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月闇の扉  作者: 瑞原チヒロ
第一章 その日、青い光が飛んだ。
29/97

20 名前を呼びたい

 ――いつになったら、名前を呼んでと言えるのだろうか。



「いい夜になりそうねえ」


 窓から外を眺めて、セレンが心地よさそうな声でそう言った。


 島の夜は、穏やかだった昼と同じように柔らかく村を包んでいった。時間とともに変化していく景色をセレンと二人、部屋から見ていた一日。


 結局あれから、自分は部屋を出られなかった。昼食も夕食もこの部屋で――そして傍らの女性は、ずっと付き添ってくれていたのだ。


「今夜は眠れそう?」


 セレンはこちらの顔をのぞきこんで尋ねてくる。

 たぶん、と小さな声で答えた。


「そう」


 彼女は自身伸びをしながら、「きっと大丈夫よ。何たって今日は色々考えすぎて疲れたでしょう?」


「………」


 そうかもしれない。

 考えてみれば、自分が意識を取り戻したのは今朝だった。まだ一昼夜も経っていない。


 なのにすでに何日も滞在しているかのような、厚みと重みのある一日だった。ふとした瞬間に肩にのしかかってくる疲れは、怪我人だからという理由だけではない。


 昼間から夕方にかけて、階下にはたくさんの来訪者があったようだ。


 床からも窓からもその気配は感じられた。その度に、身がすくむ思いをした。自分が呼吸できる範囲がどんどん浸食されていくような、そんな圧迫感。


 自分はここにいていいのだろうか。


 絶えずそんな問いが頭の片隅にあった。だが、口に出すことはできなかった――言葉にできたところで、もはや家を飛び出す体力もなかったのだけれど。


「私も今夜はこの部屋で寝ようかな。このベッド、狭いけど女二人なら何とかなるわよね」


 セレンはそう言って、ぼふぼふとマットレスをはたく。

 え、とこちらが驚くよりも早く、「うんそうしよっと!」と彼女は軽やかに立ち上がった。そして、


「シグリィ様とマーサさんたちに言ってくるわねー」


 それだけ言ってひらりと身を翻し、部屋から出ていく。


 あまりの決断と行動の速さに、思わずぽかんと口を開けてしまった。


 一人残された部屋。空気にあの女性の纏う軽妙な気配だけが残っている気がして、体の奥がむずむずする。底のほうに隠れていた何かが頭をもたげているような。


 ――自分も、あんな風に動きたい。


(私は……どんな人間だったのだろう)


 ふとそんな思いが湧いて、うつむいた。


 手が無意識に、肩に届いていた髪に触れる。セレンはこの髪に触れたときに言わなかったが、この髪は不自然だった。毛先を見れば分かる――()()()()()()()なのだ。


 それも、ひどく乱暴に。


 不自然なものは他にもある。今はマーサに渡された衣類に包んでいるが、自分の体は傷が多かった。ドジを踏んだという類のものではない。


 この髪の意味は。

 この怪我の理由は。


 考えようとする度頭痛がする。完成させたくないパズルのピースがそこにもあるのだ。

 目を閉じて、深く息をする。


 それほど待つこともなくセレンは部屋に戻ってきた。


「お待たせ! 私もこの部屋で寝るわー!」


 言いながら飛びこんできた女性は、片腕に枕を抱えている。


「狭くっても平気よね。くっついて寝るのはきらい?」


 首をかしげる仕種でそう尋ねられて、微笑んで首を振った。ベッドはどう考えても二人寝るには狭かったが――何となく、嫌という気がしなかった。


「大丈夫か?」


 開きっぱなしの戸口からふと声がした。

 見やると、そこにはシグリィがいた。


「私とカミルは向かいの部屋だから。この部屋の両隣は、マーサさんとハヤナ、チェッタの部屋。何かあったらすぐ言うといい」


 昼以降彼は部屋に顔を見せなかった。こうして改めて姿を見ると、何だか落ちつかない気分になる。彼にもっと言いたいことがあったような。でも顔を合わせづらかったような。


「セレン、おしゃべりに興じすぎて夜更かしするなよ」


 はーい、と女性が返事をする。

 シグリィは機嫌のよさそうな自分の連れに苦笑してから、改めてこちらを見た。


 やさしい目だ。澄んだ夜空のように、清涼な色の。


「明日から、私たちは村の手伝いを始めるつもりだ。滞在を許してもらえるかは分からないが、できることはやらないとな」

「あ、ああ……」

「君はゆっくり休んで」


 ふと、昼間眼鏡の青年と相対したときに、ずっと自分の背中を支えてくれていた彼の手を思い出した。


「―――」


 こみあげてきたものに胸が詰まった。まだお礼も言っていない。ありがとう、ごめんなさい、違う、そうじゃなくて、


 ――名前――

 

 ()()()()()

 

 ――急に心がひんやりと冷えた。

 見たくなかったものが目の前に落ちてきたかのような、悪寒。


 口をつぐんでしまった自分を、シグリィもセレンも咎めなかった。


「おやすみ。また明日」


 少年はそう言った。


 彼がゆっくり戸を閉めるのを、ベッドの上から、ぎこちなく手を振って見送った。罪悪感。そんな名前の波が押し寄せてくる。


「私は……」


 つぶやいた。直後、セレンにちょんと鼻の頭をつつかれて。


「また明日、よ」


 ――また明日。


 泣くのをこらえて、うん、とうなずく。

 未来の約束をくれる彼らの優しさが、ただ嬉しかった。


 

***



 なんということもない、毎日の勉強のあとの休憩時間。

 貴女の淹れてくれた紅茶はいつも通りの味で、私の体を芯から温めてくれる。


 そしていつもの通り、貴女は今日も興味深い閑話で時間を弾ませた。


『名前、というものは。我が国ではとても大切なものです』


 ご存知かと思いますが。そう言って微笑みながら。


『我が国の風習――≪魂留(たまど)め≫も、名前が強い力を持つからこそ』


 そう言って、貴女はその髪をまとめた髪留めに手をやった。


 その髪留めは細いリボン状になっている。そしてそこに、貴女の名前が刺繍されているのを私も知っている。身につけるものひとつに名を刻む、この国の風習。


『我々の魂は、本来形のないものです。それが名づけられることによって初めて形になるのだと――その存在がこの世に在ることの証明になるのだと言います』


 私は首をかしげる。


 初めて聞く話ではない――少なくともこの国に、名前にこだわる人間が多いことは知っている。何と言っても父がそうだ。


 私を呼ぶとき、父はことさらはっきりとこの名を発音する。


 そして呼ばれる度、私は私という存在の輪郭をなぞって形をたしかめられているような、そんな奇妙な心地を覚える。


 それは普段ならとても嬉しいことだった。ともすれば自分がどこにいるのか分からなくなるような、虚ろな日々の中では。


 だがほんの時々、恐ろしくなる。――この名を呼ぶとき、父はいったい何を形作っているのだろうか。


『また、朱雀の術者の中には“名前”をもってして術を発展させる者もおります。ご存じの通り朱雀の具現術における詠唱――つまり言葉、声というものは、集中力を高めるため、また術を安定させるためにあるもの。発する言葉の意味が明確であればあるほど、形もまた明確になる。つまり術は発現しやすいのです』


 それは知っている。


 朱雀の具現術というものは、使うにあたって詠唱が必須なわけではない。詠唱したほうが成功率が高く効果も制御しやすいという、とても単純な話だ。呼吸を整えることや掛け声を上げることが、瞬間の集中力を高めるのと同じように。


 だから、決まった詠唱というものもない。術者本人にとってイメージがはっきりする言葉を紡げばいいのである。


 それが他人にとっては理解できないものであっても構わない。むしろ詠唱が分かりやすいと、これから何の術が発現するのか相手に伝わってしまうという弊害がある。

 ただし実際に術が発現するまでの、ほんの一拍のことだが。


『詠唱に名前を織りこむ場合、その名を持つ者が術の対象になります。名前を織りこまれると命中率が上がる。名前を呼ばれたら反応するのが人間。つまり相手は自分に術が向けられることを“おのずと認めてしまう”。そんな要素も重要です』


 一瞬、貴女の目が鋭く光る。


『――と、まあ何となくお分かりになるかと思いますので、これは深く考えることもありません』


 私は肩すかしをくらったような気分で貴女を見た。

 貴女は、楽しげに笑った。


『名前というものは記号の一種です。とにかくそれを指し示すための何か。確定するための何か。けれどこの記号は実に基準があいまいなものでもあります。例えば私たちはこのティーカップを間違いなく“ティーカップ”と思っていますが、別の国では別の呼び方をしているかもしれません』


 それはそうだ。私はうなずく。


 過去に一度、大陸全土を統一国家が支配しようとしたことがあった。その折に全地域共通言語が作られ、使用が強制された。だから現在、基本的には大陸のどこへ渡っても言葉は通じることになる。我が国は少し事情が特殊で、とにかく結果的に同じ言語を使うことになったのは間違いない。


 けれど、言葉は発展する。独自の言葉を編み出す部族もいるだろうし、逆に古代語を慈しみ伝える者もいるはずだ。


 このティーカップと同じように、と。貴女はテーブルに向けていた手をふいに己の胸に置いた。


『私の名前。ご存じですね?』


 当たり前だ。思わずそう言いかけて、ふいに背筋が凍った。今のティーカップの話と合わせて考えれば、この流れは――


 ふふ、と貴女は悪戯に微笑む。


『そう。姫様がご存じの名前が――私も常日頃名乗っているそれだけが、()()()()()()()()()()()()()ということです。姫様の知らない場所で、私は別の名前の人間かもしれない』


 私はひどく怯えた顔をしたことだろう。


 目の前の女性の全てを知っているつもりはない。けれど自分の知らない一面があると言われても、認めたくない自分がいる。


 貴女は私を安心させるように、表情をやわらげた。


『ものの例えですわ、姫様。私は間違いなく姫様のご存じの人間です。他に名前はございません』


 私がほっと目元を緩めるのをたしかめてから、『ただ』と言葉を続ける。


『名前もしょせんは、主観でしかないということ。絶対的とは言いがたい。そんな曖昧な力であっても――この世においては、とても強いということ』


 それを覚えていてほしいのです、と。

 私は眉をひそめた。そんな大切な話なら。


『――ええ、本来なら正式な学問の一部として姫様にお教えしなくてはならない分野です。ですが私はそうしたくなかった』


 なぜ。

 問うと、どこか遠くを見るような眼差しをして。


『……この国の価値観が絶対だと、思ってほしくないのです』


 ますます分からない。自分の表情が曇っていくのを、貴女はどんな思いで見たのだろう。


 貴女の視線はもう一度私の視線をとらえた。強く鮮やかな夕焼けの色。


『この国にも真理はございます。ですが間違いもある。(ただ)すべきものも』


 ふとその瞳に、物寂しげな光をよぎらせて。


 ――正と誤。あるいは、どちらともつかないもの。どんなものを目にすることとなっても。


『ご自分で選びとってほしいのです、姫様』


 いったいなんのこと


 問いたい。けれど喉につっかえて出てこない。代わりに唾を呑みこむと、今度こそ疑問は口に出せなくなる。


 貴女は静かに言った。


『間違った物の考え方のために、私はひとりになりました』


 伏せられた目。夕焼け色の瞳が陰るのが、私にはたまらなく寂しい。それは女神さまの色だ。この世で一番美しい空の色。


 私にも家族がいたのです。貴女は静かにそう言った。


『親と、血を分けた妹が……。けれど私は、妹の名を知りません。憶えていないのです――あまりに小さいころに別れてしまったから。親は妹だけを連れて、この国を出て行きました』


 心臓が凍りつくような心地がした。


 思えば長く共に過ごしてきた――親兄弟よりも長く。


 けれどその(とき)の中で、ただの一度も貴女の家族を見たことがなかった。城下町に親戚がいると聞いていたが、貴女は滅多にそこへ赴かなかった。ずっと城にいた。私の傍に。


 言葉が見つからない。そんな私を見て、貴女はくすっと笑った。少女のように。


『でも姫様。私は信じているのですよ。妹はきっとこの世のどこかで生きていると』


 ――だから夜ごと空を見る。


 この空を見上げる地のどこかに、妹がいる。“名前”などなくとも、妹の存在は絶対的なもの。

 そう語る貴女は夢見るように幸せそうで。


『名などなくても、いつか私は妹との道を繋いでみせます。ですから私にとっては名前などささいなことなのです。私には妹が()えているから』


 そう言って、にっこり笑った。


 胸に心地よい風が吹く。貴女と見知らぬ貴女の家族と、それが繋がる日が来ればいいと心から思った。


 けれどその風の中に、一筋だけ入り混じった凝り。いずれ私を置いて家族のもとへ行ってしまうのか、そう思ったから。


 言った。――私は、名を呼びたい。

 

『私は、お前の名が好きだよ。“―――”』


 そのときたしかに口にした、貴女の名前。

 貴女は軽く目を(みは)り、それから少し照れたように微笑んで、


『私も姫様のお名前が好きですよ。“―――”』


 滅多に呼んでくれない私の名前を呼んでくれた。



 名前など曖昧なもの。ささいなことだと貴女は言った。

 けれど自分はやはりこの国の子。呼ぶ声に安堵し、呼ばれぬことに怯える日々を過ごしすぎていて。


 ――いつも名前を、呼んでほしいと。


 そう思った。貴女にはついに言えなかったけれど。

 そうすることでしか、己の存在を確かめられなかったから。

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