■#69 偽薬効果 placebo effect
『効果があると信じていると実際に効果が現れること』
勝てると思えば勝てる。負けると思えば負ける。そんな精神論は、しかし一面の事実である。
しかし精神論に満足すれば知的に幼稚だし、倫理的には罪である。
精神論を相対化するためには、歴史を学ぶことが有用である。どれほど優秀な人々がどれほど真剣に努力しても勝利できなかった戦場など世界中にある。倫理の冥府は、天才達の遺体で埋め尽くされている。
ゆえに、戦略にとって大切なのは事実だ。嘘は当面有用でありえるかもしれないが、信頼関係に疑念を注入して社会的な合理性を破壊してしまう。
■#70 少数の法則 law of small numbers、消去抵抗 resistance to extinction
『少数のサンプルの調査結果からでも「一般則」を導いてしまう傾向』
『一度できた慣習はなかなか消えないこと』
思考の基本的な道具は抽象化による帰納と、具体化による演繹である。しかし、帰納の正しさを完全に言うことは常に不可能であって、私達は、早まった一般化や過度の一般化と呼ばれるものに陥りやすい。私達に言えるのはいつも、どのモデルがどの領域についてどんな確率でどの程度近似的に予測したか、ということまでである。
証跡に基づく定量的な議論が重視される近代ではあるが、一定以上に複雑な話題は所詮定量的には扱えない。そんな領域について、定量的な論理の印象を持ち込んでも仕方がない。複雑な領域には、機械的な方法で確認し共有できる正しさなど存在しない。議論は常に、話者らの程度に依存する。
数学ではない以上は、モデルの正当性が反例によって崩れるとは言えない。どんな反例で簡単に崩せるモデルも、適用する領域によっては誰かのために何らかの意味があるのかもしれない。庶民の思考のためには庶民の余力に適したモデルを提示しなければ意味はない。ゆえに、極端な反例を示すことは、文脈により、モデルを崩すこともあれば崩さないこともある。議論はその主旨を捉えて生産的に行われるべきだ。言葉遊びには価値がない。
少数の事例から直観的に過度に一般化してしまう認知バイアスについては自覚的であるべき場合もあるだろう。しかし全てが数理的に統計的に処理できると思えばそれも誤りである。どういった話題ならどの程度の事例からどの程度の一般化をしていいと、機械的に言うことはできない。
■#71 バーナム効果 Barnum effect
『多くの人に当てはまる漠然とした記述でも、自分の性格を的確に言い当てられているように感じてしまう錯覚。例:あなたは表向きは明るく会話していますが心のどこかに葛藤を抱えていますね』
この認知バイアスには、近代大衆主義との関係が見られない。
■#72 過信効果 overconfidence effect
『答えに自信があったとしても案外と間違っていること』
人間は過度に自信を持つ、楽観的な動物である。
現実には、返されたテストの得点が悪かったりして、それが否定されることがある。しかし、だからといって、過度に自信を持ったことが全て悪かったとは言えないだろう。
過度な自信は独善である。独善は人間の本能であって避けられない。それに対するあるべき対処は、独善を自重しようと信念することではなく、論理的な議論を尊重して事実に収束させることだろう。
私達には独善がない、と確信する人々の思想は実際には全く独善である。唯一の解は、論理的な議論である。
■#73 色彩心理効果 color psychological effect
『色使いによって印象や成績が変わること』
この認知バイアスには、近代大衆主義との関係が見られない。
■#74 ミューラー・リヤー錯視 Müller-Lyer illusion
『線分の両端の羽の向きによって長さが変わって見える』
この認知バイアスには、近代大衆主義との関係が見られない。
■#75 上流階級バイアス upper class bias
『社会的地位の高い人ほどモラルに欠ける行動をとる傾向』
社会的地位の高い人ほどすでに社会に貢献していると考えるなら、社会における行動に何らかの優先権を見て、その態度の横柄さにも一種の合理性があると言えるかもしれない。
しかし、近代的な社会思想の内側にあっては、社会的地位の高い人ほど社会に貢献している、という直観が、邪悪な幻想である。部分最適と全体最適は実際には矛盾しているために、全体最適に貢献した人々ほど近代社会で地位を得るわけではないからである。
■#76 ツァイガルニク効果 Zeigarnik effect
『やり終えた仕事は忘れてしまう傾向』
この認知バイアスには、近代大衆主義との関係が見られない。
■#77 ジンクピリチオン効果 zinc pyrithione effect
『チンプンカンプンでも専門用語があるだけで説得力が高まること。名称が付されているだけで妙に腑に落ちること』
近代思想について行われた議論は、西洋を中心に、近代以前についても近代以後についても膨大である。
しかし、キリスト教世界における歴史的な哲学のほとんどは実質的な意味を伴わない空論であり、どうといって畏怖すべきものではない。現実と矛盾する仮定を前提に置いて現実と整合させるために論理構成を拡張してきたような面がある。
例えば近代思想は、個人主義と平等主義に基礎を置いて社会を記述しようとするが、肉体単位で独立した幸福だとか、財の均等な分布という現実が存在しないし存在させられえないのだから、精一杯に膨らんだ後で最後には倒壊することが初めから約束されている。一方で、曖昧と見なされやすいモラルは実は、客観的な実在である。
いわゆる近代哲学の議論に触れればそれは専門用語の塊だが、だから近代思想にも論拠があるのだろうと期待すればそれはひどい買いかぶりだ。近代科学について西洋は崇拝に値するが、哲学については東洋は劣らない。
■#78 自己知覚 self-perception
『自分がとった行動から自分の感情を推測すること』
この認知バイアスには、近代大衆主義との関係が見られない。
■#79 刺激等価性対称律 symmetry in stimulus equivalence、カテゴリー錯視 category mistake
『「逆も真なり」と思ってしまうこと』
『次元の異なる議論(「そもそも論」など)や、無関係な喩え話、特殊な例を持ち出して、誤った結論を導くこと。例:「ビタミンCは体によい」と聞いて毎日一杯のレモネードを飲むなど(注:レモンよりビタミンCを含む食物は多くある。また、どのくらいビタミンCを摂取すべきかの観点が欠けている』
この認知バイアスには、近代大衆主義との関係が見られない。
■#80 自由意志錯覚 free-will illusion
『自分には自由があると感じる錯覚』
近代思想の理想主義はいつも理屈に偏っていて、現実が軽視されている。
法律で平等主義を言えば確かに理念上は最も自由だが、もし法律で階級主義を言っている社会が他に存在したとして、民衆の実質的な幸福の程度がそれに勝っているとは言い切れない。
個人主義によって共感を捨象して、民主主義によって責任を捨象して、幼稚で素朴なエゴイズムにとっては最も葛藤の少ない理想郷が築けはしたが、そうして確保した自由性とは、単に理念上のものである。
一方でそれがもたらした現実は、近代経済学による自由市場主義という、部分最適と全体最適の矛盾の捨象であり、技術発展のための歯車としての人間の画一化だ。
大衆が支配者を滅ぼせば、つまり彼らを愛する指導者も失われて、内発的に民衆を庇護する守護者を失ったならば、大衆それぞれが自己の利益を守るしかないが、個人の微弱な知力における認知など、巨大な資本の力によって簡単に方向づけられる。結果として歯車達は、自由を自認しながら壊れるまで同じ場所を回る。
良心が失われていく時代は、良心を持つ自由がない時代を意味する。しかし奴隷道徳が選択するのは、良心を持たないことが蔑まれない自由であって、だから人間精神はどこまでも部分最適に最適化されていく。
技術発展が大衆を使役する中にあって、当の大衆は、安易な利己心が解放されていく自由に酔う。部分最適に幸福を制約されていながら、偽りの自由に満足して、近代的な社会思想を肯定しつづける。