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第三章(一)

 花暖は幸いにも誘拐犯に取り上げられなかった小さなショルダーバッグから、小さな手鏡を取り出すと鏡に自分の顔を映した。窓を背にしていたので朝日が反射して眩しい。体の向きを少し変えた。 そして、おもむろに口を大きく開けると、舌を前に差し出し、ぐるぐる回したり、舌先を尖らせたり、また、口の中で舌全体をV字型に折り曲げ、船のような形を作っている。

『私、こんな時に何やってんだろ。馬鹿みたい』鏡に映った自分の顔を見ながら呆れた。確かに、他人から見たら、滑稽以外の何ものでもない。しかし花暖にとっては大切な日課の一つだ。

 舌のストレッチ。音を作り出すのは、声帯だが、声、そして言葉を生み出すのは、口の中だ。そして、取り分けて重要なのは舌である。舌の動き一つで、発音が左右される。また、外国のオペラ歌手のような、巨大な肉体を持たない花暖が、劇場の隅々に至るまで響き渡る声を出すためには、舌を十分に凹ませ、口の中に大きな空間を作り出し、その空間で声を共鳴させる必要がある。花暖にとっては呼吸法よりも大切な日課なのだ。

「Ma、Me、Mi、Mo、Mu………」

 一通り、舌のストレッチが終わると、発声練習に入った。発声は全て、イタリア語の発音で行う。イタリア語は、母音と子音を同じように発音する音韻特質を持っているため、発声練習に向いているのだ。また、オペラはイタリアの楽曲も多く、花暖もイタリア語で歌う機会が多々ある。

「Come stai,signorina」

 振り向くと、レオが立っていた。

「Benissimo,grazie」花暖も同じように応える。「ごめんなさい。起こしちゃいました」

「いや。おかげで、気持ち良く目が覚めたよ。天使の声で起こされるなんて、めったにないからね」

「馬鹿みたいですね、殺されるかも知れないのに」

「それで良い。希望をつなげていれば、いつか道は開けるよ。俺が言えた義理じゃないけどね」

「レオさんて、イタリア語が上手なんですね」

「祖父さんが、移民でね。でもちょっとだけさ」

「そうでもない」ハリーの声がした。「あの、怪しげな日本語に比べたら、格段に上手い。少なくとも、言ってる意味が理解出来る」「今頃、お目覚めかい。こんな時によく眠れるな」

「貴様程、呑気ではないがな。いびきがドアの外まで、聞こえていたぞ」

 夕べは、あまり寝つけずに、夜中に何度も目が覚めた。その時に、ドアの外で人の気配がしていた。囁く声も聞こえていた。恐らく、二人が交代で、一晩中、花暖の寝室の前で、見張りをしていてくれたのだろう。

「それにしても、腹が減ったな」レオが入口まで行きドアをどんどん叩く。「おーい、朝食の時間だぜ。人質飢死させちまったら、てめぇらのボスにどやされるぞ」

 花暖たちは、非常に大事に扱われている。夕べの食事も、レトルト食品なのだろうが、ステーキにスープ、サラダ付きといった、いたせりつくせりの待遇だ。デザートなども添えてあった。

 やはり、レオやハリーの言うように、花暖に危害を加える気は無いらしい。昨日は、かなり悲観的だった花暖の気持ちも、徐々に落ち着いて、ひょっとしたら、帰してもらえるという希望が湧いてきた。

 レオの催促に、誘拐犯が朝食を持って現れた。

「ほら、今朝の餌だ。有難く食え」

 テーブルに、叩きつけるように食事を置くと、犯人は出て行った。 犯人の粗暴な態度とは違い、テーブルの上には、小さなクロワッサンとミルク、それに果物が添えてある、花暖の好みに合わせたような、可愛い食事だった。

「おーい。俺、パンよりビールの方がいいんだけどな」

 レオが叫んだが、当然の如く、無視された。

 食事が終わった頃、部屋のドアが開いた。入って来たのは、昨日、花暖たちを、この部屋まで案内した男だ。ドアの外には仲間が銃を持って待機している。

「餌の時間は終わりだ。ボスがお姫様に話しがあるそうだ。さっさと、用意しな」

「断る」レオがきっぱりと言い切った。「用があるなら、ボスにここまで来いって伝えろ。お姫様を呼びつけるなんて何様のつもりだ」

「お前たちこそ、立場がわかっていないようだな。その気になれば、天国でコンサートを開かせる事も出来るんだぞ」

「やってみな。後悔するぜ」

 レオは勝算があるのか、強気だ。花暖は怖くてどうして良いのかわからない。

 二人はしばらく睨み合ったままだった。

「とにかく、彼女一人をやるわけにはいかない」沈黙を破ったのはハリーだ。「我々も同行する。でなければここを動かない」

「いいだろう」ややあって、犯人が言った。「ただし一人だけだ。そっちのでかいのが来な。てめぇは危なくてしょうがねえからな」

 花暖はハリーに誘われて、席を立った。危害が加えられる可能性が低い事と、ハリーが一緒だという安心感から犯人たちのボスに、会う覚悟が出来た。


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