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黄龍革命  作者: 原田昌鳴
7/10

【7】

 撮影は順調に進んでいった。

 梶川曰く、この廃墟の外観は安っぽいのであまり画にならなず、メインカットは血を流す眼ん玉と二階の部屋になるとのことだった。安っぽい城もどきの建物に『ラーメン黄龍』と書かれている違和感が若干あるだけで、確かに感覚に訴えかけてくるものはなかった。

 一階駐車場壁面の血を流す眼ん玉の絵の撮影は、三脚を立ててシャッターを数秒開けっ放しにする技法を駆使して行われた。レリーズと呼ばれるケーブル状のシャッターをカメラ本体から伸ばし、写真館の主人などがするようにケーブルの先のボタンを親指で押したり離したりするのである。ブレを最小限に抑える写真家稼業常套の技術らしかった。

 そんなB級プロ根性をいかんなく発揮する梶川の横で、自分はあることに思い至った。

 よくよく思考を巡らせてみれば、自分は梶川の横に突っ立っているだけであった。移動するときに荷物を担ぎ、三脚を伸ばしたり縮めたり、梶川にペットボトルを渡したり、頭に買い物袋をかぶってスズメバチを避けたりしているだけである。

 つまり、非常に楽なのだった。

 ただし、精神的な苦痛が重たかった。けれどもこの精神的苦痛さえやり過ごしてしまえば、これほどまでに楽な仕事などないと思われた。注文の度に機械的に中華鍋を振る仕事よりもよっぽど楽である。機械的に中華鍋を振るという仕事は、時折『なぜ自分は中華鍋を振っているのだろうか? 思い返せば昨日も振っていたような気がするが、それには一体どのような意味があるのだろうか?』という具合に哲学的思考に陥ることがあり、時折やり場のない虚無感に襲われることがあるので注意が必要だと考えていたこともあった。しかし梶川のアシスタント業務は目的がハッキリしている。つまり、自分は撮影を円滑に進めるための用心棒的側面を持ったアシスタントであり、自分が楽をしているということはすなわち撮影が順調だということになるのである。

 梶川が他にどんな撮影をしているのかはよくわからないが、もしも霊的なもの、殺人的なもの、極道的なものではない撮影があるのなら、今後も手伝っても良いのではないかという甘い気持ちが自分の脳裏に閃いた。

 そこで撮ってはチェック、撮ってはチェックを繰り返す梶川の後ろ姿に訊いてみた。

「おっちゃんって、今後の取材の予定はどうなってんの?」

 右肩の上から首だけ振り返った梶川は「おっ?」と言った。

「今月末からタイに行って少数民族を撮ってくるよ。我がBの仕事で」

 タイかぁ、と、自分はまだ見ぬ異国に羨望のため息を漏らした。

「それって危険な取材?」

「そうね、ゲリラに襲撃されるかもしれないね」

「えっ?」

「ビックリしちゃった? でもマジだよ」

「襲撃?」

「可能性はあるよ。ウホッ。僕はタイとミャンマーの国境に暮らす首長族を昔からずっと追いかけてるんだけどさあ、途中ジャングルに入っちゃうわけ。そこのジャングルにはゲリラがいるから危険なんだよね。死と隣り合わせの取材だよ。オッホッホ」

 タイはなしだな、と自分は考えた。

「ああそう。でもさあ、もし今後もなんかあったら呼んでよ」

「オッケ、オッケ、呼ぶよ、オーホッホ!」

 血の涙を流す眼ん玉の撮影も順調に終わり、いよいよ二階の撮影に移ることとあいなった。

 きゅいっ、きゅいっ、と軋む階段を上がりながら、梶川は「どこを撮ろうかな」とつぶやきつつロン毛白髪の中に詰まった脳みそを回転させているようだった。

 さきほどから自分は、精神的苦痛をやり過ごす方法を考えているのだが、なにも思いつかなかった。二階への階段を一段一段上りながら、次第に自分の恐怖レベルも上がっていくのであった。

「ちょっと、どの部屋を撮るか決めてくるから、ここで待ってて。オッホッホ」

 梶川は、廊下の端っこに臆病者の自分を置き去りにし、一人でずんずんと奥へと進んで行った。顔を突っ込んだだけでそのまま通り過ぎる部屋もあれば、中に入っていってなかなか出てこない部屋もあった。

 梶川の姿が視界から消えると、自分の心には『この世には自分と幽霊しか存在していないのではないか』などという突拍子もない空想が浮かんだ。そんなわけはない、との思考が優勢になってくると今度は、極道の方々が来襲するのではないかという思考にスウィッチし、自分は時々窓から外を窺った。

 結局、梶川は三つの部屋を選んだらしかった。

 まずは北側に向いた西から二つ目の部屋である。

 なぜここを選んだのかといえば、壁紙がめちゃくちゃに剥がされて露出した板張りに、無数の赤い手形が押してあったからである。所詮愚劣な田舎風味の暴走集団ごときが侵入し悪戯した程度のものであろうが、画的に読者に訴えかける要素は存分にあったのだった。

 しかしこの部屋は山側に向いており、しかも裏山から枝木が無数に手を伸ばし建物にせまっていて申し訳程度の光しか入って来ないのでフラッシュを焚いての撮影になった。ただフラッシュ撮影は通常のシャッタースピードで撮ればいいのでこの部屋自体の撮影時間を短縮する効果があった。撮影はものの五分で終了。自分があたりをキョロキョロしているうちに終わってしまった。

 次の南向きの一室は、日光の差し込み方が理想的で、葡萄酒色の風呂場を撮るのに一番良かったらしい。床に余計なものも転がっておらず、ホテルとしてのかつての隆盛を想像しやすいだろうとのことだった。

 部屋に入って三脚の足を伸ばしているあいだ、梶川は広角レンズを装着し、カメラを下に向けてボタンを操作し、露出やらシャッタースピードなどを設定しているようだった。

 そして梶川が撮影を始めると、突然どこかの部屋からなにかが落下したような音がガシャンと響いたのだった。反応した自分がドキッとして体を動揺させると、心の底から迷惑がるような声で梶川に怒られてしまった。

「あああ、もぉー、動かないでよぉ。写真がぶれるからさあ。もふっ。もうさあ、動かないか廊下で待ってるかのどっちかにして」

 床がやわやわで、ほんの少しの動揺でも三脚を通じてカメラを揺らすのだ。

 梶川の近くから離れたくない自分は、当然動かないほうを選ばざるをえないのだった。

 それにしてもこの梶川漫歩というフォトグラファー、三十余年もの歳月をこんなことばかりに費やしているだけあって、さすがに肝が据わっている。相当なBである。誰もいないはずの殺人廃墟で湿った空間を切り裂くような落下音がしたところで、彼が撮影への集中力を切らすことはなかった。

 しかしこの肝の持ち様とは、場数をこなせば誰にでも身に付くものだとは自分には思われなかった。なにか先天的な無頼の性格がなければ、殺人現場やら霊魂彷徨う廃墟やらに潜入し、口唇の端っこにかすかな微笑みを浮かべながらシャッターを切るなどできないのではないか?

 自分は、しかしこうも思うのであった。

 集中できることは結構だけれども、本当に殺人鬼がいて、こちらの様子をうかがいながら襲撃のタイミングを狙っているとしたら、撮影に集中しているがゆえに危機管理能力が欠如し、危険なのではないだろうか? つまり、適度に恐怖におののいてキョロキョロしているほうが、結果命を守ることにつながるはずだと気づいたのである。

『自分がビビっていなければ、我々の命は危ないかもしれない。だから自分はビビらないといけないのだ。自分の臆病は必要な能力であるのだ』

 自分の胸に、この取材で初めて自分の役割がわかったような気がした。堂々と臆病者でいようと決意を新たにした。考え方によれば、それこそ本当のB級ではなかろうかと感じたのである。社会で悪とされている臆病を存分に発揮し、心臓に野太い毛の生えた梶川との調和を保ち、取材を遂行せしめるのである。そう、今自分はC級からB級に昇格しようとしているのだ。

 そう思った矢先であった。

 浴室の撮影を終え、カメラをくっつけたままの三脚を梶川が担いだとき、ピロリロリロと梶川の携帯が鳴った。自分はやはりドキリとし、鼓動がどっくんどっくん波打った。

「あ、編集部からだ」

 編集部の人間がなにを伝えているのかはわからないが、梶川は余裕の笑みを浮かべ、相手を少し小馬鹿にするような語調で「わかったわかった、大丈夫だよ、大丈夫」と繰り返し述べている。

「編集者ったら焦ってやんの。オホホ」

 携帯をズボンのポケットに突っ込みながら、梶川は顔をほころばせた。

「なんかさあ、この廃墟でさあ、幽霊を見たって人間がいっぱい出てきたらしいんだよ。昨日ネットの掲示板に編集者がここの様子を知りたいって書き込んだらさあ、先週幽霊を見たとか、マジでやばいですとかって書き込みが相次いだんだってさ。なにかいるかもしれないから気をつけてください、だって」

「ええっ!?」

「うん、やっぱりいるんだわ」

 梶川は、確かにそう言った。

「は?」

「いるとしたらやっぱあそこだな」

「え?」

 これまでに見たことのない真剣な顔つきに変わった梶川は、自分に耳打ちをする。自分は膝のあたりが震えている。梶川は三脚からカメラを外し、首にかけた。

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