Side:Ranarnya 02
神殿へ行く理由が変わってしまった――
シレジア産の金や宝石をたっぷりとあしらった巫女装束。それに身を包んだラナーニャは、その重みを命の重みと思う。
昨夜。月闇の扉が開いた夜に。
父王は崩御なされた。
その報せは、翌朝になって国民に告げられた。
賢王と名高かった王の死は、多くの涙と嘆きをもたらした。扉が開いたことを知っていた民も大勢いた。こんなときに王が死に、残された王族は若い者ばかり。いったいどうすればいいのかと、民は途方に暮れている。
王の妻は、下の子――双子を産んで亡くなった。
王にはヴァディシスという、まだ三十をすぎたばかりの弟がいたが、当に王位継承権を放棄している。
そして王自身の子はと言えば三人。
第一子、ラナーニャ・ブルーパール・イリシア。
第二子、オーディ・ブラックストーン。
第三子、クローディア・ハウライト・イリシア。
長子のラナーニャでさえ、ようやく十六歳という年齢だ。シレジア王国史上最も若い王は十歳だが、彼は男性だった上に後見人がいる。
王が世継ぎにラナーニャを指名したことで、高官たちは頭を悩ませた。
そんなとき、
「私が後見人となるから」
安心しなさい、と言ったのはヴァディシスだった。彼は、苦笑とともに言った。できれば国政の中枢には行きたくなかったけれどね。
彼は芸術家肌である。この豊穣の地シレジアでは、人の心も豊かに育つ。絵描きに、吟遊詩人。金細工師、宝石細工師。
芸術家、と呼ばれるあらゆる人物がこのシレジアから大陸に渡っていく。
――シレジアの花をあしらったヴェールが、リーディナの手でラナーニャの頭に載せられる。視界にうっすらと絹のカーテンがかかった。
リンリン、と呼び鈴が鳴った。
ラナーニャの準備を手伝っていた、他の侍女が出て行く。そして戻ってくると、
「クローディア様です」
「ああ……開けてやってほしい」
部屋の中央にいると、扉際での声は聞こえないのだ。そんなに外の音が大きく聞こえる扉では意味がない。
侍女が扉を開ける。
クローディアが、ぴょいと飛び込んできた。
「あ、お姉様。相変わらずおきれいっ」
猫のような目の少女――当年とって十四歳の妹――が、無邪気にラナーニャを指差した。
ラナーニャは苦笑して、
「お前の方がきれいだよ」
と言った。
実際、ラナーニャと違ってクローディアは生まれながらに貴婦人として育てられている。若さゆえ、時々それを忘れた言動を取るが、基本的に優雅で可憐な少女だ。
妹には目がないラナーニャの代わりに、リーディナが厳しく言いつけた。
「クローディア様。不謹慎でございます」
父王がなくなったというときに。
そして姉が、このシレジア島のさらに南にある小さな島にある神殿へと、御魂送りに行く準備中だというのに。
……月闇の扉も開き、国が揺らぐ前兆なのではないかと誰もが心の奥底で恐れているというのに。
しかしクローディアは呑気で、
「だってこの巫女装束の姉様滅多に見られないんですもの。嬉しいものは嬉しいわ」
何より――と妹はくるんと回るように姉の背後に回り、
「この……お姉様の本来の髪の色が見られることなんて、本当に、滅多にないこと……きれい。本当にきれい」
「―――!」
ラナーニャは思わずばっと振り返った。とっさに長い髪を隠そうとしたのだ。
流れた長い髪が通った跡を追うように――
きらきらと、金のきらめきが落ちたような気がした。
「何でお隠しになるの?」
クローディアは膨れた。「その朱金色。女神イリスと同じ色と言われる髪」
そして、とクローディアはそっと姉の頬に手を伸ばす。
顔を寄せ、目をのぞくように。
「……この、美しい桃色の瞳。これもイリス様と同じと言われているのよね、お姉様」
「クローディア、やめてくれ!」
大声が出た。クローディアがびっくりしたように、顔を離した。
ラナーニャはクローディアの体を押して、
「……頼むから、髪と目のことには触れないでほしい。私は……そんなつもりはないんだ……」
女神イリスの姿に生き写しだと言われた。
だから女神の申し子だと。
――冗談ではない。自分は……申し子どころか、加護も与えられていない。
シレジアはイリス神に特別に愛された島。
シレジアの王族なら、その体に必ず出るはずの朱雀の《印》。ラナーニャにはそれがない。
いや。
それどころではない。そう、それどころではないのだ――
そう思ったとき、クローディアがくすっと笑った。
「姉様は気にしてらっしゃる。自分が四神の《印》をひとつも持っていないことを」
「クローディア様!」
リーディナが厳しい声で叱責した。クローディアにはまったく効かないのか、妹姫はくすくす笑うだけだ。
「クローディア様、そのような言動、王族ともあろう方がなさることではありません」
なおもりーディナが責め立てるのを、ラナーニャは止めた。振り向くリーディナに、首を振ってみせる。
「いい。……本当のことだ」
そう――
ラナーニャは、人間なら必ず持つとされる四神の《印》を、ひとつも持っていない。
それが分かったとき、重臣たちは歴史上初となるこの事態を危ぶんだと聞く。四神の加護を受けていない。そんな子供が王族の、しかも待望であったはずの長子として生まれたことが国民に知れたら混乱を与えると。
しかし、そんな論調に、否と唱えたのは父王だった。
朱金の髪、桃色の瞳。
この子こそ、まさしくイリスの生まれ変わりではないか。堂々と、育ててやるべきだ。
――今になって分かる。父王のイリス云々はきっと口実。父は自分を日陰の子どもにせずにしようとしてくれたのだ。
だがそんな父の配慮もうまくは行かなかった。人望篤き父王の力をもってしても、臣下たちの――つまりはシレジア人という者たちの目を、変えられなかった。
いつしかラナーニャが人前に出ることのない姫となったのはなぜだったのか。誰かが自分を排除したのか、それとも自分から避けるようになったのか――ラナーニャにはもはや分からない。
ただ、それでもラナーニャを長子として育てようとした父王の教え、“王族としての振る舞い”だけは守ろうとして……その滑稽さに、自分で苦笑するのだ。
力を戴きたかった。
彼女の願いは切実だった。切実に、神に祈りを捧げた。どうか私にもご加護を。どうか私にもお力を。
しかしその願いは叶えられずにここまで来てしまった。父王に許可をもらい、城の兵士や、時には父自身に戦うすべを学ぶのが精一杯だった。父に言わせるとかなりのものらしいが、それでも《印》があったなら“迷い子”にはもっと効果的な力を持っていたはずだ。シレジアの兵隊はあいにくと、武器には精通していない。魔術師がほとんどだからである。
戦いの場に出たことはある。
シレジアは朱雀の者の島。“迷い子”に狙われやすい。
だから、直接“迷い子”と戦ったことはある。対応できた。――たしかに、そのときは。
それでもいまだに、自分の力が本当はどれほど通用するものなのか、ラナーニャは疑問視している。
深い吐息が、見つめる両手に落ちる。
すぐに叱咤が飛んできた。
「姫様。そのようなご様子では、お務めをまっとうできませんよ」
リーディナが厳しい顔で、ラナーニャを見つめていた。
ラナーニャはほのかに微笑む。リーディナの厳しさが好きだった。腫れ物に触るような他の人々とは違い、本音を言ってくれる。本音をぶつけられる。
「ああ、分かってるよ、リーディナ」
肩の力を抜き、背筋をぴんと伸ばした。
そしてつまらなそうな妹に向き直り、
「すまない。……お前の黒髪と黒い瞳、黒真珠のようで美しいと私は思うよ」
そのとき、クローディアは何かをつぶやいた。
何を言ったのか、ラナーニャには聞こえなかった。リーディナは末姫が唇を動かしたことにも気づかなかったようだ。だから自分の勘違いかと思い、ラナーニャは聞き返さなかった。
元よりこの妹との会話は苦手なのだ。そもそも会話をする機会が限られていた。食事さえこの妹と同じ場所では取らないから、日常の挨拶をすることも数少ない。今回が異例としかいいようがないくらいだから。
そんな関係なのに、気さくに声をかけてくれる妹のことが嬉しい。
……嬉しい一方で、妹の真っ直ぐな瞳は、ラナーニャにはまぶしすぎた。
しばらくして侍女が部屋にやってきて、神殿へ渡るための船の用意が出来たことを告げる。
「今行く」
ラナーニャは静かに息を吐く。
そして、切り替えるようにすっと歩き出した。この装束を着ているときだけは洗練された華やかな女性であるように。
(父上……)
あなたの御魂を送るために。