4.
承久三年五月、幕府の横暴に堪り兼ねた院は、遂に「北條義時追討」の宣旨を下された。しかし、既に機は逸していた。西国の武家に召集をかけたが思うように集まらぬ。また、帝が先頭に立たぬ戦では士気が高まろうはずもない。
一方、鎌倉では、動揺する御家人の前で、北條政子が大演説を打つ。
「将軍の恩は山よりも高く、海よりも深い」
感動した御家人衆は一致団結。泰時・時房の軍勢は京へと進撃。勢いに乗る鎌倉軍は、美濃で大内惟信を撃破するなど、各地で圧勝した。
敗走した山田重忠は最後の一戦をせんと御所に駆けつけるが、院は門を固く閉じて追い返す。重忠は「大臆病の君に騙られたわ」と門を叩き憤慨。院に見捨てられた重忠は、三浦義村によって滅ぼされた。
院は泰時に使者を送り、此度の乱は謀臣の企てであったとして「義時追討」の宣旨を取り消した。
戦は終わった。
戦後の処断は過酷を極めた。
帝は退位、後は幕府が指名した傍系の王が立った。院は隠岐へ配流。布智王、出家。二位法印は乱の首謀者とされ死罪。多くの公卿、また京方に与した武士の殆どが斬られた。反幕府勢力は根こそぎ一掃され、ここに北條氏の覇権は絶対的なものとなった。
それでも、左大臣・九条道家はしたたかに生き残る。我が子を人質にと差し出したのだ。二歳の三寅、鎌倉に下向。後の将軍・藤原頼経である。




