あなたの寿命、メルカリで売れます
「あなたの寿命、売ってみませんか?」
最初にその広告を見たとき、俺は鼻で笑った。
午前二時十三分。
六畳一間のアパート。
テーブルの上には、コンビニで買った半額の弁当と、支払い期限の過ぎた電気料金の督促状。
スマホの残高アプリには、二万三千八百四十一円。
給料日までは、あと十二日。
笑えるくらい、金がなかった。
二十八歳。
彼女なし。
貯金なし。
夢もなし。
あるのは奨学金と、親父が残した借金だけだった。
そんな俺のスマホに表示された広告が、それだった。
《LIFE MARKET》
《1年=100万円から》
《あなたの不要な寿命を、必要としている誰かへ》
怪しい。
怪しすぎる。
宗教か、詐欺か、個人情報を抜くためのアプリだと思った。
なのに俺は、広告を閉じなかった。
「一年で……百万円?」
声に出していた。
たった一年。
八十歳まで生きる人間なら、七十九歳までになるだけだ。
誤差みたいなものじゃないか。
俺は広告をタップした。
真っ黒な画面に、白い文字だけが浮かんだ。
《LIFE MARKETへようこそ》
《当サービスでは、お客様の残存寿命を商品として販売できます》
《販売された寿命は、購入者へ譲渡されます》
《一度成立した取引を取り消すことはできません》
一番下に、
《あなたの残存寿命を測定しますか?》
というボタンがあった。
俺は迷った。
三秒くらい。
それから押した。
スマホのカメラが起動した。
《顔を画面中央に合わせてください》
言われた通りにする。
赤い光が顔をなぞった。
《測定中……》
《測定中……》
《測定完了》
そして。
画面に大きく数字が出た。
《残存寿命 53年 4か月 18日》
思わず笑った。
「長ぇな」
二十八歳の俺に、あと五十三年。
八十一歳まで生きる計算になる。
十分だ。
俺は試しに「1年」を販売してみた。
希望価格。
100万円。
出品ボタンを押す。
《出品しました》
もちろん、売れるわけがないと思っていた。
ところが。
三秒後。
ピロン。
《購入されました》
「……は?」
購入者名は非公開。
その直後。
銀行アプリから通知が来た。
《入金 ¥1,000,000》
俺は何度も数字を確認した。
百万円。
本物だった。
残高が、
23,841円から、
1,023,841円になっている。
手が震えた。
アプリを開き直す。
残存寿命。
《52年 4か月 18日》
本当に一年減っていた。
だけど。
何も感じない。
痛くもない。
苦しくもない。
身体も昨日までと同じ。
なのに口座には百万円。
「……マジかよ」
その夜、俺は眠れなかった。
百万円あれば、滞納している家賃を払える。
カードローンも返せる。
壊れかけた冷蔵庫だって買い替えられる。
たった一年で。
翌日。
俺は仕事帰りに寿司を食った。
回っていない寿司だ。
一貫六百円の中トロを注文するとき、手が震えた。
でも途中から楽しくなった。
値段を見ないで注文した。
帰りに服を買った。
靴も買った。
十万円近く使った。
それでも九十万円ある。
生まれて初めて、
「金がある」
という感覚を知った。
その夜。
俺はまたLIFE MARKETを開いた。
《残存寿命 52年 4か月 17日》
売却ボタン。
指が止まる。
一年だけ。
もう一年だけなら。
八十歳が七十九歳になるくらいのものだ。
《販売寿命 1年》
《希望価格 ¥1,000,000》
出品。
三秒。
ピロン。
《購入されました》
そして百万円が振り込まれた。
二百万。
俺は笑った。
翌月。
さらに三年売った。
三百万円。
合計五年。
残存寿命は四十八年。
まだ七十六歳まで生きられる。
十分だ。
借金を全部返した。
家具を買った。
車を買った。
会社も辞めた。
SNSで見つけた投資話にも金を入れた。
最初はうまくいった。
百万円が百三十万円になった。
二百万円が二百八十万円になった。
俺は思った。
これなら寿命を金に変えて、その金を増やせる。
死ぬまで働く必要なんてない。
そして半年後。
俺はさらに五年を売った。
合計十年。
一千万円。
残存寿命。
《43年 10か月 2日》
俺は二十八歳だから、
七十二歳くらいまで生きる。
十分だ。
今の男の平均寿命なんて八十歳前後だろう。
七十二まで生きられれば上出来だ。
そう思った。
人生は長さじゃない。
太さだ。
俺はそう自分に言い聞かせた。
その頃から、LIFE MARKETには新しい機能が追加されていた。
《取引履歴》
今まで自分の寿命を購入した相手を確認できるらしい。
もちろん個人情報保護のため、多くは匿名になっている。
なんとなく開いてみた。
一件目。
《購入者:非公開》
二件目。
《購入者:非公開》
三件目。
《購入者:非公開》
そして。
最後の五年間。
《購入者:佐伯悠斗》
心臓が跳ねた。
「……は?」
佐伯悠斗。
俺の名前だ。
何度見ても間違いない。
佐伯悠斗。
購入日。
半年後の日付になっている。
2027年3月12日。
現在は2026年9月。
未来の日付。
意味が分からなかった。
アプリのバグだと思った。
問い合わせフォームから送信する。
《購入者欄に自分の名前が表示されています。また購入日が未来になっています》
返信は一分で来た。
《正常な表示です》
それだけ。
俺はもう一度送った。
《どういう意味ですか?》
《購入者本人へお問い合わせください》
「俺だよ!」
思わず叫んだ。
数秒後。
スマホが震えた。
知らない番号。
SMS。
《今は売るな》
息が止まった。
続けて届く。
《頼む》
《もう寿命を売るな》
誰だ?
俺は返信した。
《誰?》
すぐ返ってきた。
《佐伯悠斗》
背中に冷たいものが流れた。
ふざけている。
そう思った。
《俺も佐伯悠斗だけど》
《知ってる》
《何歳?》
少し間があった。
《38》
十年後。
俺は電話をかけた。
繋がらない。
SMSだけ。
《電話は無理》
《なんで俺の寿命を買った?》
返事が来なくなった。
一時間。
二時間。
俺はスマホを握ったまま待った。
午前四時。
ようやく通知が来た。
《死にたくないから》
それだけだった。
俺は笑った。
乾いた笑いだった。
《38歳で死ぬってこと?》
返事。
《そう》
《でも俺の残り寿命43年って出てる》
《それは最初の寿命》
《どういう意味だ》
《寿命は変わる》
《事故や病気もある》
《お前は38歳で死ぬ》
指が止まった。
あと十年。
冗談だ。
アプリが仕組んだ悪質な演出だ。
そう思いたかった。
《死因は?》
返事はなかった。
翌日。
俺はLIFE MARKETを削除した。
もう使わない。
寿命なんて売らない。
そう決めた。
それから一年。
俺の生活は変わった。
会社には戻らなかった。
残った金を使って小さなネットショップを始めた。
意外とうまくいった。
三十歳になる頃には、年収は以前の三倍になっていた。
恋人もできた。
美咲。
大学時代の同級生だった。
偶然再会して、付き合い始めた。
三十二歳で結婚した。
三十四歳で娘が生まれた。
名前は凛。
人生で初めて、
長生きしたい、
と思った。
娘が歩くところを見たい。
小学校に行くところを見たい。
成人するところを見たい。
結婚するところまで見られたら。
八十歳まで生きたい。
いや。
九十歳でもいい。
もっと。
もっと生きたい。
だからあのアプリのことは忘れた。
忘れたつもりだった。
三十七歳。
誕生日の夜。
十年ぶりにスマホが鳴った。
知らないアプリからの通知。
《LIFE MARKET》
削除したはずだった。
画面には一文。
《購入可能な商品があります》
嫌な汗が出た。
開く。
商品。
《寿命 5年》
販売者。
《佐伯悠斗 28歳》
価格。
《¥5,000,000》
十年前の俺が売った五年だった。
その瞬間。
全部理解した。
あのとき。
俺の寿命を買っていたのは、
未来の俺だった。
俺は自分の寿命を、自分に売っていた。
《購入しますか?》
俺は震える指で押した。
500万円が口座から消える。
そして。
残存寿命。
《5年 0か月 0日》
五年。
俺は四十二歳まで生きられる。
助かった。
そう思った。
ところが翌年。
三十八歳の誕生日。
病院で癌が見つかった。
膵臓癌。
ステージ4。
医師は静かに言った。
「治療しない場合、半年程度でしょう」
目の前が真っ暗になった。
俺はトイレに駆け込んだ。
LIFE MARKETを開く。
残存寿命。
《0年 5か月 23日》
五年じゃない。
癌によって書き換わっている。
未来の俺から送られてきた言葉が蘇った。
《寿命は変わる》
《事故や病気もある》
《お前は38歳で死ぬ》
つまり。
あの五年を買ったところで、
病気そのものは消えない。
俺は震えながらマーケットを検索した。
寿命。
寿命。
寿命。
誰か売ってくれ。
十年でも二十年でもいい。
金ならある。
会社を売れば数億になる。
娘のためなら全部払う。
検索結果。
《販売中の商品はありません》
「嘘だろ……」
何度更新しても同じ。
すると通知が出た。
《あなたへの限定商品があります》
販売者。
《佐伯悠斗 28歳》
商品。
《寿命 5年》
価格。
500万円。
もう一つあった。
十年前の俺が売った、残りの五年。
俺は即座に購入した。
残存寿命。
《5年 5か月 23日》
増えた。
癌は消えない。
それでも。
半年が五年半になった。
娘は四歳だった。
小学校に入るところまで見られる。
それだけでも。
涙が出た。
だが。
画面に新しい表示が現れた。
《あなたは寿命を販売できます》
俺は理解した。
今の五年を、
さらに未来の自分へ売ることができる。
売れば未来の俺が買える。
そしてその俺が、さらに未来へ送る。
五年。
五年。
五年。
無限に繰り返せば。
俺は死なない。
そう思った。
《寿命を販売しますか?》
俺はボタンを押そうとした。
そのとき。
病室のドアが開いた。
「パパ」
凛だった。
美咲に手を引かれている。
俺のベッドまで走ってきた。
「パパ、いつおうち帰る?」
俺は答えられなかった。
凛が俺の手を握った。
小さい。
温かい。
「パパ?」
俺はスマホを見る。
《販売寿命を選択してください》
1年。
3年。
5年。
全部。
もし五年を売れば、
今の俺の寿命は半年に戻る。
しかし五年後の俺が買えば、
また生きられる。
ただし。
未来の俺が存在するためには、
今の俺がそこまで生きていなければならない。
鶏が先か。
卵が先か。
頭が混乱した。
その夜。
十年前のSMSを開いた。
昔の俺とのやり取り。
俺が最後に送った言葉。
《死因は?》
あのとき、俺は返信しなかった。
いや。
違う。
未来の俺が返信しなかった。
今。
その理由が分かった。
教えたら。
二十八歳の俺はどうする?
癌になると知ったら。
保険に入るかもしれない。
健康診断を受け続けるかもしれない。
酒をやめるかもしれない。
人生を変えるかもしれない。
そして何より。
寿命を売らないかもしれない。
そうなれば。
今の俺が買った十年は存在しなくなる。
俺は震える手でSMSを打った。
宛先は。
十年前の自分。
《今は売るな》
送信。
《頼む》
送信。
数秒後。
返信。
《誰?》
涙が出た。
俺は打った。
《佐伯悠斗》
過去の俺との会話が始まる。
全部。
記憶通りだった。
《死因は?》
最後の質問。
俺は指を止めた。
癌。
膵臓癌。
ステージ4。
そう打てばいい。
でも送れない。
俺が生きるためには。
過去の俺が寿命を売らなければならない。
十年。
あいつから奪わなければならない。
いや。
自分から。
自分へ。
数分悩んで。
俺はスマホを伏せた。
返信しなかった。
そして初めて気づいた。
十年前。
未来の俺から返信が来なくなったあの夜。
俺は、
未来の自分に見捨てられたのだ。
そして今。
俺が過去の自分を見捨てている。
五年後。
俺は四十三歳になった。
医者が言った余命半年から、五年以上生きた。
LIFE MARKETから買った寿命のおかげなのか。
それとも治療が効いたのか。
分からない。
癌は身体中に転移していた。
娘は九歳。
小学三年生。
病室で俺の横に座って宿題をしている。
「パパ」
「ん?」
「人って、死んだらどうなるの?」
急な質問だった。
俺は少し考えた。
「分かんないな」
「怖い?」
「怖いよ」
「パパも?」
「めちゃくちゃ怖い」
凛は鉛筆を置いた。
俺の手を握った。
昔より大きくなった手。
「じゃあ、ずっと生きてて」
俺は笑った。
「できたらな」
その夜。
LIFE MARKETから通知が来た。
《残存寿命 0年 0か月 1日》
あと一日。
そして。
《寿命を販売しますか?》
俺は笑った。
まだ聞いてくるのか。
残り一日まで売れるらしい。
その下。
見慣れない項目があった。
《購入者を指定する》
俺は何気なく押した。
購入者候補。
一人だけ表示された。
《佐伯凛》
娘の名前だった。
残存寿命。
《12年 3か月 8日》
息が止まった。
凛は九歳。
十二年後。
二十一歳。
俺は何度も画面を見た。
嘘だ。
嘘だ。
嘘だ。
娘が二十一歳で死ぬ?
そんなはずがない。
商品説明。
《寿命は譲渡できます》
俺の残り一日を凛に渡したところで意味はない。
だが。
画面の下にもう一つあった。
《過去の販売履歴から買い戻しますか?》
俺が二十八歳で売った十年。
すでに自分で買ったはずだった。
なのに。
履歴には、
《再譲渡可能》
と書いてある。
俺は理解した。
十年を。
娘へ渡せる。
俺が買い戻した十年。
その十年を凛に譲れば、
娘は三十一歳まで生きられる。
でも。
そうした瞬間。
俺は十年前に死ぬ。
つまり。
三十八歳。
癌が発覚したときに。
そうなれば。
今までの五年間が消える。
娘が小学校へ入学した日。
運動会。
初めて自転車に乗れた日。
三人で行った海。
全部。
俺の記憶からは消えない。
だけど世界から俺だけが消える。
《譲渡しますか?》
YES。
NO。
隣のベッドで、凛が眠っている。
俺は娘の髪を撫でた。
そのとき。
ようやく分かった。
十年前。
俺は思っていた。
寿命の一年なんて、
八十歳が七十九歳になるだけだと。
数字だと思っていた。
違った。
寿命というのは、
時間じゃない。
その一年に会うはずだった人。
見るはずだった景色。
交わすはずだった言葉。
笑うはずだった日。
泣くはずだった夜。
その全部だった。
俺は十年を一千万円で売った。
安すぎた。
一億でも。
百億でも。
安すぎる。
でも。
今なら。
十年を無料で手放せる。
俺はYESを押した。
《譲渡先》
佐伯凛。
《譲渡寿命》
10年。
《確定しますか?》
押した。
画面が白くなった。
最後にメッセージが表示された。
《取引が成立しました》
そして。
世界が暗くなった。
――
佐伯凛が父親を亡くしたのは、九歳のときだった。
正確には。
彼女の記憶ではそうなっている。
だが。
母親の美咲はいつも不思議なことを言った。
「お父さんはね、凛が四歳のときに亡くなったの」
凛は笑った。
「違うよ」
「小学校の入学式にも来たもん」
母親は泣いた。
写真には父はいなかった。
運動会にも。
海にも。
自転車の練習にも。
写真には母と凛しか写っていない。
それでも凛は覚えている。
父の声。
父の手。
父の笑顔。
そして。
二十一歳の誕生日。
凛のスマホに、見覚えのないアプリが現れた。
《LIFE MARKET》
通知。
《あなたへの贈り物があります》
開く。
《譲渡寿命 10年》
《贈与者 佐伯悠斗》
凛の手が震えた。
その下には、
短いメッセージが残されていた。
《凛へ》
《寿命は売るな》
《一日だって売るな》
《パパは十年かけて、それに気づいた》
《お前の十年は、パパの十年よりずっと高い》
《だから》
《ちゃんと生きろ》
凛は泣きながら笑った。
そしてアプリを削除した。
その瞬間。
世界中のLIFE MARKET利用者のスマホに、
同時に通知が届いた。
《新しい寿命が出品されました》
販売寿命。
《53年 4か月 18日》
販売者。
《佐伯悠斗》
価格。
《¥0》
購入条件。
《娘以外の誰でも》
そして。
購入ボタンの下に、
小さく一行だけ書かれていた。
《あなたは本当に、自分の明日を売りますか?》
――完――




