十、
ポツンと残された文机。玉は頬杖をついていた。昌恵様の温もりが伝わってくるようだ。主がこの世を去ったのに、文机は存在している。玉は不思議に思う。昌恵様がいない。いないけど机はある。玉もいる。昌恵様がいないだけで何も変わっていない。昌恵様ですらそうなのだから、玉なんかが死んでも、もっともっと何も変わらないだろう。
昌恵様は立派な方だった。身を削ってまで、人々に尽くした。どんな偉い高僧でも、無私無欲で慈愛に満ち溢れた昌恵様の御心には敵わないだろう。そのような御方が、ふとした夏風邪であっさりと、ひとり淋しくお亡くなりになる。そんな馬鹿な話があるか。それこそ、神も仏もあるものか。
昌恵様は藤原の姫君だ。本来なら何不自由なく暮らせたはず。それが平氏打倒の陰謀に与し夫君は死罪、昌恵様も追放される。
とどのつまり、平氏は滅亡した。昌恵様は正しかった。なのに、最後まで罪は許されなかった。係累を怖れた実家はとことん冷たかったようである。今を時めく卿ノ局・藤原兼子は、昌恵様の実の妹だ。「治天の君」の乳母、というだけで権勢を誇り贅を尽くしている。
世の中、間違っているではないか!
昌恵様は、玉を、こんな玉を「人より優れたものを持って生まれてきた」と言ってくれたんだぞ。
勘介親方が何をした?親方は音曲が好きで、遂には一座を旗揚げした。才能のある者を見出し自由にやらせ、新しい「芸能」を創造した。一生懸命、興行を打ち続けた。見物衆を喜ばせていたではないか。それが訳も判らず、牢にぶち込まれ不具にされた。一座は解散。勘介の描いた夢も雲散霧消だ。
笙も英次もコウケツも治郎丸も皆挫折した人間だった。苦難を乗り越え、過去を捨て未来を切り開こうとした。そんな彼等の希望も砕け散った。
そんな馬鹿な話があってたまるかっ!
公家だの、武家だの、お前等の何処が、何が、そんなに偉いのか?ひとの人生を虫けらのように踏みにじりやがって!玉が、玉が復讐してやる!皆の無念を晴らしてやる!
仇討ちだ!
玉は昌恵様の弟子だ!そう決めた。
昌恵様の元で得度した、ことにしよう。法名は「春香」でいいだろう。昌恵遥子様の「遥」は「はるか」とも読める。ピッタリではないか。読みは「しゅんきょう」とでもしとけば尼僧っぽい。玉は、これより懐かしい「春香」を名乗ることにした。この瞬間「玉」は地上から消える。天竺行くはずの春香が尼さんかい。春香は可笑しかった。
昌恵様は、紛れもなく極楽往生だろう。ならば、ならば弟子の春香は、地獄に堕ちようぞ。




