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四代将軍とも  作者: 山田靖
ーあとがきー
71/83

4.

 承久三年五月、幕府の横暴に堪り兼ねたいんは、遂に「北條義時ほうじょうよしとき追討」の宣旨を下された。しかし、既に機は逸していた。西国の武家に召集をかけたが思うように集まらぬ。また、帝が先頭に立たぬ戦では士気が高まろうはずもない。

 一方、鎌倉では、動揺する御家人の前で、北條政子ほうじょうまさこが大演説を打つ。

「将軍の恩は山よりも高く、海よりも深い」

 感動した御家人衆は一致団結。泰時やすとき時房ときふさの軍勢は京へと進撃。勢いに乗る鎌倉軍は、美濃で大内惟信おおうちこれのぶを撃破するなど、各地で圧勝した。

 敗走した山田重忠やまだしげただは最後の一戦をせんと御所に駆けつけるが、院は門を固く閉じて追い返す。重忠は「大臆病の君に騙られたわ」と門を叩き憤慨。院に見捨てられた重忠は、三浦義村みうらよしむらによって滅ぼされた。

 院は泰時に使者を送り、此度の乱は謀臣の企てであったとして「義時追討」の宣旨を取り消した。


 戦は終わった。


 戦後の処断は過酷を極めた。

 みかどは退位、後は幕府が指名した傍系の王が立った。院は隠岐へ配流。布智王ふちおう、出家。二位法印にいほういんは乱の首謀者とされ死罪。多くの公卿、また京方に与した武士の殆どが斬られた。反幕府勢力は根こそぎ一掃され、ここに北條氏の覇権は絶対的なものとなった。


 それでも、左大臣・九条道家くじょうみちいえはしたたかに生き残る。我が子を人質にと差し出したのだ。二歳の三寅みとら、鎌倉に下向。後の将軍・藤原頼経ふじわらのよりつねである。

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