Side:Ranarnya 04
「姫様!」
誰かの深刻な気迫を載せた声が、深い湖の底にいるようだった意識を急浮上させる。
ラナーニャは緩慢に瞼を上げた。
「姫様! 姫様……!」
体を揺さぶられる。呼ぶ声は張り詰めていて、ラナーニャはつい問いたくなった。何をそんなに恐れている……?
しかし理由はほどなく知れる。
体が重い。とても重い。
さらには――とても寒い。いや、冷たいと言った方が正しいのか?
それでいて、近くにはまるで火があるかのように温かい。
なんだこれは。違和感しかない事態に急に体が芯から震えて、ラナーニャは近くのぬくもりにすがりつき――ようやく相手が、リーディナだと気づいた。
「リー……」
「意識がお戻りになられたのですね」
リーディナが、肩の力を抜いたかのように、ほっと笑った。
ラナーニャは必死で自分の置かれている状況を理解しようと努めた。自分は今、リーディナの腕の中にいる。体の近くにふよふよ浮いている火は、リーディナが起こした魔術の火だ。それが三個。ラナーニャを囲むようにして浮遊し、ほのかなぬくみを空気に与えている。
なぜ体が重たいのか? 理由のひとつは、巫女装束がぐっしょりと濡れていたためだった。水気をすっかり吸って、それが遠慮なくラナーニャの体にのしかかっているのだ。
衣装どころか髪も、まるで地面に引っ張られるように重い。ということは髪まで濡れているのか。どうりで頭の辺りがどうしようもなく不快なわけだ。
そして……
本当の意味で体を重くしているのは、おそらく疲労。
ごく自然にそう思ってから、自分で眉をひそめた。疲労? なぜ?
自分は今どこにいて、何をしていたのだったか。
「姫様? ラナーニャ様」
リーディナが珍しく主の名前を呼んだ。彼女の変わったこだわりで、この世話役は何かを強くラナーニャに訴えるとき以外、主の名を呼ばない。
「ラナーニャ様。あなたはラナーニャ・ブルーパール・イリシア様です。……お分かりですか?」
今回はどうやら記憶を確かめるためらしい。リーディナに名を呼ばれるときは、いつもラナーニャにとって重要なときだと心も体も覚えているから、ラナーニャは体の芯にぐっと力が入るのを感じた。
「ああ……」
ラナーニャはリーディナの腕の中でぐったりとしていた。しかし名を呼ばれたことで我に返り、慌てて体を起こそうとする。
それを、リーディナが押しとどめた。
「まだお休みになっていてください。姫様」
「わ――私はいったいどうなったんだ?」
「やはり覚えてらっしゃらないのですね。ここはイリス神殿ですよ」
イリス神殿……?
ああそうか。自分は父王の、
――御魂送りに――
急に意識が鮮明になった。そうだ、自分はイリス神殿に亡くなった父王の御魂送りにやってきたのだ。そして、
リーディナが説明に困るかのように、歯切れ悪く告げる。
「わたしが神殿に飛び込んだときには、姫様は禊ぎの間で聖水に浸かって」
「―――」
ラナーニャは目を腕で覆った。
リーディナが慎重に尋ねてくる。
「……何をしていらっしゃったのですか? 何が起きたのですか?」
なぜ、聖水に浸っていらっしゃったのですか? まるで女神が眠るように、やすらかな顔で――
言外にそんなリーディナの問いが、聞こえる気がする。
覚えている。
自分は聖水に浸って、浮かんでいたのだ。目を閉じ、まるでそのまま入水自殺でも図るかのように。
イリス神殿には、直径が彼女の背丈の五倍はある聖水場がある。本来は《月闇の祈り》の際に入る場である。月闇の扉が開いたときの祈りは特殊だ。まずイリス神像の前で祈りを数時間。そのあとに聖なる水場に衣装ごと浸かり、清き水の重みを全身に受け止めながら数時間祈る。さらには《天空の間》へ移動して……と、踏まなくてはならない手順が、格段に多い。
だが今回は月闇の祈りではなく御霊送りのために来たため、禊ぎの場へ行く必要はなかった。
なかったはずなのだ。
なのにそこで。自分は。
――聖水をくぐりなさい。
――そうすればあなたの罪は赦される。
「あれは……あの声は……」
ラナーニャはか細い声でつぶやく。
「イリス様だったのだろうか……」
分からない。分からない。
父王の御魂を、イリス神にお預けしたくないと言ってしまった。まさにあの瞬間からふいに意識がふっと遠のいて、同時に声が響いてきたのだ。どこからともなく――
男性のものなのか、女性のものなのかも分からぬ声が。
ただそれは、とても厳かな響きをもってラナーニャの心の底へとのしかかった。まるで彼女を、そのまま沈めてしまおうとするかのように。
「イリス様は……怒っていらっしゃるのか……」
「姫様、お気をたしかに」
リーディナがもう一度主の体を揺さぶる。
揺さぶられると、重い体を再確認させられて、とても辛い。けれど弱音をリーディナの前で吐きたくなかった。
こんな失態を犯しておいて、これ以上無様な姿はさらしたくない。
ラナーニャは渾身の力を体にこめる。そして、一気に体を起こした。
「姫様!」
案の定、ふらっとめまいを起こした。けれどそれが何だと言うのだろう。
「もう大丈夫だ」
自分を心配する人に、そう微笑みかけられることの尊さ。喜び。
自分は幸か不幸か死ななかった。生き延びた。
ならば、憂鬱な表情よりも笑おう。それがたとえ、自分の心をひどく傷つける行為であろうとも。
「それにしてもリーディナ」
髪が吸った水をしぼりながら、ラナーニャは傍らで魔術の火を増やしているリーディナを見る。
彼女は本来、よほどの理由がなくては神殿には足を踏み入れてはいけない立場だ。それは神への不敬行為とされているから、敬虔なイリス信者であるリーディナが自ら好んでそんなことを行うはずがなかった。
もしそんな行為に踏み切る原因があったとしたら――それは彼女が、“護衛”としての役目を果たす必要を感じたからに他ならない。
「どうしてここまで? 緊急事態だと分かる何かがあったのか……?」
「ええ、ブルーパールが」
「ブルーパール?」
リーディナは厳しく引き締めていた表情をやわらげて、衣装の中から何かを取り出した。
「……島の波打ち際に、打ち上げられていたのです。これが」
「―――」
リーディナの掌にあったのは、碧い真珠――
世界でもシレジア海にしかないという。そのシレジアでさえ滅多に見られない、国の定める保護対象でもある宝石。
まさしく海の色をした真珠だった。角度によって緑のようにも青のようにも見える。何より光が入ると向こう側が透き通る透過性を持つ、とても不思議な色合いの石だ。
空の色とはたしかに違うこの真珠の名を、ラナーニャは守護名に戴いている。
しかしそれにしても……
ラナーニャは不審に思って、リーディナの手の内の奇跡の石を見た。
「なぜ島の波打ち際に? この島の下に青貝は生息していたか……?」
「それが、いないはずなのですよ、姫様」
だから。――だからこそ。
波打ち際でこれを見つけた瞬間、この真珠の名を持つ自分の主の身に、何かがあったと悟ったのだ、と。
ひとしきり髪をしぼり終わって一息ついたラナーニャに、リーディナはぴんと背筋を伸ばして、
「ご無事で何よりです、姫様」
ラナーニャは苦笑する。
「リーディナが禁を犯して来てくれなければ、危なかった」
「わたしが何があってもお護りします。このブルーパールがわたしの目に入ったのも、きっと神の思し召しです。姫様を助けよと」
「神の……思し召し……」
目を伏せた。ではあの声はなんだったのだろう。
そしてその声に逆らわなかった自分は、いったいどうしていたのだろう。
罪の意識?
……いいや、そんな考えさえも、あの瞬間には思い浮かんでいなかったような気がするのだ。
それならば、なぜ、私はいったいどうして――
この神域で、死のうとなどしたのだろう?
こぼれるような吐息は、不明瞭な自分の心の中を吐き出そうとしたのかもしれない。
「……今、何時かな」
「午後六時でございます。儀式は通例夜が明けるまでですが、もうお戻りになられては? 王の御魂はお送りになったのでしょう?」
ぴくり、と指先が震えた。
それだけの反応しかなかったことが、逆に不思議だった。
ラナーニャは目を伏せて、
「……ああ」
とつぶやいた。
「父上の魂は、イリス神の腕の中にお渡ししたよ」
大きな嘘。黒い罪悪感。重い重い――お役目の心。
胸が引き絞られるようだ。この痛みは内側からのものか、それとも……見えない大いなる手によるものか。
ああ――
父よ。もしも逝けずに苦しむのなら、どうかこの私だけを恨んで。
そしてどうか、
神よりたしかな父よどうか、
月の闇の向こうに行かないで。その偉大なる、その優しき精神をうしなわぬままでいて。
我らの国シレジアを、そして獣となるしかなかった過去の魂たちを護って――
*
リーディナを伴って神殿を出ると、太陽の陽は西で朱色に染まっていた。
キラキラと輝くそれは、ラナーニャの髪の色とよく似ていた。
シレジアでは《女神の黄昏》と呼ばれる。その呼び名の通り、まるでイリス神がそこにいるようで。
広大な空を覆い尽くして、こちらを見ているようで。
ラナーニャは心底――恐怖を覚えた。
「早く……城へ戻ろう」
「姫様?」
リーディナが心配そうに自分を見ているのを、ラナーニャは気づかないふりをして歩き出す。
早く行こう。自分にはもう、この島にいる資格はない。
城へ戻り……そして学ぼう。父の魂を救えなかった罪をどうすれば償えるのか。
ただ、それだけを。