第8話 決意
ロワク城郊外 村
陽光が静かに地面に降り注ぐ中、イノはあの馴染みの小道を踏み、再び墓地へ向かった。
古い石橋を渡りかけたとき、ふと前方の木陰に二つの見慣れた影が目に入った。
マルが欠けた銅貨を放り上げては受け止めている。
ユージンは木の幹にもたれ、しなびた林檎をかじっていた。
カリ、と芯に歯が当たった。
ユージンは舌打ちし、ふいに笑みを浮かべて、少し離れた同い年の少年たちに声をかけた。
「おい、昨日の夜聞いたか? 西郊のほうで、もう天が落ちるかと思ったってよ」
誰かが返した。
「兄貴が言ってた。野獣が入り込んで、人まで喰ったって。もう始末されたらしいけど」
「チッ、そこじゃねえよ」
ユージンは林檎の芯を灌木の中へ放り投げ、わざとらしく声をひそめた。
「本当の話を教えてやる——リオン様が一人で仕留めたんだ」
少年たちが目を丸くする。
「なんでお前が知ってんだよ?」
「しっ——」
ユージンが人差し指を立て、左右を窺い、さらに声を落とした。
「俺がこの目で見たんだよ。あの晩、たまたま城門の前を通りかかったら、リオン様が甲冑を纏って、たった一人で西へ向かったんだ。護衛もなし、馬もなし」
ひと呼吸置く。
みんなの顔に思案の色が浮かんだのを見ると、口の端を上げた。
「それより前にな、俺とマルでリオン様と一緒に街を回ってたんだよ。そのとき農夫が一人、リオン様の前に膝をついて、野獣に人が殺されたって泣きながら訴えてた」
「リオン様がどうしたと思う?」
「一言も言わず、踵を返したんだ」
マルが放り続けていた銅貨が空中で回り、ユージンの掌に落ちた。
パシン、と乾いた音がした。
「偶然だと思うか?」
少年たちが互いに目を見合わせ、その瞳に畏敬と興奮が浮かび始めた。
「リオン様が……一人で?」
「とんでもねえな」
「人を喰うような獣だぞ」
「だからさ——」
ユージンが得意満面で話をまとめた。
「リオン様はここの守り手だよ。あの度胸と覚悟、誰にでもあるもんじゃない」
「そうだそうだ、リオン様は民のことを思ってんだ!」
イノは通りすがりに彼らを一瞥した。
ユージンとマルの肌は浅黒く、髪の色は褐色と灰がかった黄が入り混じっている。
顔立ちを見れば、血の繋がりがないことは一目でわかる。
今は貴族の学徒を真似た外套を羽織り、市場の入り口で同い年の連中を前に偉そうに講釈を垂れていた。
イノは視線を逸らした。
エリーナが玄関に置いていった「失敗した」パン。
あの二人はもう覚えてもいないだろう。
「おや、イノじゃないか。どこ行くんだ? またあの墓で風に当たるのか?」
ユージンは銅貨をマルに放り返し、作り笑いを浮かべた。
「あっちは風が強いぞ。風邪引くなよ」
イノの足は止まらない。
まるで何も聞こえていないかのように。
ユージンの笑みが、ふっと固まった。
「この前のが足りなかったみたいだな」
すれ違う瞬間、イノが足を止めた。
振り返らない。
ただ一言だけ落とした。
「お前たちは思ってるのか——」
「リオンの後ろに立ってれば、自分が何者か忘れていられるって?」
ユージンの顔が沈んだ。
声を落として吐き捨てる。
「お前よりはマシだ、ストヴォーク」
「お前は何者でもない。母親の焼くパンで食わせてもらってるだけだ」
マルが頭を掻いて、小声でぼそりと呟いた。
「でも俺、あのパンけっこう好きなんだけど……」
ユージンがぎろりと振り向いた。
マルは首を縮める。
「……俺なんか変なこと言ったか?」
イノはゆっくりと顔を傾け、二人の上に視線を置いた。
一瞬だけ。
「ただ——」
「お前たちが哀れだと思っただけだ」
「本当に」
「なんだと?」マルが声を上げた。
銅貨がちょうど空に放られたところだった。
イノの指先が、わずかに動いた。
銅貨が——消えた。
次の瞬間、指の骨が焼けるように熱くなった。
眉をしかめ、指輪をくるりと回す。
「あれ?」
マルが目を瞬かせ、足元を左右に見回した。
「俺の銅貨は?」
「落としたんだろ」
ユージンが林檎をかじりながら素っ気なく言った。
マルが疑わしげにユージンを睨む。
「お前が取っただろ?」
「なんでお前のボロ銭なんか取るんだよ」
「お前が一番近くにいただろ、返せよ——」
「頭おかしいのかお前!」
二人は互いの襟を掴み合い、取っ組み合いになった。
イノはとうに背を向け、先へ進んでいた。
あの銅貨を取り出し、指の間で軽く弾んだ。
それからさりげなく、道端に放った。
——————
墓地が近づくにつれ、かすかに淡い香りが漂ってきた。
イノは足を止め、顔を上げて空気を嗅いだ。
「セレイナ……?」
見回したが、誰もいなかった。
視線が最後に、エロンの墓石に落ちた。
「ずっとそうやって耐えてれば、逆らわなければ、俺たちの暮らしを守れると思ってた……」
「そばにいるって言ったよな」
「俺には見えなくても」
手を伸ばして、墓石に触れた。
「見えないよ」
沈黙。
そのとき、背後から聞き慣れた声がした。
「イノ」
エリーナがゆっくりと歩いてきた。手には花束を抱えている。
「母さん?」
エリーナは答えず、墓石の前に花束を置き、手を合わせた。
しばらくして顔を上げ、イノを見た。
穏やかで、疲れた目だった。
「一人でこんなところに来て、何をしてるの?」
イノは目を伏せ、低い声で言った。
「ちょっと……話したいことがあって」
「最近、やたらとここに来てるわよね」
イノは答えなかった。
なぜ何度もここに来てしまうのか、自分でもわからない。
たぶん、この石はどうするつもりだと問い詰めてこないからだ。
数秒の沈黙の後、意を決した。
「母さん、俺は強くなりたい」
エリーナがわずかに瞬いた。
「強くなる? どうして? 今のままじゃ駄目なの?」
「母さんを守れるようになる」
少し止まり、声が半音落ちた。
「俺、いろいろ見たんだ……」
イノは墓石の文字を見つめた。
「母さんは知らないんだよ、外に何があるか」
エリーナがゆっくりと振り返り、イノを見た。
その目は怒りではなかった。怒りよりもっと深いところにあるものだった。
「知らないのはあなたよ」
「見たからって、わかったつもり?」
「俺は——」
「わかってない」
エリーナが遮った。
声が急に上がった。
「あなたが見たのはせいぜい野獣でしょう——本当の地獄に比べたら、何でもない!」
「イノ、私にはあなたの守りなんていらない」
「でも——」
「あなたが無事でいること。それだけが、私とお父さんの一番の願いなの」
イノが顔を上げた。
声がとても低かった。
「じゃあ父さんは今どこにいるの?」
エリーナの唇が動いた。
が、答えは出なかった。
陽の光が睫毛に落ちて、かすかに震えた。
少しして、身を屈めて花束を整え直した。
ゆっくりと丁寧に。
「お父さんはもう失った。あなたまで失うわけにはいかないの」
「でも、何もしないままでいるなんてできない」
イノは歯を食いしばった。
エリーナは振り返らなかった。
目の奥の哀しみが、静かに沈んでいく。
イノは俯いて、小さく言った。
「……わかったよ」
エリーナは立ち上がり、手についた草の屑を払い、歩き出した。
イノはその背を見送った。
「でも俺は……このまま立ち止まって、世界に押し潰されるのを待ってるわけにはいかない」
エリーナの姿が、道の角で消えた。
イノは動かなかった。
自分の手を見下ろした。
まだ包帯の巻かれた左手を。
それから踵を返し、歩き出した。




