はみパンブルマ
私、橘高恵子は若宮芳樹にバレンタインチョコをあげたことがある。小学校四年生の時だ。
今でも言われる。「橘高さんって若宮にチョコあげたんだって?」
うるさい。
昔のことだ。まだ小学四年生だったんだ。あいつがあんなに情けない奴だなんて知らなかったんだ。その時はちょっと顔立ちが整ってて、男子にしては髪がやわらかそうで、少女漫画に出てくる男の子とまではいかないけど、ちょっといいなって、思ったんだ。
「橘高さんって若宮にチョコあげたんだって?」
そんなわけないじゃん。
「だよねー。だって若宮ってさあ」
そう、だってあいつは…
中学校に入学して最初の五月、ゴールデンウィークが明けて少し経った頃、野外学習が行われた。野外学習というと楽しそうな響きだが、全然楽しい内容ではないらしい。ひたすら行進をやらされたり、校歌を歌わされたりするだけの内容だと、同じ学校を卒業した姉から聞いていた。おまけに、会場となる公園は学校から五キロの距離にあり、新入生達はそこまでジョギングで移動させられると聞いて、私の心は落ち込むばかりだった。
実際に当日になってみると、姉から聞いていたよりも、更にうんざりする内容であることが分かった。快晴の空の元、校庭に整列させられた私たちは、校外に出る前にジョギングの練習をさせられた。クラスずつ、男女二列になって「○○中~、ファイ・オ・ファイ・オ」と掛け声をあげながら走らされる。声の小さい組は何度もやり直しをさせられた。学校を出てからは更に最悪で、私たちは体操服姿で公園まで走らされたのだ。小学生の時の短パンのような濃紺ブルマとは違う、カットの深い赤いブルマー。この慣れない代物に私は恥じらい、苛立ち、悲しんでいた。周りの子もやけくそになって「ファイ・オ・ファイ・オ」と叫んでいた。
汗だくになって公園に到着すると休む暇もなく行進練習がはじまった。何回も何回も行進をさせられ、体育教師から「声が出ていない」「腕の振り方が低い」「足がそろっていない」と怒鳴られた。体育教師は時に個人を特定して注意をした。私たち新入生にとって体の大きい体育教師に名前を呼ばれて怒られることは恐ろしいことで、そうならないよう、みんな一生懸命行進をしているようだった。
その後は校歌練習だった。まだうろ覚えの校歌を何回も、何回も歌わされ、とにかく声が小さい声が小さいと怒鳴られた。
それはお昼が近づいた頃だった。もう何度目になろうかという校歌を歌い終わった時、前で腕組みをしていた体育教師が言った。
「そこのお前、立て!前に出ろ。」
新入生の間に緊張が走った。
「お前だ!」
体育教師は生徒の列の中をズカズカ進むと
「若宮!」と指を指して言った。
私はドキっとした。若宮とは若宮芳樹だろうか。四年生の時のクラスメイトの、私がバレンタインデーチョコをあげた、若宮芳樹だろうか。中学で再び同じクラスになった、若宮芳樹だろうか。
「前に来い!他の者は座れ!」
皆が体操座りをするとその男子生徒が前に引っ張り出されるところだった。私は息を呑んだ。その男子生徒はやはり若宮芳樹だった。
「お前はさっきからふらふらして歌う気あるのか」
体育教師が静かな、ドスの効いた声で言った。
「はい」
そう答えた若宮の声は震えていた。
彼は泣いてしまっていた。
彼の目から、涙が数粒、頬を転がり落ちた。
私の胸の中がきゅっと苦くなった。
若宮、泣いてるの?
そりゃあ怖いよ。だけど…男子だよね。
中学生だよね!
泣かないでよ!
「何だお前、泣いてんのか」
満足そうな様子で体育教師は言った。
「怒られて泣くぐらいならしゃきっと立って歌えばいいんだ、そうだよな?」
若宮は涙を拭った。
「返事しろ!!」
体育教師が怒鳴って体育座りの私たちはびくっとした。
若宮の体もびくっと跳ねた。
と、
「ああ…」
若宮が声を出した。
若宮の短パンの裾から水滴が滴り落ちたと思うと、一気に水滴は流れを強め、ぱしゃぱしゃと若宮の足元へ降り注いだ。白い短パンの前の部分には大きなシミがじわっと広がり、短パンも、白いハイソックスも濡れて色を変えていく。
若宮は両手で顔を覆った。
若宮がおしっこをもらした。
若宮はしゃくりあげながら、同伴の女性教師に連れられて公園トイレへ向かった。
私の頭のなかは真っ白だった。
若宮がおもらしした…
中学生にもなって、若宮がおしっこを漏らした…
先生に怒られて、おもらしだなんて…
私がチョコ渡した男子がみんなの前でおもらし…
泣きながら…
私…なんで若宮なんかに…
おもらしするような奴に…チョコなんかあげたんだろう…
若宮は少ししてから戻ってきた。列に戻った若宮は、ブルマを履いていた。女子が履く赤いブルマ。顔は真っ赤になって、その後続いた校歌練習では何度も涙をぬぐいながら歌っていた。後から他の女子が話していたのは、外出先で、女の先生は女子が生理になった時のために女子の着替えだけ持ってきていたんだろうということだった。
学校への帰り道もジョギングだった。若宮は赤いブルマで、なるべく目立たないように背中を丸めて走っていたが、男子の列に、一人だけ赤いブルマを履いたその姿はどうやっても目立ってしまう。すれ違った後、はっと振り返る人もいた。
若宮は私の少し前を走っていた。彼のすぐ後ろを走る男子と、その隣の女子が笑いをこらえながら何かを後ろの私たちに伝えようとしていた。彼らは若宮のお尻を指さした。
若宮のブルマから、白い下着がはみ出していた。
「橘高さんって若宮にチョコあげたんだって?」
そうだよ。
「え、本当なの?なんで?」
だってあいつは…
「だって若宮ってさあ…」
おもらしして
泣いて
ブルマはかされて
はみパンしてた
情けない奴だけど
またチョコあげなきゃなって
思ったんだ。