8.
「頼朝公ご落胤、源朝子とは真っ赤な偽り。まこと、その正体は出雲の巫女“たま”である。将軍家はおろか源氏とも一切係りはない。巫女たまに狐が憑いて妄言を吐いたに過ぎぬ」
幕府は再三布告した。しかし効果がない。どこから出雲の巫女がでてきたのか。狐憑き?あまりにも荒唐無稽ではないか。
幕府が一部で囁かれていた「四代将軍源朝子、実は田楽一座の女芸人“玉”」を主張しなかったのは何故だろう?少なくも「出雲の巫女」よりは余程根拠があった。
京都守護・伊賀光季は、ほとんど真に迫っていた。証拠を固めいざ、その時に事件が起きた。後の大乱で光季は討死。京都守護も解体された。
幕府は「踊り子“玉”」を闇に葬った。
卑賎の芸人如きに、幕府はおろか朝廷までも手玉にとられ騙された、と認めたくなかったかもしれない。それとも、芸人よりは巫女のほうが幾らかマシ、とでも考えたか。
京都大番役・石垣吉圀は乱前後の緊迫した京を詳細に記録していた。源朝子についても実地に検分している。彼の著書「洛中覚書」には真実が記されていた。だが六波羅探題北條泰時は、これを黙殺。石垣は都を追われた。奇書「洛中覚書」は散逸したが、驚愕の内容は後に「六波羅奇譚」等の種本となった。




