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月闇の扉  作者: 瑞原チヒロ
第一章 その日、青い光が飛んだ。
49/97

40 妹

 都合がいい、とカミルが小さく呟いた。

 クローディアの術から助けてくれた彼は、それ以上ラナーニャに手を貸さなかった。一度は足を取られて体勢を崩しながらも、すぐさま別の位置へと移動する。


 おそらく、体勢を崩してみせたのもわざとなのだろう。隙を見せることで、追撃があるかどうかを確かめたのだ。


 そして、その結果に対して言ったのだ。――()()()()()


 ラナーニャは何とか己の力で転倒から立ち直り、空を見据えた。


()()()()()()()。クローディア……本気でさっさと決着をつける気がないんだな)


 気まぐれに移動するクローディアとは、現状それなりの距離がある。けれど声は聞こえていた。シレジアの人間の声は普通の話し声でも通りがよいと言われるが、きっとそれだけが理由ではない。クローディアはラナーニャに届かせるつもりで声を発しているのだ。そして彼女のその発声方法は、朱雀の術者の詠唱そのもの。


 妹はあんなに気ままな言葉さえも力に変えている。


(私とはまるで違う。クローディアは強力な術者だった)


 城にいたころ、そういった噂は聞いていた。単純な朱雀の術者としての力量ならば、国内に並ぶ者はいないかもしれないとさえ。

 だがそれが(ほま)れとして語られることは少なかった。妹のその力は、〝異質〟だと言われていた。


 ラナーニャはクローディアの力を、ほとんど見たことがない。だから、何をもってそんな評判を立てられていたのかを知らない。


 ただ、彼女にもひとつだけ分かることがある。

 シレジア王家の直系であった父王。まさしく始祖(しそ)の血筋と称えられたあの父と、クローディアはまったく似ていない。




 空で漆黒の少女が腕を振り上げる。

 突風が吹き荒れ、身動きを封じられる。間を置かずに白刃が視界で閃いた。瞬く間にラナーニャの肌を傷つけ、血を流させる。


 痛みは感じない。すでに麻痺しているようだ。地面に両足で踏みとどまって、ラナーニャは奥歯を噛みしめる。

 命を奪うつもりならば、簡単にできるのだろうに。


(なぜ――)


 体の内部が引きつれるように痛かった。もしも手に武器を持っていたら、なりふり構わずそれを空へと投げつけたかもしれない。


 ラナーニャの視界から今まさに外れようとしていたカミルが、口の動きで何かを命じた。


 うなずき、ラナーニャは背筋を伸ばした。


 両手をだらりと下げたのは、思い切り声を出せるよう、力を抜くため。クローディアの行動パターンならばもう十分知れた。ここからは別のやり方を取らねばならない。


「クローディア」


 空に胸を向ける。声を張り上げた。妹を呼ぶ声。

 クローディアは空中でたゆたうような風情のまま、小首をかしげたようだ。


『なあに? お姉様』


「お前のその姿は、本体ではないんだな?」


『ええそうよ。見ればわかるでしょう?』


 そう、見れば分かる。なぜならば――今空にいる少女は、黒髪をしている。

 そして、この距離で確信を持てるのも不思議な話だが、闇の淵色の瞳をしている。


 それは確かに、彼女が生まれつき抱いていた色彩だ。

 だがそれではおかしいのだ。本物の妹は数日前に――


「……()()()()()()()、はずだったな」


 ラナーニャは頬に乱れた髪の先が当たるのを感じ、顔を動かして払いのける。わざわざ今確認する気もないが、その髪の色は黒い、はずだ。


 この島に来てから、鏡を見るのが恐かった。窓や川面を見ては違和感を覚えた。それは、記憶がなかったからではない。


 見える〝自分の顔〟が、長く親しんできた〝自分の顔〟とは違っていたからだ。()()()()


 ――この色、交換しましょ。


 簡単すぎるそんな言葉とともに、淡い桃の色した髪と朱色の瞳に姿を変えた妹。


 ラナーニャの最後の記憶の中、確かに妹はその色でいたのだ。あの夜、クローディアが着ていた漆黒のドレスには、あまりに似合わなかった〝女神の色彩〟。


「お前はイリス様の御色(おいろ)を、もう捨ててしまったのか?」


 話し続ける。それが役目だ。クローディアはおそらく、無視をしない。

 案の定、妹はおかしそうに笑った。


『いやあねお姉様。あんな素敵な色を簡単に捨てたりしないわよ』


「じゃあなぜ今、お前はその色をしていない?」


『こうやって遊ぶときに、あの色は邪魔だから』


 トン、とクローディアの片方のつま先が空中を蹴る。

 ふわりとドレスの裾が舞った。


 漆黒の化鳥(けちょう)か、はたまた漆黒の化蝶(けちょう)か。そんな幻想を見たラナーニャをよそに、クローディアは無造作に片腕を振るった。発生した衝撃波はまったく違う方向に飛んだ――何かを成そうという体勢に入っていたカミルがそれを避ける。クローディアはそちらを一切見ないまま、『うるさい羽虫は嫌いだわ』と吐き捨てた。


 カミルの動きがひとたび止まれば、何事もなかったかのように、クローディアはただ一心にラナーニャに声を向ける。


『認めたくはないけれど、あの色はわたくしとは相性が悪いの。お分かりでしょう? だってわたくし、イリス様には愛されなかったのだもの』


 唇を尖らせ、肩をすくめる。()ねたようなしぐさだ。


 それは他国の者が聞いたならまったく理解できない言い分だっただろう。これだけ朱雀の術を行使していながら、朱雀の神に愛されていないなどと。


 だが、シレジアにいる者は、分かる。

 ――分かってしまう。


『でもいいの。わたくし、好きなときにまたあの色を身にまとえるのですもの。好きなときに! 素敵ねお姉様、この先もあの色をまとうたびにわたくしはお姉様を思い出すわ――イリス様じゃない、お姉様を! だってわたくしにとっては』


 お姉様のほうが大切だもの。

 無邪気な声音で。妹はそう、言った。


『ねえお姉様。お姉様だってそうでしょう? オーディやわたくしのことを、愛してくださっているでしょう?』


「―――」


 一瞬のひるみが、ラナーニャの言葉を封じた。

 形になりそうでならなかった美しい幻が、目の前で爆ぜるように消えたのを見た、気がした。


 妹はだんだんと高度を下げている。距離を縮めている。その表情が今度こそくっきりと見えるほどの位置まで。


 愉悦に歪むその唇の端が、見えてしまうほどの、位置まで。


『――答えられないのでしょう? うふふ、やっぱりお姉様は嘘がつけないのね。愚かなほど正直な、優しいお姉様。言わなくて正解よ』


 だって、とクローディアは艶めかしい唇を、ことさらはっきりと動かした。


『愛してる、なんて言おうものならわたくし、憎くて憎すぎて一瞬で殺してしまったかもしれないもの!』


 風が、動いた。

 まるで大波のような風が。うねるように辺り一帯をかき混ぜ、誰も彼もを呑み込まんとする。もしもクローディアにその意思があれば、その風はラナーニャたちの体をさらって、上空に巻き上げていたかもしれない。


 だが、そうはならなかった。

 クローディアは笑う。うねる風の中央で。


『オーディもヴァディシス叔父様も、みんな言うの。わたくしは残酷だって。でもね、ねえ、本当に残酷なのはだぁれ? 教えてよお姉様』


「クローディア……」


 喉が引きつれる。名を呼ぶことさえ、苦痛を伴う。それは体が訴える痛みなのか、心が訴える痛みなのか、もはやラナーニャには判別がつかなかった。


 やっとの思いで絞り出した妹の名もさえ――かすれるか途切れるか、きっと実際にはそんなみじめな声だったに違いないのに、クローディアはうっとりと目を細くした。


 ――もっと、名前を呼んで。


 甘やかな響きがとろりと空気に馴染み、ラナーニャの元までしたたり落ち。

 そうして空気ごと、ラナーニャの動きを絡め取って締め付ける。


 お姉様、と、クローディアはしつこいほどにそう呼んだ。城にいたころ直接呼び合うことなど滅多になかった、その埋め合わせをしようとしているかのように。


 呼ばれるたびに、ラナーニャの心に迷いが生まれる。

 あまりに慣れない。そして今ここでそう呼ばれることが、悲しい。


 ろくな反応をしないことに痺れを切らしたのか、クローディアはつまらなそうに鼻を鳴らすと、ついと右手を掲げた。


『見て』


 その掌に輝きが生まれた。小さな丸い輝き。ひらりと優雅に手を翻し、クローディアはその青い光を二本の指でつまんでラナーニャの方へと突きつける。


『これが何か、お分かりでしょう?』


 目を刺した青い光に、ラナーニャは一瞬目を細め――そして次の瞬間、見開いた。


 あれは。あの青い石は。


 くすくすと、クローディアが(わら)った。


『リーディナが最期にお姉様を護るために力を込めた石よ。これがあったせいで、お姉様を見つけるのに苦労したわ――あげくにこの石を持っていた人間をお姉様と勘違いして襲ってしまったわ。ええ本当、あれは予定外だったのよ』


「―――」


『まあわたくしとしてはどうでもいいのだけれど。お姉様を追うために生み出したペットたちだったから、その爪を別の血で汚してきたことは失敗ね。叔父様も眉をしかめていてよ――ふふ、叔父様があんな顔をなさるのも愉快だったけれど』


「返してくれ!」


 思わずそう叫んでいた。状況など構っていられなかった。届くはずもないのに、ラナーニャは手を伸ばしていた。


 あの石は。あの石は。

 父王の御霊(みたま)を送れなかった、私の罪を知っている石。

 何より、リーディナが預けてくれた石。


 クローディアが目を見張り、それから嬉しそうに笑み崩れる。


『そうね。これはお姉様の大切なもの』


 だから、こうしてあげる。


 ことりとした声でそう呟いて。


 クローディアは無造作な視線で、己の掌の石を見やった。その瞬間――


 パリン。軽いガラス玉を砕くような音とともに。


 小さな青い宝玉が砕け散った。


「―――っ!」


 カッとラナーニャの指先が熱くなる。激情を体温に変えたかのように。ぐらりと、視界が揺らぐ。ひょっとすると自分は、卒倒しかけたのかもしれない。


 (たか)ぶりをなお煽ろうと、クローディアはたった今まで石を載せていた手を空で払い、せせら笑った。


『今のは嘘よ。本物のあの石はとっくにわたくしが砕いたわ。でもやっぱり本物を残しておくべきだったかしら……ねえお姉様、やっぱり本物が良かった?』


 幼い娘が無邪気に尋ねるように小首をかしげる。


 それはまだ若い妹にあまりにも似合っていて、しかし紡ぐ言葉の内容とはぞっとするほど不釣合いだ。


 ラナーニャは暴れようとする指先を握りこみ、拳に固めた。


 クローディアの目的は、はっきりしている。自分をいたぶる、ただそれだけだ。殺すことはその延長線上にあって、ひょっとしたら死ななくてもいいのかもしれない。


 すう、と肺に空気を送り込み、なけなしの唾を呑み込む。

 そして、ラナーニャは改めて、顔を上げた。


「……少し見ない間に、変わったな。〝あの時〟、お前は()()()()()()()()()()()とそう言った」


 途端にクローディアの顔色が変わった。大嫌いなものを目の前に差し出された子供のような顔に。


 ラナーニャは無理やりに笑みを作ってみせた。頬が引きつれただけに終わってしまった気がするが、それでも精一杯の。


「あのときのお前は、オーディとともにいた。だからああ言うしかなかったんだろう? もっともあのときのお前は、そのことを不思議にも思わなかったんだろうが」


『――うるさい!』


 噛みつくような声でクローディアは()えた。獰猛(どうもう)な野獣のように、黒い瞳に(くら)い炎が灯る。


『うるさい、うるさいうるさいうるさい――! そうよ、オーディは今でもお姉様を美しいままで死なせたいと言うのよ! ああ本当に憎たらしい! オーディとともにいると吐き気がするわ――!』


 己の体を両腕で抱きしめ、空中で(もだ)える。きっと背筋に()い回る悪虫を振りほどこうとでもしているに違いない。


 それが、この双子の歪んだ関係だった。

 ラナーニャは知っていた――リーディナが教えてくれたからだ。


 なぜ、長子が明らかに問題を抱えているラナーニャでありながら。下には健康体で賢いオーディ、術者として申し分のないクローディアの二人がいながら。


 普段から、はっきりと下の二人のどちらかが次代国王だとみなされる風潮がなかったのか。


 ――この双子は同じ場所にいれば、お互いが必ず影響される。クローディアの意識がオーディに引きずられ、あるいはオーディがクローディアに引きずられ、各々で活動しているときとは別人のような言動を取る。それぞれの能力にも影響が出るという。


 自我が、完全に分離していないのだ。


 それゆえもしもどちらかが――高確率でオーディが――王位を継ぐ事態になれば、おそらくもう片割れは闇に葬られるか、遠い別の土地に送られることになる。それを、オーディもクローディアも望まなかった。


 互いに互いを疎ましく思い、罵り合い、憎み合いながら、決して離れようとは考えない。

 ひょっとしたら文字通り、彼らは魂を分かち合っているのかもしれず。


 「お姉様の美しさが台無し」とそう言ったあのときのクローディアも、決して嘘ではないのだろう。あのときは――オーディが隣にいたから。


 「見苦しい姉を見たくない」それは、弟の感性なのだ。


 互いに影響し合う。それはどんな感覚なのか、ラナーニャには想像もできない。二人の内心を()し量ることなどできはしない。誰かにそれを教えられたところで、何かできるわけでもない。


 否。それとも何かできることがあったのだろうか。

 あったとしても――もう遅いのか。


 敵意にぎらつく妹の視線。オーディの話を持ち出すのは、クローディアのもっとも触られたくないところを容赦なく引っ掻くようなものだ。

 案の定、クローディアはラナーニャを煽っていたときとはまるで違う態度で両手を広げた。


 その中央、漆黒のドレスの胸元辺りに、閃く雷光のような力が集束する。(ほとばし)る光が周囲に散って、うすら暗かった世界がわずかに照らし出された。


『許さなくってよ、お姉様――もう余計な口を利けないように、顔をつぶしてあげる。オーディがいたら絶望して抜け殻になるような顔に変えてあげるわ!』


 ラナーニャは目を焼くその閃光を瞬きせずに見返した。光が(かさ)を増す。やがてクローディアの漆黒さえ薄れさせるほどの眩さに。


 高らかに響いたのはクローディアの詠唱だったのだろう――ほとんどまともな言葉になっていなかった、そんな不安定な術を見事に成立させて、漆黒の娘が雷光を振り下ろす――



「――ら、よおおぉッ!」



 だみ声じみた咆哮(ほうこう)が、クローディアの術を遮った。


 同時、クローディアの背後を狙って何かが飛んだ。光に目を潰されかけたラナーニャにもその正体を理解できたのは、何のことはない、それが彼女の待っていたものだからだ。


 ――岩石から作った棍棒。


 海の男は重い(いかり)を扱うのも日常。そこにさらに白虎の加護がついた、その肩はだてではなかった。

 ぶん投げられた棍棒は唸りを上げて飛び、背後には注意を払っていなかったクローディアの背中を、まともに打ち据えた。


『ッ――あ――』


 クローディアの掌上、雷光が霧散する。


 空中で大きく体勢を崩す妹。その姿をつぶさに睨み据えながら、ラナーニャは声を上げた。


「私は一人でここにいるんじゃない!」


 それはクローディアに向けながら、その実自分のほうが痛みを負う言葉。


 仲間がいる。その信頼を宣言するための誇らしい声ではないことを、ラナーニャは自覚していた。


 独りではないのだ。国で弟妹に追いつめられたあのとき、リーディナがいたように――この島で黒い鳥からシグリィがかばってくれたように――二人が代わりに血を流してくれたように――


 自分は常に、護られている。


 そのことのうしろめたさ。一対多数であることの罪悪感。


 それでも。

 ひとつだけ、はっきりと言えることがある。


 自分たちが今、クローディアを止めることができた原因。クローディアにいくつもある隙のひとつ。


 だから、これだけは。力の限り、叫ぶ。


「みんなを、見下すことは……っ、許さない、クローディア!!!」

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