【8】
二階でただひとつ、鍵のかかった部屋。
梶川は、そこにいると言った。
自分は血相を変えて「逃げようよ」と懇願したが、梶川は首を縦に振らなかった。いくら仕事とはいえ、なぜそこまで執拗にこだわるのかわからなかった。
我々は足音を極力立てないように廊下を進んだ。
そして、鍵のかかった部屋の前に立った。白くくすんだドアに黒いスプレーで女性器の卑猥なマークが描かれている。
梶川がもう一度、部屋が開かないかとノブを回す。やはり開かない。
すると突然梶川が、足でドアを思い切り蹴った。なにがそうさせるのかわからないが、梶川は怒りをぶつけるように何度も何度も蹴り続けた。
やがて朽ちた板の真ん中に裂け目ができ、その裂け目に今度は三脚をぶつけはじめた。
蜂の羽ばたく音と唸るような山鳴りと、自分たちの息づかいしか聞こえなかった廃墟の二階に、ドアを破壊する凄まじい音が加わった。いや、今では破壊の音だけがこの空間を支配していた。
ドア上部の枠が徐々にゆがんでゆく。板が割れきるより先に、蝶番が力尽き、梶川の渾身の一蹴りにより、ドアはとうとう部屋のほうへなぎ倒された。潤沢な日光が溢れた空間に噴煙のような埃が舞い上がった。
梶川がどしどしと中へと踏み込んでいく。もしかすると、彼の内部にも冷たい恐怖が渦巻いていて、それが防衛的判断力を凍結させ、ゆえに果敢さだけが残ったのかもしれない。梶川のその無頼の様子は、感覚的な不具を象徴しているようにも見えなくはなかった。
梶川の巨漢に隠れるようにして、自分も恐る恐る部屋に入っていった。ひどく重い歩みに、足に堅いバネが取り付けられたかのような錯覚があった。
豪奢な光が粉塵を白く透かし、しばし視界を遮った。が、塵のフィルターが地面に下りてみれば、そこが他の部屋とは明らかに異なる雰囲気を持つことが認識されてくるのだった。
異なる雰囲気……。
そこは、ガラスや破られた壁紙のくず、そして家具の破片などは散乱しておらず、すっきりした様子である。そして思わぬことに、その部屋には匂いがあった。ほのかに温もりを含んだ親しみのある匂いである。
それは要するに人間の気配であった。
その気配と自分とのあいだに、梶川が立ちはだかっていた。
梶川の背後から顔をのぞかせると、部屋の左手隅のキングサイズのベッドの上に、三つの黒い影がもぞもぞと蟠っているのがわかった。半円の西洋窓から差し込む逆光が、それらを影にしているのである。
それは、一組の男女と、一人の少女であった。
彼らはベッドの上で体育座りになり、体を丸め、ドアを蹴破って侵入した二人の男におびえる様子で眼を剥いていた。男はからし色のスウェットを纏い、女は胸元にスパンコールの散らばった黒いTシャツを着、おさげをふたつ作った少女は両脇の男女にその小さな体を守られていた。
自分は身構えた。梶川から渡された三脚を握りしめ、向こうが少しでもおかしな動きを示したら、梶川に当たってもいいからむちゃくちゃに振り回そうと考えていた。恐怖から理性がいつ暴発してもおかしくないほど神経の糸が張り詰めて、足の震えが絶えなかった。
反面、心臓に剛毛の生える梶川は、彼らの様子を確認すると語気を強めることもなく声を掛けた。
「こんなとこでなにやってんのよ、えっ? なにやってんのよ」
よくこんなに冷静でいられるものだ、と自分は梶川の態度に改めて驚いた。しかし、その冷静さはやはり危機管理能力の欠如であろうから、さきほども決意したように梶川を制御させる役割が自分にはあるはずだった。けれどもこの状況において、どのような対処をすれば安全が約束されるのか、自分にはわからなかった。
わからなかったが、梶川が、その答えのようなものを手に持っていることに自分は気づいたのであった。
梶川はその右手に、ニコンデジタルではなく、拳銃を握っていたのである。
黒光りするチャカ。梶川の手に、チャカが握られている。その重厚な銃口は蟠る三人に向けられていた。
梶川の、何者をも恐れぬその精神の支柱は、場数をこなした経験でも先天的な才能でもなく、いま現在、その手に握られたものにあったのである。
「オホッ、ねえ、なにやってんのよ?」
梶川の声には少しの狼狽もみとめられない。その平穏な響きが自分にはゾッとするのであった。拳銃を握る人間が発するには、柔らか過ぎるように感じられたのである。
自分は恐怖の中で混乱していた。
うずくまる三人が自分を恐れさせていたものなのか、それとも自分に背を向けて拳銃を握る男が自分の恐怖の源なのか、まるでわからなくなった。自分は梶川の一挙手一投足から視線を外すことができなくなった。
「こんなとこでなにやってんのよ。え? 殺されたいの? 取材の邪魔したら殺しちゃうからね」
するとからし色の男が意を決したようにベッドから飛び降りて梶川の前に立ちふさがると、理解のできない言語で梶川をまくし立てるように声を発した。
が、それを聞いた自分は、記憶の海から浮き上がってくるものに気づき、それをつかもうとした。
「なに言ってんのかさっぱりわかんないよ。オーッホッホ」
自分はようやく視線を梶川から動かした。ハッとした。自分が発するより先に、からし色の男のほうからこう呼ばれた。
「シュ、シューチャン……」
名前を呼ばれて自分は眼を丸くした。
「え?」
「シューチャン!」
「えっ、黄さん?」




