【6】
梶川はニコンデジタルをバッグから取り出して焦点距離8mmの魚眼レンズを装着し、黄龍のちょうど正面から全景が入る距離まで下がり、ファインダーをのぞき込んだ。光がなんだかんだと、ぼそぼそとつぶやいていた。
そのうち梶川は、ややムッとしたような調子で自分にこう言った。
「んもう、そこに立ってたら君が映り込んじゃうじゃない。下がって下がって」
カメラ機材の入ったリュックを背負い、買い物袋を頭にかぶった自分は、梶川のほぼ真横に突っ立っていたのでまさか映り込むなどとは考えつかなかったが、魚眼とはそれほどの画角をも包含することに驚いた。
キャシャッ、キャシャッ、キャシャッ。
大きな背をかがめた梶川は、カメラ背面のボタンをいじくり、たったいま切り取った廃墟の像を確認する。背後からのぞき見をした自分の眼に、二階建てで両端に円塔を従えたクリーム色の廃墟が、中央部を膨張させてたまご型にひん曲がっていた。
このようなテクニックが写真家稼業の人間にとって如何ほどなのかは知らないが、カメラにまるで造詣をもたない自分には充分に感嘆をもたらした。
「ほお、なかなかやりますなぁ」
「ここを撮ったら眼ん玉を撮るからね。トータル三時間で撮り終わりたいな、できれば」
再びファインダーをのぞき腰を落とした梶川の背後で、手持ちぶさたの自分はスズメバチを眼で追っていた。
そのとき、黄龍二階の西洋窓の中で、影が揺らめいたような気がした。スズメバチに引導される視界の隅で、ふわりと風景が歪んだような感覚を捉えたのである。
「あらっ? 今、二階になんかいなかった?」
「幽霊じゃないの?」
「ば、馬鹿な」
「いや、きっとそうだよ、殺された人たちの霊がいるんだよ。オーホッホ」
あまりに自分が敏感で繊細なので、梶川の悪戯心をオンにしてしまったようだ。梶川にそうもてあそばれて臆病な自分の心はさらに萎縮してしまう。今はまだ外での撮影だからいいものの、後に必ず、暗く湿った二階に戻って撮影しなくてはならない。あろうことか二度も殺人の行われた、陰気な、おどろおどろしい場所で、である。二度も殺人の行われた場所などそうそうあるものではないが、自分は現実にそんな現場に立っているのだ。
「おっちゃんまだ? 早く帰ろうよ」
そんなふうに弱気なことを言ってしまう。梶川はそれを聞いて、想像以上に自分が臆病者であることを悟り、いじめると仕事に影響すると思ったのか、こんな慰めをくれた。
「君よっぽど幽霊が怖いんだね。僕はもう三十年以上こんなことばっかやってるけどさあ、幽霊なんかいないよ。それは僕が保証するよ。オッホッホ。三十年以上やってて一度も出会ったことないんだから、間違いなくいないね。そんなこの世以外の者よりさ、よっぽど生きた人間のほうが怖いよ。極道なんかに捕まると想像してごらん。イマジン、イマジン。そっちのほうがよっぽど最悪だよ。とにかくさ、幽霊がいたって僕はかまわないわけ。むしろいたらそのほうが画になるよ。ウホッ、一枚撮って『我がB』にでも載せちゃえばそっちのほうが読者喜んじゃうよ。オーホッホ!」
それを聞いて、この巨漢の言いたいこともわからなくもない、と自分は感じた。
言われてみれば、自分だって幽霊など見たことがないのである。冷静に想像してみると、極道の方々がやってきて拳銃を振りかざして凄まれるほうが確かに恐ろしいし、現実的に起こりうる危機のように思われるのであった。
ペットボトルの水をごくりと飲み込んだ。清涼な水は冷たく、自らの食道と胃の所在を示すようにするすると臓器を流れていった。
梶川はかの名曲『イマジン』を口笛で吹きながらシャッターを押していた。




