【9】
目の前でうずくまるからし色の男は、先月まで自分が働いていた中華料理屋の従業員だった黄さんだった。入国管理局に不法滞在を嗅ぎつけられたとかで、王さんという男と二人で姿をくらました男だったのである。
「え、え、こんなとこでなにやってんの?」
黄さんは充血させた目に涙を浮かべ、梶川の後ろにいた自分の両手を粘ついた手のひらで包み込んだ。
「シューチャン、なんでわかった。なんでここわかった」
「ほんとに黄さん? 嘘でしょ?」
男と自分とのやりとりに、梶川が首をかしげながら後ろを振り返った。
「シューチャン、ケイサツに言ったらダメ。家族で住んでる。悪いことしてない。中国帰りたくない。ここに住んでる。悪いことしていない」
自分は狐に包まれたような思いである。
自分の顔を間近で見つめる黄さんの大きな眼は充血し、濡れた薄い唇が小刻みに震え、額や鼻の頭に粒の汗が浮いていた。ぐいぐいと力を入れた手が哀願を物語っていた。
すっかり気の抜けたような梶川が「君の知り合いなの?」と、拳銃を持った手の小指で頭頂部をかいている。
黄さんとの関係を梶川に説明する自分の口調がたどたどしい弁解調になっていた。今や自分の中では拳銃を持つ梶川のほうが危険な男に映っているのは間違いなかった。梶川が銃口を向けていた男と自分が以前からの知り合いであったことが、梶川の機嫌を損ねはしないかと気がかりでならなくなった。
「この人、ケイサツか? シューチャン、この人ケイサツか? この人、ワタシを殺すのか? ワタシのことを、殺すのですか?」
黄さんは自分をベッドのほうへ引きずりながら、梶川を怯える顔で見つめていた。
「殺さない、殺さない。オッホッホ。なんなのよ、こんなことってあるんだねえ。いやあBだねえ、こりゃあまったくBだよ、オーホッホ!」
梶川は顔をほころばせた。が、それだけではまだ緊張感が解けはしない。
黄さんと自分のためにも、黄さんになぜこんなところにいるのかを説明してもらわなければならない。
「ここ、ワタシが働いていた。ここ、ワタシのお店だった。六年も前。でもお客さん来なかった。お金なくなった。ワタシ逃げた。逃げて劉さんのお店で働いた」
「えっ? ここって、黄さんのお店だったの?」
「そう、ワタシのお店。黄龍という名前。ワタシの名前、黄ね。だから黄龍ね。三ヶ月で壊れた」
「マジか……」
と間の抜けた声を漏らすと、横でへらへらしていた梶川が、突然あらぬ方向へと拳銃の引き金を引いた。
ボスッという発砲音とともに、小石が跳ねたような音が、自分の背後やら足下から聞こえた。
梶川の拳銃から放たれたものは、蛍光オレンジの、鼻くそほどの大きさのプラスチック弾だった。
「は?」
自分は、一瞬固まった。
「お、おっちゃん、それ、偽物?」
「これ? これは偽物だよ。ほらさ、こういうこともあるからさ、威嚇のために常に持ち歩いてるんだよね。オッホッホ」
手渡された拳銃は意外に重量感があったが、本物ではなくてガス銃らしかった。柄の下部にガスを充填する口が小さくついていた。それを確認して、ようやく凝り固まっていた緊張が解けたのだった。
そうすると視界がじわじわと広がっていき、それに伴って五感が復調していくのがわかる。これまで見えなかったものが見えてきた。ベット脇の一隅に、大根のへたが堆積していることに気づいた。これまで焦点を合わそうとすると白い靄がかかっていた黄さんの嫁の顔もわかるようになった。緊張の融解した自分とは違い、まだ嫁は眼が引きつっていた。黄さんが中国語で事の顛末を説明したが、嫁も娘も完全に緊張の解けきらない微笑みを浮かべ、自分と梶川を見つめた。
五感の復調は、この部屋の異様な暑さも肌に感じさせた。
梶川の顔にも汗が滴っていた。この部屋はもわっとした空気が充満して、じつはものすごく暑かった。自分は西洋窓を両手で押し開けた。ほとんど風がなかったが、それでも空気は見違えるように清浄になった気がした。
ペットボトルを梶川に手渡すと、ケツのポケットにガス銃を差し込んでお茶をぐびぐび飲み干した。黄さんが梶川のケツの銃を指さしながら「これダメね、これ怖いね」と繰り返していた。
梶川がガス銃を黄さんに渡すと、彼は黒光りするそれをしげしげと眺め、映画のガンマンのような素振りをしながらおちゃらけていた。先ほどの緊張感から一転、まったく平和な光景である。
その平和感に包まれてしまったのか、そのうちに梶川がみんなで写真を撮ろうと言い出した。
「Bだよ、この展開以上のBはないよ。オーッホッホ!」
ご満悦である。まだまだ自分にはこの奇跡的な展開をBと呼ぶ思考回路が解せなかったが、融和のしるしとしての記念撮影には賛成した。
窓辺は逆光だから反対の壁側に寄れと梶川が促した。黄さんは銃を構えて撮りたいと子供のようなことを言って相変わらずおちゃらけた。しかし黄さんの娘はうつむいたまま一向にベッドから動こうとしなかった。おさげで頬の赤い黄さんの娘は、我々の侵入に恐れおののいてお漏らしをしていたのである。その様子にみんなで笑い合い、しょうがないのでお漏らしをした娘を取り囲むように配置につくと、梶川がいそいそとカメラのタイマーをセット、逆光に抗うためにフラッシュを焚いて三枚撮影した。
撮れ具合を確認する梶川の背後から自分もチェック。良い一枚である。極度まで張り詰めた緊張の糸をパツンと切った人間の柔和な表情。いや、柔和というよりも弛緩しきっていて微笑ましかった。黄さんは香港の映画スターでも気取っているのか、体を斜に向け股を大きく開き、ガス銃を持つ右手を顔の近くに構えて左手は高く天井に突き上げていた。
梶川は両手で銃を構え、堂々と銃口をカメラに向けていた。
と、梶川、なんともうひとつガス銃を持っていたのである。どこに隠していたのだろうか?
「なーんだ、もうひとつ持ってたんだ」
「そうそう、こっちのほうが重厚感があって好きなんだよね。ウホッ」
黄さんが梶川の持っている銃を貸して欲しいというようなことを言って手を伸ばし、梶川が背伸びをして「ダメよ、ダメよ、こりゃあダメよ」と体を翻していると、突然梶川が「アタ―ッ!」と絶叫し、数度片足で跳ね、床に倒れ込んだ。
「うぁちゃー、やられたーっ!」
梶川は右足首を押さえていた。黒いソックスをずり下げて、肉をつまむようにしながら自分にこう言った。
「刺されちゃった! 君っ、君っ、ちょっと、タ、タイガーバームを取ってきて!」
「え、え、あ、オッケ」
倒れて呻く巨漢の周りを、スズメバチがブーンという羽音を響かせながら旋回していた。
大根泥棒が、ガス銃を握りしめたまま梶川の横であたふたしていた。




