二、四代将軍源とも、真実ノ愛ノ軌跡!
征夷大将軍源頼朝公、若年より戦乱に明け暮れ艱難辛苦の末、遂に天下を平定し幕府を開くも問題は山積み!気の休まる暇もない。
そんな折、上洛した頼朝公の前に現れたのは、当時京随一と謳われた白拍子とき葉。その優雅で清楚な舞いは、頼朝公の心を奪う。とき葉もまた頼朝公に孤高の寂しさを垣間見、愛おしい思いは募る。想い想われ、いつしか二人は恋に落ちるのであります。元より、悪妻・北條政子とは政略結婚。頼朝公におかれましては、これぞ初めての真実の恋!打算もなく、見返りを求めない、無償の愛に目覚めたのでした。
人目を忍び重ねる逢瀬に、愛は深まり燃え上がる。さて、明日は鎌倉に戻らねばならぬ最後の夜。想いは尽きず、ひしと抱き合う二人。夜か明けるなと思った、時よ止まれと願った。切ない祈りも虚しく、東の空が白みはじめ、別れの刻はやってきた。とき葉は頼朝の背中に縋りつく。そしてこの期に及んで小さな声でそっと・・・懐妊を告げたのであります。頼朝は「おうっ」と叫んだきり言葉が続かない。喜びが込み上げてくる。お手柄である!笹竜胆の印篭を手渡し、生まれてくる子には「朝」の一字を与えようと約束したのだ。
「来年秋には戻る」頼朝公は馬上のひととなり出立。
とき葉は印篭を胸に、出産と再会を指折り数えて待ち望みました。
嗚呼、だがしかし!諸行は無常、運命は非情であります。翌、建久十年正月、頼朝公落馬し昏倒、そのまま帰らぬ人となる・・・
凶報!とき葉、その場で失神。悲嘆に暮れ泣いた。泣いて泣いて泣いて、絶望の淵に沈んでいく。もう生きてはいけない、いっそ後を追って死のう・・・とまで思い詰めたのです。
いや、できぬ!とき葉を踏みとどまらせたものは、お腹の子でした。今やこの胎児のみが、頼朝公がこの世に残した愛の証であり、唯一の希望!とき葉は涙を拭いて立ち上がった。生きよう!この子を産み立派に育てることこそが、頼朝公への何よりの供養である、と。とき葉は運命を受け入れた。
赤子は順調に育っているようだ。既に胎内で動き始めている。痛い程、蹴ってくるのだ。そんな時、とき葉は母親としての実感と喜びが込み上げてくる。随分、大きな子のような。父様も美丈夫にあらせられましたからな。
もう、とき葉は泣かない。しっかりと前を向き、静かに身二つとなる日を待っていた。
しかし、平穏も束の間、またしても不幸が牙を剥く。
とき葉の存在が、北條政子の知るところとなったのです。
とき葉、鎌倉に護送。
嫉妬に燃える政子は半狂乱、「この女を斬れ!」と喚き散らす。更に懐妊が知れるや逆上!ありとあらゆる罵詈雑言を、とき葉に投げつける。自ら「手討ちにしてくれる」と刀を振り回したときは、弟の執権・義時ですら「狂うたか?」と戦慄!
とき葉は静かに耐えた。願いはただひとつ、お腹の子の助命。そのためには、どんな恥辱にも耐えねばならぬ。
ある晩、幕府の歴々の酒席に呼ばれた。
「白拍子、何かやれ!」
不躾な要求、だが、とき葉は毅然として舞台に立った。頼朝を慕う今様を唄い舞う。凛とした中にも切々と伝わる哀惜に、さすがの東国武士も涙した。彼等とて人の子、雅は判らずとも、ひとの情は古今東西変わらない。
とき葉は、頼朝公嫡男二代将軍・頼家を訪ねた。
「わが身に代えても。お腹の子だけはお助けください!」
その為であれば”操を捨てて操を立てる”覚悟であった。頼家は、とき葉の母性愛に打たれ、親子ともども必ず救ってやると約束。至誠天に通ず!とき葉の真心はひとびとを動かし、遂に鬼の政子の氷の心をも溶かしたのです。
「生まれてくる子は、男女いずれであっても出家!」
この条件で、とき葉母子は許された。
とき葉は伊豆の尼寺に送られた。やがて月満ちて産まれた子は女児!
ひとまず安堵。女子ならば、醜い権力争いに巻き込まれることもなかろう。尼となって、父の菩提を弔い穏やかに暮らしてほしい。娘には「朝」と名付けた。頼朝公がくれた一字であった。とき葉は料紙に「とも」としたため、小さく折りたたんで笹竜胆の印篭に入れた。だが既に赤子には「まつ」という名が与えられていた。”松”ではなく、“末”なのだ。何とまぁ、政子の底意地の悪さ!どこまで愚弄するか。いずれ尼寺では、また別の名で呼ばれるのだろう。
「それでもお前は、お父様から名を頂戴した“とも”なのですよ」
とき葉はそう囁いた。
母子が一緒にいられる時間はもう長くない。夜が明ければ迎えが来て、ともは寺に引き取られる。とき葉には、頼家から恋文が届いていた。溜息しかない。
「くれぐれも娘をお頼み申します」と返書をしたためる。
スヤスヤ眠る、ともの頬に手を当て、とき葉は声を殺して嗚咽。やがてゆっくりと身を起こすと外に出た。東の空が白んでいる。冷たい潮風が心地よかった。
「南無阿弥陀仏」
とき葉は海へ身を投げた。あくまでも頼朝公との愛に殉じ、若い身空を散らしたのであります・・・