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月闇の扉  作者: 瑞原チヒロ
第一章 その日、青い光が飛んだ。
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Side:Ranarnya 05

 小舟に揺られている間、夢を見ているようだった。


 ――衣装がくしゃくしゃのこのさまを見て、弟たちや高官たちはなんと思うだろう。

 神の声に従って聖水くぐりをした、とでも言えば、皆納得するだろう。


 父王の御魂(みたま)については――


 話すつもりは毛頭ないが、誰かに聞いて欲しい気もする。こればかりはリーディナにもすがれないのが、とても辛かった。リーディナは敬虔(けいけん)なイリス信者だ。

 船頭の持つ(かい)が、音も立てずに船を漕ぐ。波の音は遠いのに、なぜか耳元で聞こえるようだ。


 この偉大なる海で、自分は今なんと小さな存在であることだろう……


 姫様、国土が見えて参りましたと。リーディナの声でまた目を上げた。

 神殿を見つけた時もそうだった。促されなければ、自分は行く先を見つけられない。

 シレジアの豊穣(ほうじょう)の大地が――

 うっすらと線を見せている。

 ざぶん……ざぶん……


 不意に視界に黒い影が走った。


 リーディナがパチンと指を鳴らした。問答無用の魔力の気配。

 ぼっと火の玉が上がった。ぼとり、と小舟の中に落ちてくる。魔力とはすなわち具現能力。術者がそういう効果を付加しない限り、目標以外のものを燃やすことはない。

 火に包まれて、やがて消え去った存在に、ラナーニャは呆然とする。


「“迷い子”……?」


 見ればシレジアの方角から、次々と黒い影が飛んでくる。


「姫様ご安心を」


 リーディナが立ち上がった。この舟の中で、バランスを取るのも苦労するだろうに、彼女の背は凛々しかった。


「必ずお護りします」

「………」


 ラナーニャはきつく唇を噛んだ。

 それから、枯れた声でつぶやいた。


「ああ……頼む」


 そしてそこからはリーディナの独壇場。


「火龍演舞!」


 炎の渦が翼を持つケダモノを巻き込み、次々と炎上させていく。

 本来魔力を形にするのに詠唱はいらない。

 だが、詠唱――あるいは術者のつけた魔法名を声に出すことで、より“形”は明確になる。

 具現化の精度を高めるために、声は欠かせない。


「火球輪舞!」


 火の玉がくるくると回って広範囲に広がっていく。いつの間にだろう、小舟を囲むように“迷い子”が集まって来ていた。

 一匹残らず燃え上がる獣。中には空中で(ちり)となりきれず、海に落ちて水面を揺らし、小さな舟を大きく揺さぶるものもいる。


 あちこちで閃光が走り、火の玉が弾け、(まばゆ)い光が満ちて――まるで自分が花火の中にいるようだ。


 やがて、リーディナ一人の働きで、視界を埋めていた黒い影が消え去った。

 しかしリーディナの体に(みなぎ)る緊張は解けない。油断なく辺りを見渡しながら、「姫様」とラナーニャに声を向ける。


「少々、様子がおかしいようです」

「……リーディナ?」

「“迷い子”のまとう空気が、通常のものと少し違ったように思います」


 ラナーニャは何も応えることができなかった。彼女には全く分からなかったからだ。

 この儀式用小舟が襲われることはよくあることだ。歴史上、それで転覆してしまった例もある。巫女が死んでしまった例もある。

 しかし、リーディナは何かを振り切るように首を横に振った。


「船頭! 急ぎなさい!」


 リーディナの命に、船頭がゆっくりと頭を下げる。リーディナはすっとかがみこんだ。ラナーニャに視線を合わせるように。


「姫様、いいですか。陛下のおっしゃられたことを忘れずに」

「リー……ディナ?」

「強く誇り高くあってください、姫様」


 理解ができず固まるラナーニャに、リーディナは微笑んだ。


「大丈夫です。わたしは最後まであなたのお傍を離れません」


 最後? 何が最後?

 恐ろしい何かが迫ってくる。リーディナの微笑みの奥に、どうしようもない悲しみが見えたから――



 シレジア島に着いたのは、もう太陽が落ちた後のことだ。


 イリスの巫女の儀式は、終わっても誰も出迎えをせず、巫女は影の存在のままどこかへ姿を消す――というのが建前だった。実際には儀式の意味など無視をしてしっかり迎えられる巫女が大半であるというが、ラナーニャが巫女を担うようになってからは忠実に守られている伝統である。

 もちろん、今回も。


 小舟が船着場に着く。《月闇の扉》が開いた影響もあり、見渡す限り人の気配はまったくない。沈鬱な闇の中に、見えない不安だけが揺蕩(たゆた)っている。

 そんな景色を見続けていることができず、逃げるように舟を(もや)う船頭の動作だけをぼんやり眺めていたラナーニャの傍らで、リーディナは緊張を張り巡らせていた。

 そして、


「……姫様」


 低く、囁かれて。

 同時に気配を――誰か複数の人間がこちらに近づいてくる気配を感じ、ラナーニャははっと顔を上げ。

 そこで意外な顔を見た。


「お帰りなさい、姉様!」

「クローディア……?」


 集団の中央にいた、無邪気な黒髪、黒瞳の妹姫がこちらに向かって手を差し伸べた。まるで小舟から降りようという姉をエスコートするかのように。


「どうして」


 ラナーニャはそれ以上言葉にできなかった。喉が、ひく、と不自然に引きつった。


 ――今帰ってくるとどうして分かった? 予定よりはるかに早かったはずなのに。


 硬直するラナーニャの様子をとっくりと見つめ、くすりとクローディアは微笑んだ。

 とても十四歳には思えない艶冶(えんや)な表情に、姉姫は恐れを感じる。


「……大好きなお姉様のことなら、どんな遠くにいたって分かってよ」

「姫様、舟からお降り下さい」


 リーディナがせかしている。彼女の手を借り、慌ててラナーニャは小舟から降りた。急いだために舟が揺れて、ひやりと背筋が冷える。


「リーディナ、お姉様の護衛ご苦労様」


 尊大な態度でクローディアは言った。「相変わらずお前は有能だわ」


「姫様を護るのはわたしの使命です、クローディア様」

「……ふふ、うふふ。私も姫なのに。あなたは私を姫と呼んだことは一度もないわね」


 クローディアは気分を害した様子もなく、むしろ面白そうにそう言った。

 妹姫はくるんとその場を回る。ラナーニャは訝しく思った。クローディアはいやに着飾っている――

 髪と瞳に相応しい、真っ黒のドレス。夜闇にまぎれてしまいそうなのに、その光沢は淡く小さな姫を輝かせる。特殊な繊維で織られたものかもしれない。

 いや、そのドレスだけなら良かったのだ。問題は、


「クローディア、その……飾りは?」

「あらお姉様、お気づきね」


 クローディアの背後に控える男たちが生み出す灯火の術は、急激に闇へと塗り込まれていくシレジアの夜に、末の王女の姿だけを浮かび上がらせる。


 クローディアはうふふふ、と胸に飾った美しい金細工の蝶のモチーフをいじる。上品でもあり、挑発的でもある、いやに大人びたきらびやかな一品だ。

 それだけではなかった。歳の割に幼く見える妹は、喪中であれば結ってはならないその美しく長い黒髪を、優雅に高く編み上げている。

 髪に編み込まれているのは何本もの絹のリボン。金、赤、橙、桃――シレジアの色。それは王族として正しい色彩だったが……


 違う。一番の問題なのは。


 末姫が、その額に金のティアラをしているということ。

 この国では本来国王妃しか着用することが許されぬ、朱雀の《印》を象った純金の宝冠を。


 クローディアはラナーニャの視線を浴びて心地よさそうに微笑み、唄うような調子で言葉を紡いだ。


「今、城では宴を催しているのよ、お姉様」

「宴……?」


 こんな日に?

 王族が亡くなったら数週間、まして王が亡くなったなら数ヶ月間喪に服して、祝い事、宴を避けるのが通例なのに。


「ふ――不謹慎だ。なぜそんな――」

「あらだって、新しい王の誕生を祝わなければならないじゃない」

「私は王になるとは言っていない!」


 そう言った瞬間、クローディアは高らかに笑った。

 夜陰に響くような、子供にありがちのきんきんとした、高い――それでいて貴婦人が高笑いをするような、どこか上品な――

 


「――お姉様、宴に出ましょう?」


 クローディアが再び手を差し出す。

 リーディナがすっと姉妹の間に身を滑りこませた。


「姫様はわたしがエスコート致します。クローディア様、背後の護衛の方々とともにお帰りなさいませ」

「あら、変なことを言うのねリーディナ」


 ふふっとクローディアは唇に不敵な笑みを刻む。


()()()たちはただの下僕。私に護衛など必要ないわ。よく知っているくせに」


 そう言われ、ラナーニャは初めて妹の背後に居並ぶ男たちを見た。

 そして、ぞっと鳥肌が立つような思いを味わった。整然と並ぶ男たち――みな十代後半から三十歳くらいまでの、若い男たちだ――は、クローディアのことも、ましてラナーニャのことも見てはいなかった。

 ただ、まっすぐに前を見ている。一様に同じ表情をして。

 仮面のような、心のない顔で。


 ふとどこからか新しい光が差して――よく見ると船頭が点けたランプだった――クローディアの姿を違う角度から照らし出す。

 ラナーニャははっと息を呑む。肩もあらわな(つや)めいたドレス。そこから覗く妹の右肩。

 朱雀の《印》。

 ――そして。

「まあいいわ。ついてきてね、お姉様」

 くるりと身を翻した妹のドレスは、まるで大人のイブニングドレスのように背中が大きく開いていた。

 その背には――


 玄武の、《印》。



 妹の背を追って、リーディナとともに道を急ぐ。

 妹の他、誰も迎えに来ている様子はなかった。それはいつものことではあるが、ではなぜ、クローディアだけわざわざ出てきたのか?


 オーディはどうしている? ヴァディシス叔父は?


 やがて城が見えて、ラナーニャは目を(みは)った。

 城の窓という窓から、明るい光が漏れ出でている。まるでライトアップされたかのように、色んな色で窓が光っていたのだ。


「ねえ、見て。城も着飾ったのよ。やっぱり城だって、宴に参加したいわよね?」


 クローディアは無邪気に言った。心底嬉しげに。


「不謹慎だ!」


 ラナーニャは怒鳴った。

 クローディアは軽く振り向いた。つん、と唇を突き出していた。


「頭がおかたいわ。姉様は」

「そういう問題じゃなく……!」

「暗く沈んでばかりでは、お父様も喜ばない。そうは思わない?」


 ふふと微笑んだクローディアの瞳。

 いつもいつも、美しいと思って……だからまともに見られなかった妹の瞳。

 今こうしてまともに視線を交わせば、ラナーニャは戦慄に身を震わせる。

 吸い込まれてしまったら、そのまま永遠に落ち続けることになるような、深い深い闇の色――

 悪寒に似た何かが、ラナーニャの脳裏で危険信号を鳴らす。けれど目をそらすことができず、ただ身を翻した妹に操られるように、その背を追った。


 やがて城門の前に立ち――

 開け放たれたそこに、さらにラナーニャは今度こそ驚愕のあまり口が利けなくなる。この時間、城の門が開放されていることなどない。あってはならない。


「お姉様が入りやすいように、開けたままにしておいたのよ」

「――そ、ん」

「だってお国のために祈ってきてくださったお姉様が、影のように身を隠したまま、いない存在として裏門から入らなきゃならないなんて、おかしいわ。そうでしょう?」


 お姉様がかわいそう――。

 クローディアはとろけるような甘い声で、夜陰にそう囁いた。


 そんな少女の肩の向こう。門の奥からは、(まぶ)しくてたまらない光が差している。ラナーニャは目がくらんだ。腕を顔の前にかざして、信じられない思いで首を振る。


「どうしてこんな……」

「さ、お姉様。門をくぐりましょ」


 クローディアが無邪気にぴょん、と普段なら閉ざされている境界線を飛び越えた。

 そして境界線の向こうで、笑顔で手招きした。


「さあ、お姉様も!」


 まるで見えない力に誘われるかのように。

 ふらりと――足が向かう。

 その一瞬、ラナーニャの頭の中には何もなかった。かすみがかった、暗い空洞だけ。


 しかしそんな彼女の肩を、すぐさま背後から引き寄せた存在がいた。


「姫様! お気をたしかに!」

「リー……リーディナ……」

「姫様、……いいですか、お気をたしかに」


 繰り返す声は強い。彼女たちを包む闇など打ち払ってしまいそうなほどに、迷いなく。

 リーディナはラナーニャの前に立ち、クローディアと対峙(たいじ)する。


「……たしか玄武の術に、相手を操るものがございましたね、クローディア様」


 クローディアはつまらなそうな顔をして、答えない。

 ラナーニャはぞっとした。

 周囲から、たくさんの気配が集まってきていた。外から、だけではない。クローディアの背後、城門の奥からも!


 闇の中に光る幾つもの赤い輝き。地を這うような、獰猛(どうもう)な唸り声――


「ほら。お姉様が早くしないから、お腹をすかせて出てきてしまったではないの」


 クローディアはそう言った。そして、


「はいはい、お前たち。今極上のエサをあげるからお上品にね」


 まるで、集まってきたケダモノに声をかけるように。

 それは意味のない行為のはずだった。“迷い子”には人の声など届かない。届くはずがないのに。

 けれど、“迷い子”たちは一斉に()えた。それは明らかに、クローディアの言葉に呼応する咆哮(ほうこう)だった。


 ありえない光景を目の前にして、リーディナが苦悶の表情を浮かべた。


「これは使いたくなかったのですが……」


 衣装の中から、やや小ぶりの二振りの剣を取り出す。

 ラナーニャははっとした。リーディナが持っていたのは、ラナーニャ愛用の剣だったのだ。


「姫様、申し訳ございませんが、自衛も行って下さいませ」


 リーディナは後ろ手にその二振りの剣を渡してくる。

 ラナーニャはとっさにそれらを取った。片手剣よりもリーチが短い分、軽い剣。素早さと技を駆使して使う剣。

 腕力の無さをカバーすることを突き詰めて、ラナーニャは双剣使いとなった。父王がそれを薦めてくれたくれたから――


「やあねお姉様」


 クローディアが嫣然(えんぜん)と微笑んだ。


「抗うなんてみっともない真似はしないでちょうだいな。――大人しくしていた方が、苦しまずに済んでよ?」


 ねえみんな? とこれは周囲の闇に浮かぶ赤い光たちに。

 その光を瞳に宿す獣たちが、一斉に唸る。明らかな返答。

 ここには他にも人間がいた――船着き場にクローディアが連れてきた男たちだ。だが彼らはクローディアの声にまるで反応することなく、ただ灯りの術だけを保ってたたずむのみ。


 ラナーニャの手元に、じっとりと汗がにじんだ。

 柄を握りしめ、ラナーニャはうめく。


「……なぜ“迷い子”と通じ合える」


 ふふっとクローディアは含んだように笑った。


「だって当然でしょう? “迷い子”は元は人間なのよ」


 ――それは死んだ人々の魂が地上へと降り立った姿――


 ざわざわと胸が騒ぐ。

 それ以上考えてはいけないと、心が全力で拒否している。


 何が怖い? ()()に気づいてはいけない――


 気分がひどく悪かった。混濁(こんだく)し始めた意識を気合で振り払おうとした時、クローディアは何でもないことのように言葉を放った。ラナーニャに向かって。


「お姉様はひとつ失敗を犯したわ。――お父様は、こうやって“迷い子”となって現世に戻ってくることができないのでしょう」


 一瞬で、足許が崩れ落ちたような落下感が襲い来る。

 目の前が――否、すべてが真っ黒に染まった。かろうじて思考を保っていた頭の中さえも。心の中にあったかすかな希望を呑み込み、我が物顔でラナーニャの意識に君臨する。絶対的な――絶望。


「ああかわいそうなお父様……」


 黒の世界で浮かび上がるクローディアは、まるで神殿内に鎮座するイリス像のように、(かいな)を曲げた。


「せめて、お仲間を増やして差し上げますわ」


 その黒い瞳が――狂気の色を灯す。



「さあ! 宴を始めましょう!」



 それは狂ったとある一国での異変の始まり。

 ――世界をも震撼(しんかん)させる、狂乱の始まり。

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