四、
玉は、山科の知栄院昌恵様の弟子になろうと思った。
知栄院昌恵は藤原の出。刑部卿・範兼の長女で名は遥子。今をときめく「権勢の女」卿ノ局・兼子とは実の姉妹である。だが「鹿ケ谷の陰謀」に連座し都から追放。それからもう三十年になる。かつての女闘士の面影はない。慈悲深く、土地では菩薩のように慕われていた。
玉達は、昌恵には一度だけ世話になった。京大坂で興行が叶わず途方に暮れていると、せめて女人だけでもと泊めてくれたのだ。玉は褥で寝たのは初めてだった。
旅先では大半が野宿であった。よくて寺の本堂とか農家の軒下、厩に物置小屋。大事なものは金箱と楽器である。雨露に濡れず風通しの良い場所に置く。次に衣装や小道具等。楽師が囲んで護衛するように眠る。あとは構わない。人間は扱いが低い。勘介も笙も、裏方も踊り子も、男も女もひしめきあって寝る。玉は小さい頃からずっと、笙と藤勢の間に挟まって寝た。
男達は夜半まで酒と博打で騒いでいる。五月蠅くて眠れない。何がそんなに可笑しいのか?明日も早いのだから、もう寝ればいいのに。
「男は辛いことがあると酒を呑むのだ」笙は言っていた。「可哀想な生き物なのさ」
毎日、そんなに辛いことがあるのか。ならば、玉は女でよかった。
玉は夜が怖い。闇の中に何か潜んでいるのだ。そんな時は、目を瞑って朝を待った。だけど眠れない。背中が痛い。息苦しい。疲れ切っているのに目が冴えてしまう。
突如、死んだらどうなるんだろうという疑問が湧いた。死ぬ!この世から消える。消えたら玉はどうなるのだろう。ひとは何故、死ぬのだろう?死にたくない。どうせ死ぬのなら・・・生まれてこなければいいのに。死んだら・・・死んだら何も無くなってしまう?無くなるってことは、こうやって死ぬのが怖いとすら思えなくなってしまうの?だったら?死んだら、痛いことも寒いこともない?・・・あの世があるとは信じられなかった。寝てる時に意識が無いのに死んであるハズがない。地獄極楽ってのは、偉いひとだけが行けるところなのだろう。玉は自分が消えなければ地獄でもいいと思った。拷問されてでも消えたくなかった。死ぬのは嫌だ、怖い。そんな思いに憑りつかれて、玉はますます眠れなくなる。やっと眠ったと思ったら怖い夢で飛び起きるのだ。
夏は暑くて眠れなかった。一晩中、虫に喰われ続けたこともある。玉は虫が嫌いだ。あんな小さいのに目も口もある。指で押せば潰れて死ぬ。そのくせ、刺されると飛びあがる程痛い。そしてあの数。何処から来て何処へ行くのでだろう。玉は虫が大挙して襲来する夏を畏れた。それでも夏は冬よりはいい。冬は寒くて眠れなかった。恐るべきは寒さであった。凍えて冷たくって震えが止まらない。ただただ夜明けを待つしかなかった。お天道様が昇るのを見て玉は安堵する。雨も雪も風も、嫌い、嫌い、大嫌い!
「温ったかい、おまんま。暖ったかい、寝ぐら。それがあれば良い。それだけで良い」
玉は、何の心配もなく眠れる幸せに涙した。
昌恵はよく、玉に声をかけてくれた。玉は他人にこんなに親切にされたことはない。玉なんかをどうして?戸惑いの方が大きかった。昌恵はあくまでも優しい。玉は胸のつかえが溶けていくような気分になった。この方ならば・・・その晩、玉は昌恵にすがった。
「背ばかり伸びてゆくのです、玉は化け物です!」
泣き叫び訴える玉を、昌恵は静かに見守ってくれた。
「・・・そなた、どこぞ痛いのか?」
昌恵は、玉の背中をゆっくりと擦った。
世間には体の不自由な人がいる。因縁因果応報であるとか、病や怪我で不具となる。目が見えず、口がきけず、耳も聞こえぬ者がいる。そなたは、何処が、何が、苦痛なのだ?背の低い私から見れば、お前は羨ましい。柿の実でも棚の上のものでも簡単に、私に取ってくれたではないか。
「そなたは、ひとより優れたものを持って生まれてきたのですよ」
玉は慟哭した。昌恵の膝で幼子のように泣きじゃくった。嗚咽が止まない。玉は優れているのか。そんな風に考えたこともなかった。
翌日、玉達は知栄院を立った。昌恵は門前で見送ってくれた。何度も振り返りながら、玉は喉まで出かかった言葉を呑み込んだ。
「ここに居たい、昌恵様の弟子になりたい!」




