14 強き子ども
次の瞬間、まるで黒い布を広げたようにオルヴァたちの頭上が真っ暗になった。利いていたはずの夜目がくらみ、ただ何かが覆い被さってくる圧迫感だけが彼らの前身を襲った。あまりに異様で、剣は抜いたもののその手をどうするべきか、動けないほどに。
「やっほーい」
反応は誰よりもルナが速かった。間抜けなまでの声を上げながら、ナイフを持った手を振り抜く。ギャ、とくぐもった異様な音がした。“迷い子”のうめきだ。
オルヴァたちの全身を掴んでいた圧迫感が消滅する。
だが、代わりに物理的な何かがバサアッと頭上から降ってきた。顔面を何かで覆われた――
「!?」
声にならない悲鳴を上げて、オルヴァは思わず両手を暴れさせる。今度こそ前が見えない。感覚で言えばやはり大きな布をかぶせられたようなものだったが、ただの布じゃない。重い上に表面がぬっとりしていて、おまけに獣臭い。
何も見えない。だが暗闇の中で、ルナの軽快な動作だけがよく分かる。
少女はもう一度ナイフを振るったようだ。呼吸もできない数拍のあと、オルヴァたちの顔を覆っていた何かがするすると落ちていった。――“迷い子”が地面に落下した。
「――」
混乱した視力が焦点を結ぶのにしばらくかかった。
暗い森の中、ようやく見えたのは――地面に落ちた異様な化物に、またがるようにしてルナがナイフを振りかざす姿だった。
「あはははっ!」
少女はどこまでも楽しそうだった。無邪気に笑いながら、ナイフを何度も振り下ろす。
玩具を前にした子どもとしか思えない表情で、動けない“迷い子”に何度もとどめを刺す――
「ル、ルナ。よせ――」
オルヴァは声を上げ、一歩踏み出した。しかしカミルがさっとオルヴァの前に手を出し、制した。――近づくなと。
一降りナイフが振り下ろされるたび、ルナの体が淡く輝くように見えた。
やがてなすすべもなく、謎の“迷い子”がルナの下で姿を失っていく。消滅していく……
「あははっ!」
森はしんと静まりかえっていた。その中で、ルナの笑い声だけが、切り取られたように浮いている。
「なんだったんだ……?」
“迷い子”は消滅したが、覆い被されたときの重さと感触がぬっとりと残っているような気がして気色が悪い。
だが一番肌に残っている不快感はそれではない――オルヴァは苦く認めた。
何より異常に思えたのは、“迷い子”に対しても容赦なく攻撃していた子どもの姿。
ちらりとカミルを見ると、彼はただじっとルナを見つめていた。当の少女は他の“迷い子”を探しているのか、きょろきょろと辺りを見回している。
そして何もいないことを確認すると、
「だいじょーぶ?」
とルナはあくまで明るく声をかけてきた。
「今のねー、むささび? むささびみたいな形した“迷い子”なんだよー」
この森にはたまに出るのー、と気楽な調子でルナは言う。
「むささび……?」
あの、四脚を広げると布のように表面積を増やす生き物のことか。言われてみればなるほど、そんな形状の生き物ならばオルヴァたちをこんな目に遭わせることができたに違いない。
ただ、とても巨大だったということだ――一体でオルヴァとカミルの二人を丸ごと包み込めたのだから。
“迷い子”ならばそんな風に巨大化することも珍しくもないが。
「ルナ。怪我は?」
カミルが少女にそう問う。
平気だよ、とにこやかな返答があった。
「えへへ、森の“迷い子”ならまかせて! 森の外の“迷い子”にも、たぶん負けないけどねっ」
自信満々な少女の言葉に、オルヴァはあいまいな笑いしか返せなかった。
(あの気迫――白虎の《印》の気配)
本当のところ、オルヴァがまったく動けなかったのは“迷い子”が予想外の形状だったからではない。
“迷い子”以外のものに注意を惹かれずにいられなかったからだ――彼らのすぐ傍らでナイフを構えた、この幼い女の子があの瞬間、まるで森を支配しかねないほどの迫力を総身からあふれさせたことに。
そしてその力は、そう、少女が何度もナイフを振り下ろすたび増幅されていくようで――。
「ご無事ですかな」
すべてが終わったところで、灯りを手にしたゼンがのっそりと姿を現した。
「どうですか。うちの娘は強いでしょう」
「……」
オルヴァはすぐ傍まで来たゼンを見つめた。
言いたいことは視線だけで十分に伝わったのだろう、ゼンは苦笑気味に口を開いた。
「仕方ないのですよ。我が村に、戦う能力を持った人間は限られておりまして――わたしにはたいした力がないこと、お分かりでしょう?」
(……たしかに)
《印》の強さは気配でだいたい分かることが多い。その点で言えばゼンは――彼もまた白虎のようだったが――戦うのに適していないように見える。
もちろん、戦闘に入ったとたん豹変する人物もいるにはいる。先ほどのルナのように。
しかしゼンに能力を隠す理由があるとは思えなかった。
「戦える人間はあと数人います。ですが当番制でしてな。今夜はルナが担当なんです」
ゼンはルナを抱き上げた。ゼンの手にある灯りに照らし出された少女の顔は、ふくふくと機嫌がいい。父親に抱き上げられるのがたいそう好きであるらしい。
「夜に、ルナのような子どもを?」
「致し方ないのですよ」
ゼンはふう、とため息をつく。
苦渋の気持ちを表しているようにも、聞き分けのない相手に言い聞かすのに困っているようにも聞こえる呼吸。
「――我が村にいる“戦士”は全員、ルナと変わらない子どもですからな」
今夜はお泊まりなさい――とゼンは穏やかな表情でそう言った。
森はすっかり闇に沈んでしまった。今からこの森を出て行こうとするのは自殺行為でしょう、と。
いかにもそのとおりだったので、オルヴァたちは大人しくゼンの家に泊めてもらうことにした。ただし大の男二人が増えるにはこの家はいささか手狭すぎたので、身の置き所に二人が困っていると、
「お気になさらず。わたしとルナはこれから夜警の時間です」
そう言ったゼンはルナを伴い、お好きにお過ごしください――と言い残して家を出て行ってしまった。
「……おいおい」
当人の前では言えない突っ込みを、ゼンたちがいなくなってからオルヴァは低くつぶやいた。
「おかしいだろ、色々」
「寝ますか、オルヴァさん」
「寝られるかよ」
もちろんカミルとて本気で寝るかと聞いているはずはない。一応彼とはさほど歳の変わらない男同士なので、つい素を出して険悪に唸ってしまったものの、その後にオルヴァの口から漏れたのは深いため息だった。
「――警戒してないのはなぜだ? まさか本気で害のない客人だと思っているわけもなし」
ゼンの家は本当に小さい。大人四人雑魚寝するのがやっとだ。たぶん“村”全体がそういった家の集まりで、そこに住める人数を単純計算しただけでもおそらく二十人といるまい。そんな人数で、隠れるように森に住んでいるのに――
否、『隠れて』森に住んでいるのに。外部から来た知らぬ人間に、こうもやすやすと信頼を置くわけがない。
ではあえて彼らを留め置いているのか。いったい何のために。
「――ルナは」
カミルは抑揚薄く呟く。「何者なんでしょうか?」
「あの子か」
あの少女のことを考えると、オルヴァの眉間に自然と力がこもる。
あの、ルナの抱えた膨大な熱量。あれだけの力を子どもが持ち得ないとは言わないが、それにしても異様だ。
しかもこの村では子どもほど能力が高いらしく、この森ではそんな子どもが村に四人ほどいて、当番制で村の警護をしているのだそうだ。その四人にはもちろんルナも含まれている。ゼンいわくルナがもっとも強いそうだが――
母親はどうしたんでしょうね、とカミルが重ねて言う。
「いないんじゃないか? 少なくともこの家には」
こんな狭い家だ。まして客を二人平気で入れるのなら。「まあ、他の家にいるという可能性もあるし」
ひょっとしたらこの村は奥方が別居するのが文化なのかもしれない。少なくともオルヴァたちと似た文化で生活してはいないようだから、ありえることだ。
(文化、か)
ひとつ口惜しく思うことがあった。ゼンたちの風貌である。
ここがいったいどこなのか、彼らの衣類その他で判断できないかと思ったのだが――残念ながら、それは無理そうだ。
彼らのたたずまいは言葉以外、どれもこれもオルヴァの識るものではなかった。オルヴァとて兵士として基本的なことは網羅しているのだが。
オルヴァは何度目か分からないため息をつき、思考を切り替えた。
「――ひとつ、思ったことがある」
「何ですか」
「この森、やっぱりクルッカの森なんじゃないかと思ってな」
ゆっくりとそう言うと、カミルが興味深げに首をかしげた。
「オッファーの森、というのは、彼らが勝手に名付けた名だと?」
「もしくは、ここがクルッカと名付けられるより前の時代か」
ただの可能性の話とは言え、言っていてオルヴァも自然苦い顔になる。
「――とにかくまあ、ここがクルッカではない証拠はどこにもないってことだ。で、クルッカの森にはかつて、人が隠れ住んでいた時代がある。知っているだろ?」
ええまあある程度は、とカミルは曖昧に答える。
彼が知っている内容は、おそらく図書館で見た書物の内容だろう。率先して読んだのはシグリィに違いないとオルヴァはにらんでいたが、目の前の青年もぬかりなく少年から知識を受け取っているはずだ。
実際あったんだ村は、とオルヴァははっきり言い切った。
「これはマザーヒルズでは公然の秘密だ。二百年前、ちょうど森が実存した最後の時期に村はあった。最初の人間がいつ森に入ったかははっきりしていないが、おそらく十年近くは存在した」
「その数字はどこから?」
「村が滅んだときに」
オルヴァは低く告げる。「おそらく村で生まれ育ったと思われる子どもが数人いたことが記録されている。全員七歳から九歳前後であったらしい」
カミルが目を細めた。
「ずいぶんと詳しい記録ですね」
「ああ、詳しい記録だよ。――俺の先祖が記録した内容だ」
目の前の青年の、細められていた目が驚いたように少し見開いた。
オルヴァは苦笑した。
「俺の家は代々マザーヒルズに使える兵士でね。それも、代々遊覧兵なんだ。もう三百年になる。長いだろ?」
「それはすごい」
カミルの言葉には素直な賞賛の響きがある。彼がもし兵士の一族なら、そのすごさは理解してくれるに違いない。
けれど――オルヴァの声音にわずかな陰りがあったことに、カミルが気づいたかどうか。
(今はどうでもいいことだ)
オルヴァは肩から力を抜き、天井を仰いだ。
「……クルッカの村の記録は、王宮じゃなくうちに保管されててな……長いこと忘れ去られてたんだよ。それが今回、急にあの森を調査することになって、慌てて掘り出してきたってわけだ」
「どうして急に調査をすることになったんです」
「簡単なこった。あの森――っつっても森はもうないが、とにかくあの周辺を潰そうって話になっててな」
潰す、とカミルは眉をひそめる。
「……まあ、あの辺りはむしろ今まで手つかずだったほうが不思議な場所ですが……潰してどうしようと?」
「郵便制度の整備のため」
カミルは一瞬、目を丸くした。
そして――少し固くなった声音で、
「どこからどこまでの整備ですか? まさか――」
「王宮からガルトナルグまでだな」
さらりと答えると、カミルは深くため息をつく。
「重要機密でしょう。いいんですか」
「いいさ。君らは好き好んで国同士をいがみ合わせたりしないだろう」
少し愉快な気分だった。実際機密事項であるこの話を、こうも簡単に漏らしていい相手などいるわけがない。
けれどオルヴァは、この旅人三人連れ――今は四人連れ――を信じていた。そうとなれば、秘密を漏らすことは楽しみへと変わってしまう。
たぶん――、こんな簡単に口を滑らすのは、普段あまりにも “秘密”に縛られていることの反動なのだろう。
遊覧兵はいつだって、損得なしにつきあえる相手に飢えている。




