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奇豆  作者: tethqr
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奇豆

灰色の電信柱に灰色の石塀、音もなく燃え盛る太陽が黙々と肌を焦がしている。家まであと5分はかかろうか。私は彼女と横並びになって歩を進める。優里という。先程私と一緒に今期最後のテストを片付けた彼女は、いつも以上のテンションで飛んだり跳ねたり、私の髪をくしゃくしゃしたりして夏休みの予定をどうしようかとしきりに聞いてくる。正直私は優里と一緒であれば何だっていいし、今こうして一緒に歩いているだけでも十分満足なので適当にあしらっている。すると

「興味なさげ?なんで?今日から大学休みだから?だーい好きな溝山先生に会えなくなっちゃうからー?」

などと言ってくる。溝山というのは数学の講義を担当していた助教授である。おっさんである。ハゲである。話し始める際には決まって”んーぬっ♡”と謎のアクセントを入れる。当然溝山に好意などあるはずもないが、影で頻繁にネタにしていたためにある意味では大好きといえなくもない。

「そうだねぇ。寂しいねぇ」と答えると、彼女は私の右腕に絡みつく。

「ねぇーどこ行くのー夏休みー。夏休みー」


 そうこうしているうちに、私の住むアパートの前まで来た。私の部屋は二階である。エントランスに入り階段を登ろうとすると、その三段目あたりに豆が1つ、落ちていた。大豆かと思われる。白色小粒の節分などでみられるようなものだ。ただその豆はつやつやとした質感をもっており、通常の豆にみられるような芽やら根やらの根源となるであろうでこぼことした部分がパッと見たところではあるが認められず、少し奇妙に思われた。その物質は無機物のような印象を与えたが、同時に過剰な有機性を持った物質とも形容できた。生の大豆とはこういうものなのだろうか。最近引っ越してきた隣の女性の落し物なのだろうと、根拠もなく勝手な見当をつけてみた。

 一週間前に引っ越してきたその女性は淡白い肌にロングの黒髪で、伏し目がちに顔をうつむけていることがしばしばではあるが、こちら側から挨拶した時には表情豊かに対応してくれる。喋り言葉もゆったりとしていて、まさにお嬢様といった印象を与えた。白やエスニックのロングスカートを好んで履いていたが、それが意味もなく私に家庭的な印象を与えた。特にその「エスニック」と「大豆」というのが多分私の中で深くリンクしたのだろうと思う。そうでなければ単純に、その女性が私の中では高い地位を示していたために、つい理由なく想起してしまっただけなのかもしれない。優里に聞かれたらドロップキックでもされるのだろうが、その女性は私が今まで見てきたどの人間よりも美しかったのである。魂を奪われるという形容がこれほどまでにふさわしい女性はおそらくいないだろうと思う。


 私の部屋でひとしきりイチャイチャし終わると、時刻はもう夕方6時を回っていた。ディナープランを相談した結果、優里がハンバーグを作ってくれるというので、一緒に近所のスーパーまで買い物へ行く。帰り道、アパートの階段を登る際になんとなく目を落としてみたが、例の大豆はそこにはなかった。人や猫の往来の多いところではあるので、当たり前といえば当たり前かもしれない。あのとき持ち帰ってじっくり観察しておけばよかったと少し後悔したが、そんな気持ちはものの数分であった。

 優里がハンバーグをこしらえてくれる間、私はベッドに寝転んで暇を潰すこととなった。優里は自分の作業が邪魔されるのを嫌うため、映画やドラマみたいに台所でいちゃつくなんて事は許してくれないのである。小説を片手に、ベッドの上に寝転んで所在なく視線をコロコロと転がして家の中を這わせる。優里は後ろ姿も可愛い。するとその足元に、キラキラと光るものがあった。近づいて手にとってみると、例の豆であった。念の為に優里のものかどうか聞いてみたが、当然答えはNO。私の邪魔をせんといてとばかりに、外国人顔負けのキッパリとしたNOを頂いた。

 なるほど、見れば見るほどに初めの印象が肯定されていく。この世のものとは思えないつるつるとした質感。鈍い弾力と本質的な硬さを併せ持ち、豆とは似ても似つかぬ継ぎ目なき完全な楕円を形成している。。そして見れば見るほど魂を削られていくような、筆舌しがたき不快感。現実というものの価値など脆く儚いものだと言わんばかりに、この世界に対する疑心暗鬼を惜しみなく私の心のなかに産み落としていくような、不愉快極まる非現実性。私の中ではこの奇異なものを保存したいという少年の心と、不愉快なものをそばに置きたくないという母親の心とがしばらく対立していた。優里がハンバーグの完成間近を告げながらトコトコと台所から戻ってきた時、しかし私はその大豆を窓の外へ放り投げていた。


 一度生じた疑心暗鬼の念は消えなかった。晩飯へ向けて食器などを用意している間にも、根拠なき違和感が湧いては消え、また湧いては消えた。私はこれが徒労に終わる事を願ってやまなかったが、しかし何かに怯えるように、私は注意深く辺りを観察し続けた。晩飯を終えて優里といちゃついている間にもそれは続いていたが、ベッドの下についにそれは居た。そこにはまるで虫の卵のように、先ほど捨てたはずの大豆が、きらびやかに、壁一面に無数に張り付いていたのである。先程より何万倍にも濃縮された異次元性が、私の裸の心をぐちゃぐちゃに切り刻む。私の心は一瞬にして崩壊寸前まで突き落とされてしまった。咄嗟に優里を抱きしめて目線を逸らし、同時に精神の平穏を望んだ。優里は私の尋常でない様子にあっけに取られていたようだったが、私は何も喋らずに無我夢中で優里にうずくまった。10分間ほどその状態を維持することで、ようやく結論を固めることができた。この部屋から一刻も早く出なければならない。ホールドを一旦解き、恐怖を抑え切れない震えた声でベッドの下を見るよう優里に促した。


「なにもないよ?」

彼女は訝しげだった。

そんなはずはない。だが現実を拒否する体を無理やり動かして再度ベッドの下を覗いてみると、そこにはただ埃が薄暗く転がるばかりであった。

「大丈夫?汗がすごいよ?」

身を案じる問い掛けに対しても私は何もできず、ただただ彼女のぬくもりに身をゆだねた。


 その夜、私は母親に甘える子供のように、優里の腹に顔をうずめながら眠った。ともすれば発狂しそうな危うい精神状態の中、私は彼女の体温に依存することでかろうじて正気を保っていた。


 目が覚めた時、部屋は完全な闇に包まれていた。

車の走行音が時折鳴り響く。

彼女の吐息を当てに手を伸ばし、その顔を両手で撫でた。

「ううう 怖いよぉ」

私は平時の状態からは考えられないような弱々しい声を吐いた。

再び静寂が辺りを支配した。

車の走行音も先程から途切れていた。

私は彼女の片手を、まるで自分とこの世とを繋ぐ唯一のものであるかのように、ひたすら大事に握りしめていた。

キーーンと耳鳴りが鳴る。

私の吐息は自然と荒くなっていった。



ニチャッとした、舌なめずりの音がする。



「高橋くぅん」


唐突に聞こえたその声に対して、心臓は深く大きく早くバクバクと脈打ち、全身の筋肉は硬直した。

人のぬくもりのある、はっきりとした声だった。

血の気が完全に引いている。

私の名を呼ぶ声は、呼称、声、喋り方、どれをとっても優里のものに相違なかった。

しかし声のする方向が全く逆である。

優里は私に向かい合った形で、つまり私の正面にいる。にもかかわらず、声は私の後ろから。


「ねぇ高橋くぅん」


私は力の限り目をつぶった。


「高橋くぅん。高橋くぅん。高橋くぅん。ねぇねぇねぇねぇねぇ高橋くぅん」


首筋に冷たい液体のようなものがたらされると、それは脊髄を通って私の腹の中まで入ってくる。


私は狂った。目を開いた。真っ暗であった。私の目の前に、優里はいなかった。声のある方を振り向くと、青白い生首が転がっていた。その暗さ故に目や口の部分には闇が張られていた。それは微動だにせず、

「高橋くぅん。うぅうぅぅぅぅぅぅぅんんねぇうぅぅぅぅん」

と優里の声を発していた。


私の左腕に冷たく絡みつくものがあった。咄嗟に飛び出たひゃあという叫び声は、消え入りそうなほどに小さく、老人のようにかすれていた。

腰も抜けて全身に力が入らなかったが、私は体を全体をゆらゆらと揺らし、とりあえずこの悪夢のベッドから転げ落ちようと試みた。

その時、体全体が大きな液体のようなものに覆われていることに気付いた。体を揺らすたびに応力を受けるのである。

それでも私は体を振り続けた。狂いながら、張り裂けそうな心臓に身を任せながら。


「高橋くぅぅぅあああああアアアアアアアアアア!!」


ベッドからゴロンと落ちると同時に生首は強烈な声を吐き出した。

震える手で体を支え、四つん這いになろうと思ったが、手が床にめり込む。

目の前には先程の生首が3つあった。

どれもが高橋君と呼び続けている。

後ろでゴロンと何かが落ちる音がした。振り返る余裕もないが、直後、背中にズシリとした何かが落とされた。それもまた言葉を発する。「高橋くぅん」と。

更に目の前にも2つの生首が立て続けにポトリ、ポトリと落ちてくる。

ある生首は「アアアアアア」と叫び、また別の生首は私の名前を呼ぶ。

床から更に冷たい手が伸びて、私の腹をがしりと抱く。

冷たい液体が喉から入る。みるみるうちにそれは指の先まで行き渡り、私の体温は完全になくなってしまった。

触覚もなく、焦点の定まらない両目はもはや使い物にはならない。

発狂も頂点に達すると、私は無我夢中で体をグネグネと動かした。

ここから出たい。逃げなければ死んでしまう。嫌だ。死にたくない。

私を囲む液体が、運動を阻害する。

ふと、何かが頭に当たる。

テーブルの足だ。

テーブルは硬い。

私はそこに頭をぶつけた。

何度も何度もぶつけた。

気づけば私の周りはあの生首だらけになっている。体温を持たぬ生首は、すでに私の麻痺した聴覚には聞こえない声を投げかける。

私は何かを叫んだ。当然自分の耳では何を言ったのかわからない。とにかく大きい声をとの望みを込めて。


その時、空から再び何かが降ってきた。それもまた冷たいものであったが、顔にべチャリと張り付いた。

それは聞こえるはずのない私の聴覚にメリメリメリという音を鳴らすと、私の顔を上顎と下顎の境から2つに引き裂いた。

ふと、体の重心がやたらと高い位置、すなわち胸のあたりにあることに気付いた。

その時になって、私は下半身の喪失を初めて知ったのだった。

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