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月闇の扉  作者: 瑞原チヒロ
第二章 誰がための罪。
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18 混乱の始まり

「……シグリィ……」

「ん?」

「……その。すまない……泣いたあげく、眠りこけて……」


 返す返すも自分が情けなく、みっともない。自分の弱さを思い知るたび、自分自身にナイフを突き立てたくなるのだ。


 弱い部分を切り離してしまえればどんなにかせいせいするだろう。

 本当にそう思うのに、一方でそれが失われるのが怖い。


 体のどこもかしこも貧弱な成分でできている自分は、それを手放したとき、果たして人の形を保てるのだろうか。


 ――シグリィの手がそっと伸びて、顔を伏せたままのラナーニャの髪を撫でた。


「大丈夫。こんなことで私たちは、君を邪魔に思ったりしないよ」


 胸にひやりと冷気が差し込む。

 心の裏に隠したはずの不安を、言い当てられたのが分かった。


(……私は、邪魔に思われるのが恐いんだ)


 何の夢を見たんだ? とシグリィは訊いた。

 私はうずくまったまま答える。父の夢を、と。


 父王は強く、優しい人だった。少なくとも父自身がラナーニャを拒絶したことなど一度もなかった。

 自分があの王宮のはみ出し者となるのにどんな経緯があったのかは知らない。誰も明確には教えてくれなかったから。だが――


 父は決して、ラナーニャが実の娘であることを否定しなかった。


「王、か」


 ラナーニャのか細い話を黙って聞いていたシグリィは、ふいに考え込むような顔をした。そして、


「君の母上は?」

「……知らない。私が七つのときに亡くなった」


 ラナーニャはぽつりとそう答えた。

 自分には母の記憶はまったくない。幼いときの記憶ならいくつかたしかにあるというのに、その中に母のものがないのだ。


 だから長じるにつれて思い至った。たぶん――、この王宮で最も自分を排除したがっていたのは、母だったのではないか、と。


 今、重臣たちがラナーニャを見るあの恐ろしく冷え切った目は、母の思いの残滓なのではないのか、と。


「……」


 シグリィはしばらく黙ったままでいた。

 ラナーニャも、それ以上何も言わなかった。


 じじ、とランプの炎が揺れる。雨音以外何も聞こえない夜。

 立てつけの悪い窓が外部の気配を遮断して、ただ世界を二人だけにする。


 シグリィの手がもう一度伸びて、膝をかかえたラナーニャの手に重なる。

 ラナーニャはぴくりと震えた。けれど動かなかった。

 同情するでもなく、蔑むでもなく、奮い立たせようとするでもなく……彼はただ、寄り添ってこのまま。


 こみ上げてくる涙の気配に、ラナーニャは肩を震わせる。――ほら、また。すぐ泣くんだ自分は。

 父の言いつけはこの胸にはっきりと覚えている。泣くたび父の厳しい顔が見えるような気さえするのに。


 ――どうしても。


(でも、今は)

 ほんの少し、いつもと違う気がするのは、どうしてだろう……?


「ラナ」

 ふいにシグリィが鋭く名を呼んだ。「すまない。起きてくれ」

「――?」


 膝を抱いたままうつらうつらとしかけていたラナーニャは、彼の声に含まれた緊張にすぐさま覚醒した。「どうしたんだ?」


「しっ」


 人差し指を立てられ慌てて口をつぐみ、身を強ばらせる。瞬間、どん、とどこかで爆発音がした。


「――っ!」


 地面が揺れる。思わずベッドシーツをわし掴みにし、今の音がどの方角から聞こえたのかを探そうとした。


 雷鳴が聞こえた。近い。

 どん。再び地を揺るがす音。


 ただ、今回はその直前によく知る伸びやかな詠唱が聞こえた気がした。


「セレンの魔術……? シグリィ、一体何が?」

「分からない。いや――何かは起こると思っていたんだが」


 やっぱり分かっていてセレンを外に送り出したのだ。驚くような呆れるような複雑な思いのラナーニャをよそに、シグリィはベッドから静かに降りる。


「どこへ――」


 言いかけたラナーニャはまたすぐに口をつぐんだ。シグリィは人差し指を、唇の前に立てたままだったから。


 足音も立てず彼は移動する。ドアの方向へ。

 しんと静まりかえった部屋の中では彼の動きだけが空気の流れを作り、枕元のランプがちらちら揺れた。


 シグリィはドアに手をかける。そして、ベッドの上で惚けていたラナーニャに視線だけで何かを告げる。――“準備して”。


 ここしばらく一緒に“迷い子”と戦ってきた中で、こういった合図にラナーニャも慣れてきていた。自然、ベッドの上で身構える。武器はどこにあっただろうかと、視線で鞄を探した。


 そして――

 ドアが一気に開かれる。シグリィの呑気な一言とともに。


「……こんばんは、女将さん」

「――…」

「ずいぶん物騒なものをお持ちですね」


 そこにいたのはくたびれた風情の女性だった。ただ、その目の輝きはとても“くたびれて”はいない。

 何よりその手に持っているものが、彼女の意志を表していた。頑丈そうな杖。朱雀の術者御用達のものに違いない。


 そして彼女の両脇に、屈強な男が二人。揃って斧を手にしている。


 女将――とシグリィが呼んだ女性――は、くまのできた目に下手な愛想笑いを浮かべた。


「何か勘違いしてますよお客さん。外で騒ぎがあったもんで、私らはこうしてお客さん方の安全を確認しているわけで、つまり――」

「そうですか。それはそれとして」


 何かを延々と言いかけた女将の言葉を、シグリィはあっさり断ち切った。「外に出かけたうちの連れが帰ってこないんです。心配なので外へ出てもいいですか」

「へ?」

「外です。別に構わないでしょう?」

「い、いや、お客さん。今聞こえたでしょ、外では悪いやつが暴れてるんですよ。だから――」

「連れは女性です。悪いやつが暴れているならなおさら探しにいかないと。――ラナ、行こう」

「う、うん」


 ラナーニャはベッドから降りた。ベッドの横にあった道具袋と剣を腰につけ――シグリィのナイフはなかった。どうやら彼は最初から身につけているらしい――シグリィたちの元へと行く。

 シグリィはラナーニャの手を取り、


「それでは失礼」


 女将を押しのけ廊下へ出ようとする。


「わあ! ちょちょ、ちょっとお客さん!」


 女将が慌てて二人の前に回った。一拍遅れて斧を持った男二人もシグリィとラナーニャの前をがっちりと塞ぐ。

 しかしシグリィは冷静そのものだった。


「何ですか」

「ですから、今外に出ちゃいけませんてば! 巻き込まれますよ!」

「結構ですよ。いっそ私たちが騒ぎを収めましょうか? それくらいの腕はあります」

「まあ何て生意気――じゃなくて、お客さんまだお若いじゃないの。ここは大人の言うことを聞いて、ね?」


 頬に張り付いた笑みが震えている気がする。ラナーニャはぼんやりと女将の顔を眺める。たしか以前シレジアの王宮で、こんな顔をした重臣を見た。――屈辱に耐えかねているときの顔だ。


 シグリィはしげしげと女将を、二人の斧男を見、やがて、


「……ふむ」

 うなずいた。「これはよほど私たちをセレンと合流させたくないらしい」


 ぎくりと女将が引きつる。滑稽なくらいわかりやすい女性だ。

 しかしシグリィは容赦などしなかった。継いだ問いは、冷ややかな声で。


「それで、私たちをまとめて始末しない方がいいと判断したのは誰です?」

「――!」

「まあ訊くまでもないですか。この町で私たちの能力を多少なりとも見た人間は一人しかいない――」


(え――)


「それで、『彼』は今、どこに?」


 シグリィの問いに、女将はとうとう苛立ちを隠しきれなくなった。


「うるさいね、とっとと部屋にお戻り――」


 彼女に唸り声に合わせて、男たちが斧をちらつかせる。

 笑顔を捨てた女将はひどく鬱々とした表情になったが、むしろそれが彼女の素顔なのだろう。ラナーニャはふと思い至る。彼女は、喜んでこの役割を引き受けたわけではないのだ。


 シグリィはもう一度問う。


「彼はどこです?」

「どこにいようと、あいつはもうあんたたちに会う気はないだろうよ。いいから黙ってな」


 誰のことだろう。ラナーニャが怪訝に眉を寄せたその一瞬。

 シグリィの右手が閃いた。


「ひ……っ」


 女将の声と男二人の声が三重奏を奏でた。同時に女将の杖と、男たちの斧が次々と床に落ちる。

 ラナーニャが瞬きをする間に、シグリィはナイフで三人の手首を切りつけていた。

 早業に呆気にとられてしまったラナーニャを、シグリィが引き寄せる。


「乱暴で失礼。どうしても通らなくてはいけないもので」


 ラナーニャを連れて女将たちの間をすり抜け、シグリィは丁寧に一礼した。


「――早めに止血することをおすすめします。血が流れやすい部位を切りましたので」

「あ――」

「その様子だと『彼』はここにはいないようですね。結構です、こちらから捜しに行きます」


 行こう、とシグリィはラナーニャを促す。

 何が何やら分からないまま、ラナーニャはただ彼に従った。



 宿屋には他に部屋があったというのに、誰もいる様子はなかった。ましてや騒ぎを聞きつけて出てくる者は皆無だ。

 しきりに首をひねりながら、ラナーニャはシグリィの後に続いて宿屋を飛び出した。


 外は大雨だった。雷雲が夜空に垂れ込め、いっそうどんよりとした黒に染めている。

 ただしこの雨ではまともに空を見上げることも不可能だ。頬を打つ雨がいやに冷たい。


 二人で近くの軒先へと入る。ラナーニャは、ぐいと目元のしずくを拭った。


「セレンは――」


 爆発音の方向はすぐに見つかった。遠目に、火の手が上がっている。

 火か、とシグリィが冷静に呟く。


「雨が降っているのが幸いだな。火事はさすがに避けたい」

「い――家が燃えているのか?」

「さて」


 何かが崩れる音は聞こえたな――と、ラナーニャより数段耳のよい彼は淡々とそう告げた。


「セレンの魔術には違いないと思う。いったい何を壊したのやら」


 呆れたようにそんなことを言う。けれどどことなく愉快そうでもあった。セレンがとんでもないことを起こすと彼は決まって楽しそうで、どうも「予想外のことが起こる」ことが嬉しくて仕方がないらしい。


 できることなら予想内にはまって生きたいと願うラナーニャにとっては、まるで想像もできない心理だ。


「とにかくあっちに行こう」


 シグリィはラナーニャの手を取り、その片腕を雨よけのようにラナーニャの頭上にかざした。

 そのとき、


「おやあ。宿から出てきちまったのか……そりゃあ困るねえ」


 どこからかやけに気の抜けた声がして、ラナーニャはっと振り返った。

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