【5】
外階段を上り二階に踏み入ると、建物の真ん中を東西に廊下が走っており、その両側に個室が並んでいた。その廊下の突き当たりの扉から矩形の日光が入り、薄暗い二階を照らしていた。湿っぽい空気が沈殿していてカビ臭く、足音や息づかいが鈍く反響して耳に返ってくるのが心地悪い。開放感のあった屋外では感じなかった気色悪さが迫ってきて、自分の歩幅は自然と狭くなり、心臓が上のほうにせり上がってくるようだった。
それにしてもこの廃墟、やはりラーメン屋らしい風情はまるでなく、どう考えてもラブホテルの面影しか見出せない。こんなところでラーメン屋を商おうなどと考えた人間はアホではなかろうか、と自分はA級を気取りながら考えた。ラーメンが出来たらいちいち部屋へと持って行くのだろうか? 一人で来店した場合、旧ホテルの一室で孤独感を味わいつつ食べるのか? そもそも注文や会計はどうするのであろうか? どう考えてもラーメン屋として使用するという感覚にならないし、瞬間的に潰れたのには納得がいく。
と、そんなことを考えつつ、我々は各部屋を閲して行った。
廊下も部屋も破れた天井からなにかのコードが垂れ下がっており、埃、塵、芥、砂利が足元を埋め尽くし、壁紙はめちゃくちゃに裂かれ、ブロック塀が剥き出しになっている。部屋には葡萄酒色のタイルが貼られた風呂場があり、部屋と風呂場をガラスで隔てていた形跡を大きな窓枠が物語っている。部屋の鏡はまんべんなく割られていて、鋭いガラスの破片が散乱し、踏み砕かれて光っていた。
ある部屋の一室では、寝室部分が真っ黒焦げになっていた。この部屋で誰か死んだのではないだろうか。そのような空想が襲いかかる。いや、二階に上ったときからどの部屋で殺人があったのだろうという考えが脳裏をかすめていたのであるが、自分は頭を振って何度もその考えを蒸発させてきたのだった。
建物の西部分から二階に上ったのであるが、東の角部屋の、バイパスに面した南向きの部屋には扉が閉まって鍵がかかっているようで、どういうわけか入室することができなかった。梶川が扉をガチャガチャ回したが、開かない。
「おっちゃん、もしかしたらこの部屋で殺されたんじゃないかい?」
鍵がかかって入れない部屋を殺人の部屋と断定してしまえば気持ちが少し楽になるような気がしたので、自分はそうつぶやいた。
「おっ、良いね良いね、だったらなおさら撮りたいよ。オッホッホ」
と梶川は肩を揺らしながら笑った。
しまった、余計なことを言ってしまった、という後悔が自分の頭にかぶさった。
二階部分も一通り閲したところで「まずは外から撮影をするよ、ウホッ」と梶川が言うので二人で廊下を戻っていると突如自分はハッとした。背後になにかの気配があったような気がしたのである。しかし当然そこには誰もおらず、矩形の光が目がくらむほどに差し込んでいるだけだった。
外に出ると思いっきり夏の空気を吸い込んだ。肺の中に湿っぽく血なまぐさい空気が充満していたような気がして、深呼吸をいくつもして浄化しようとした。
そんな自分のまわりを、スズメバチが低い羽音を立てながら周回していた。
「あちゃあ、車にタイガーバームを忘れて来ちゃったよ」
梶川が大きな体躯をのけぞらせながら顔をしかめた。
「タイガーバームって?」
「君知らないの? 軟膏だよ、軟膏。スーッとするんだよ。蜂に刺されたときにも効くわけよ。Bなんだけど、万能薬だね。日本製の軟膏なんかも悪くはないんだけどさあ、僕なんかはもっとBだからシンガポール製の軟膏を使っちゃうわけよ」
Bとは当然B級のことであろう、と自分は思った。梶川の言う「もっとB」とは、C、もしくはAになるのではないか? という疑問が浮かんだが、口には出さなかった。
「君、蜂に刺されないように気をつけてね。虫ってやつは黒いものに寄ってくるから、いざとなったらそのビニール袋を頭にかぶせて地面に伏せてね。オッホッホ」
「じゃあ黒い服装はダメっていうの、あれはそういうことだったんだ」
「そうそう、なかなか鋭いじゃない。そゆこと。写真撮るときはさあ、色が移らないからほんとは黒い格好のほうがいいんだけど、こういう場所だろうっていうのはわかってたからさあ、黒じゃまずいなと思っちゃったわけよ。こう、勘が働いちゃうわけ。僕なんかはもうすっかり頭が白いから大丈夫だけど、君はまだ黒々してるから気をつけてね」
梶川は感心している自分の手からペットボトルのお茶を受け取りながら、そう言った。
「ほんじゃ、とりあえず撮り始めちゃおうか。のんびりやってて拉致されても堪まんないからさあ」
「うう、最短で終わらせよう」
お茶をあおって上下する梶川の喉仏を見つめながら、なぜか自分はマッサージチェアを連想し、数度肩を回した。




