思想の流産
●淡々とした調子で解剖所見を読む医師。羊水の垂れる果てに尖った思想で意識を刺すのはやめて。無情に流れるぼんやりとした不安。揺れる霞の煩わしさ、金槌の平たいところ、静々と鳴る卑金属の欠片。目覚めるのはいつか。投げ捨ててしまえば楽になるのか。埋もれていく煉瓦に遠き日々を憂う。魔法にかかった幼い子供、黄金色の夕暮れに何を望むか。護ることもできぬ薔薇の香り。足を縛る概念たちの生きられない時代、雨の降る国に向けて。心の眠る先へ、そして星屑。純血の沈黙あるいは善悪の濁流。
●心臓に施した手術を気にする医師。辛うじて把握できる最低限の、次の日の死刑。集えない奴らに覆う蒼穹。どこまでも渇く舌で満足できる偽善。どこまでも濁る水晶体。何んにもない存在は四足動物ように捕食する。鼻腔の奥の蓄膿症が取れない。昏い紅蓮の光、けたたましい喊声、私の総体を殺しにかかる。一茎の追憶だけが流れていくようだ。もののけを探る無能な工作員、彼の厳格な夢の検閲、孤独に震える幼年期を見る。境界線の絶え間ない循環運動あるいは窓から眺める遥か遠い給水塔。
●瀕死の赤ん坊に咳き込んだ医師。喉にいつまで精液を詰め込むのか。頭上の落下にご注意を。いつのまにか肺細胞で呼吸できなくなる。深甚から紡げない言葉と地獄へ送られる意味、その墓場はわれわれの死亡現場。記憶をいくつも圧搾へ。俯くだけが人の現実。空で眩めく寂光がもはや光っていない。ねえ泣いていますか、もはや潜れなくなる夜。螢火は無意識界まで燃え広がって、やがて禁忌へ届いてしまう。恐怖閾、虚無の儀式、神の自殺。愛って何。万能の睡眠薬あるいは収縮していく呼吸音。
●堕胎するだけが専門の医師。切断すべき葛藤の芽、複合音がもう聞こえない鼓膜。翳りが中空で白濁していく。とくとくと雨が貫く。ただ許していけるか。極端に隔たりは見える。傷口にできた牆壁は残酷にまでとり繕う。何を摑めばいいのかわからない。手の先が痺れていく感覚を忘れないで。死線を越えたことだけが唯一の安息。命の重さは貪欲さの現れ。銃を構えたところで無駄になるだけ。引きずった屍体の残骸。豚を食うみたいに扱われる命。無実の罪人あるいは誕生から纏っている奇妙な鎧。
●表層で想像だけしている重く肥った医師。強く啜ってみないと理解ができない全暗闇。迷い込んだ自らの欲望。愛すべき自我不可解性、身も心も蕩けて崇拝しなさい。極上の蜜を毎食頂いて、今日明日も求める。全てを胡乱な眼で浮かべて脊椎を痛めるのだ。胃袋が裂けていく痛み、飢餓の天国を知る由もない。唾液の卍を切ることもない人生。成熟を早めるだけでは死を迎えるのと同じ。もう怖くないよ、そんなことをお願いだから言わないで。地下の自らの実験場で放った弁解あるいは幸福の機械。
●荒廃した胸を聴診する医師。平穏に流産されゆく私の精神。記憶の塋域、その固着。脳の棘波は何を象徴しているのかわからない。そういえば喚いだことがない。妊娠痙攣を発症する者たちへ、この分析法を捧げる。特殊な条件下の予測結果はまだ利用できる。今は傍流のやり方がいい。隠され、防衛されるまま受け入れる。途切れた意識の合間に存在する抵抗の物語。重要なのは死んでもいいから体験すること。殲滅された自由連想あるいは古い宝石箱の中身。
●専門知識すら常識すら有していない医師。他人の優しさが毒々しい色をしている。洞窟に入れば食い千切られることはわかる。なんて単純な季節の連環。平然としていられない自分が歯がゆい。愛想笑いばかりしている。悪夢化する自分の精神。蓋をしなければ永遠に反芻されゆく文字列。独自の論理の綴じ目がほどける。重篤な思想に安全弁を設ける。宿として終の棲家として病院。あれが百鬼夜行だよ。汚い人間の心だよ。溢れていく偽善病あるいは感じている自分の感情破壊。
●白痴の少女を何とか救おうとする医師。眠れる魂、水銀の揺れる舞台。横たわる死体を食んで、眼球譚へ。あの頃の孤独を思い出すの。血を飲んで血を吐いて、血を吸って。一千一の夜と死。橋の崩れる夢を見た。底のない現実は鬼を殺せない。深い闇は自分の影。叶わぬ願いは星へ消える。淫らなこの肉体を誰か切り刻んで、頭の中が痛い。月に一回、犯される。擦り硝子の向こうの出産光景。無月経の家畜あるいは生きていくということは永遠の生理痛であること。
●不在の医師。繋がりあえない。遠くにある土のふるさとの、首の上からの消滅。愛なんてしょせん深い自殺。心中した路上の若者の死体、それを食う犬。老いさらばえた神さえもはや知っているこの不在。前世で死んでこなければよかった。そんな思想も流されて、輪廻をひたすら俟つ。這いつくばって重力を感じる。墓に始まり世界に終わる。虚滅に進み塞ぎこむ他界王。ただひたすらに痒い。逆さにした砂時計もしくはゆらゆらすべては思想の流産へ。