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2.
朝女殿曰く、
「余、梓と刺し違えるによって、亡骸の処分を頼む。ゆめゆめ、泰時に渡すでない。明日にも病没とし、将軍遺命を以て義時追討の檄を発せよ。他方で“遁走し健在”との報も流布すべし。さすれば、鎌倉混乱し必ずや分裂。機に乗じて幕府を滅ぼす事なり」
暫時、悲鳴聞き及び、我急ぎ入室するや夥しき流血。とても女二人の分量とは思えず。両名既に事切れり。密かに床下に穴を掘って埋めたり。凶器は回収。我、遺言を叡覧に供すも、主上これを喜ばず・・・
源朝子を拘束した北面の武士・藤原秀康の自白とされる。しかし、秀康は苛酷な拷問の末、意識が混濁したまま死亡しており、真偽不明。六波羅には何の痕跡も見当たらない。心中が行われたとされる部屋は整然としていた。屍を埋めたはずの床下はおろか、庭や厩に至るまで、隈なく捜索したが骨一本出てこない。土を掘り返した跡すらなかった。攪乱か?妄想か?辻褄を合わせるための捏造、とも疑われる。結局、誰が何時この証言を聴き取ったのかも判らず。
その所為であろうか、幕府は秀康調書を記録から抹消した。




