十二、
春香は文机の前に座り直して料紙を広げる。しばらく考え込んだ。静かに墨を擦り手を休める。上品で落ち着いた御方であったから、細い筆でゆったりと。春香は選んだ筆に墨を含ませちょっと宙に字をなぞってみた。おもむろに料紙に向かい、あまり力を入れず一気にスラスラと書き上げた。読み返す。うん、上出来だ。署名し、乾かしてからきちんとたたんで封印する。宛名は「兼子殿」としたためた。
小道具の印籠や書付も確認しておいた。用意はこんなもんか。あとの荷物は置いていこう。もう、玉はいない。ここに戻ってくることもない。この文机のように、主を失っても残ってくれればいい。
書いたものはどうしようか。春香が、玉が、生きていた証し。誰か読んでくれるかな?恥ずかしいけど・・・知らないひとならいいか。
お金もいらないな。あまり持ってたらオカシイや。隣の杢助さんにはお世話になった。杢助さんに渡して、昌恵様とこの寺を護ってもらおう・・・
「平大相国清盛殿はあくまでも律令の内での栄達を目指した勤王家である。”将軍”などと珍妙な権威を捻り出した頼朝なぞ、所詮成り上がり!」
先生は力説したけど、どっちが正しいとか関係ない。両方、滅びちゃったし。好き嫌いなら、春香は断然!源氏贔屓。うん、九郎判官がカッコイイから!
名は「源朝子」でいいだろう。
北條時政の娘が「北條政子」
源頼朝の娘だから「源朝子」
「牛若丸」を演じていたのが女子と判って、見物衆は大喜びした。
「源朝子」の正体がバレたら・・・春香は・・・大笑いしてやろう!
支度は総て整った。
うーんと、春香は伸びをした。明日は忙しいからもう寝よう。屋根があって濡れずに眠れるなんて最高だね。久しぶりに、本当に久しぶりに、ひと晩ゆっくりと眠ることができる。悪い夢にうなされることもないだろう。もう野宿はしたくないなぁ。
「温ったかい、おまんま。暖ったかい、寝ぐら。それがあれば良い。それだけで良い」
これからもこうありたい。何時までも、何もかも、良いことばかりありますように・・・




