萩
出雲の小領主の次男・勘介は、無類の音曲好きであった。裕福でのんびり育った勘介は、家の手伝いもせず地場の演芸に熱中!祭りで田楽の一座がやってくると毎日通った。お囃子に合わせて舞い踊る、その煌びやかな世界に憧れた。病膏盲に入り、自分でもやってみたくなる。芸で身を立てたい!勘介は仲間を募り、とうとう一座を旗揚げした。田舎は単調で退屈だ。こんなところに燻って生涯を終えたくない。勘介は都へ出たいと思った。都には殿上人がいて想像もつかぬ贅沢な暮らしをしているのだ。彼らに仕える者は、それこそ国中から選りすぐった名人上手ばかりなのだろう。その眩い舞台で、帝や公家の前で音曲を披露できれば最高の栄誉!都は実力さえあれば、どこまでも出世できるような気がした。そう思うと勘介は、居ても立ってもいられない。俺はこんな田舎で朽ちるわけにはいかぬ!勘介は家を飛び出した。
勘介には、師も手本もない。全くの我流、手探りで、一から創りあげていった。当然だが、最初は稚拙で見向きもされない。罵声も浴びた。それでも勘介が一座を続けられたのは、惣領の手前勘当はされたが、両親がこっそり援助してくれたからだ。
祭り等に出かけては出演を申し込む。賑やかしになるからと、ぼちぼち使ってもらえた。面白くないと石を投げられることもある。少ないながら女達から嬌声が上がることもあった。そうして受けると、また次に繋がる。こうやって徐々にではあるが活動の場は広がっていった。一年もすると、あちこちの縁日や市からも誘われるようになった。研鑽工夫を重ね、次第に評判は上がっていく。出雲一帯を出張るうち手ごたえを感じ自信は深まっていった。松江にまで進出したとき、勘介は故郷を捨てる決意ができた。もう後戻りはしない。旅から旅。果てしないドサ回りに出発したのだ。
思えば遠くに来たものだ。萩で勘介は、元白拍子の笙と出逢った。笙は京女。洗練された立ち居振る舞いに、勘介は驚いた。初めて「都」を目の当たりにしたのだ。衝撃、ではあったが越えられぬ壁ではないとも感じた。勘介は、笙を妻とした。勘介は、笙の踊りを取り入れた新たな田楽を創作していく。これまでの舞踊に演劇的要素を加え、より物語性を強めていった。その題材は神話、伝説、説話等から広く採る。竹取物語や源氏物語からも引用した。勘介は、この新たな舞踊を「芸能」と名付けた。芸能は評判となった。
中でも人気を呼んだのは、源平の争乱を描いた物語である。若い男女の役者が煌びやかな鎧兜に身を固め、派手な鳴り物に合わせて踊るのだ。当初、型通りの演武をしていたが、女がやるとどうしても迫力に欠け貧弱。鎧兜も不格好で顔も判らなくなるし見映えが悪い。刀は刃先を潰した本物を使っていたが、それでも危ないし重い。そこで武装は止め、水干の上下のみとした。刀の代わりに、木を細く削って白く塗った。これだけでも遠目には本物のように見える。殺陣は当初の真に迫ったものでは、どうもゴチャゴチャしてしまう。そこで現実とはかけ離れた大げさな動作が編み出された。刀で斬るにしても相手と二間も離れている。敵はのけぞってひっくり返り大仰に息絶える。主人公は見栄を切って大喝采!すわ合戦!の場面ともなれば名乗りを上げてから、陽気な笛太鼓を入れ敵味方入り乱れての総踊り!
ヤットコセー、ヨイナセー、こりゃなんでもせーっ!
虚構は真を超えた。見物衆、熱狂!
平氏が壇ノ浦で儚く滅亡する様は、荘厳な音曲に乗せ美しくも妖艶に舞う。ひとびとにとっても、ほんの数年前の出来事である。西国には平氏の旧領が多く、由緒のある者達もいただろう。手拍子を打ちながら彼等は泣いていた。




