表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/26

第7話 平凡の腐 II

霧が濃く、天地が霞んでいた。


イノは湿った林地に立っていた。足元には冷たい泥濘でいねい、周囲の木の影は霧に飲み込まれ、深く、果てがない。俯くと、自分の足が見えない。振り返ると、背後は死の静寂だった。


戦慄が背筋を這い上がった。


「ハー……コロッ……」


低く粘りつくような喘ぎが響いた。霧の果てから来るようでもあり、耳元に張り付くようでもあった。


イノは勢いよく振り返った——


「また——」


言葉が終わらないうちに、食頭魔(しょくとうま)が一気に掴みかかってきた。喉を締め上げる巨大な手。

尖った牙が迫り、イノを恐怖のただ中に閉じ込めた。


「やめろ——!」


——————


「イノ」


猛然と目が覚めた。心臓が鼓動を打つ中、手が反射的に布団を掴んでいた。


朦朧とした視線の中に、エリーナの姿が映った。ベッド脇の椅子に座り、手を伸ばしてイノの額にそっと触れていた。


額は少し冷たかった。エリーナが微かに頷いた。


「ようやく熱が下がったね」


一晩中まんじりともしなかった彼女の目は血走っていたが、声だけはまるで何かを壊すまいとするように、柔らかかった。もう一度イノを見て、疲労の中に深い安堵をにじませながら言った。


「もう驚かせないで」


それから静かに立ち上がった。


イノはまだ悪夢から完全に醒めていなかった。本能的に口を開こうとしたが、声が出なかった。


エリーナは静かに扉へと歩み、そっと閉めた。


その瞬間——


「ジュッ——」


椅子の、エリーナが座っていた場所から、暗緑色の液体がひそかに浮かび上がった。


椅子から白い煙が激しく立ち上がり、「ジュジュ……」と音を立てて、腐蝕が急速に広がっていく。木がぶくぶくと泡立ち、変形し、焦げ黒く砕けた。


「パキン!」


椅子脚が崩れ落ちた。床に焦げた穴が一つ残された。


イノの顔から色が消えた。呼吸すら忘れた。


一秒前、あれはエリーナが座っていた場所だった。


もし一瞬でも遅かったら、

たった一人の家族が、自分の手で死んでいた。


——————


イノはベッドの端に座り、背筋を張り、両手で布団をきつく握っていた。

指輪が掌の中で静かに眠っている。


もう嵌める気にはなれなかった。

ただ俯いてじっと見つめるだけ。まるで不発の爆弾を眺めているようだった。


扉が「ギィ」と押し開けられた。


ハーンが入ってきた。目がまず部屋の中を一通り見回してから、ようやくイノの顔に落ちた。


「イノ」ハーンが言った。


「俺は西の森の奥で、一頭の黒熊の死骸を見つけた」ひと呼吸置いて、目に刺があった。


「お前がやったのか?」


イノの睫毛まつげが微かに揺れ、手の中の指輪を握り締め、ゆっくりと顔を上げた。


まだ答えないうちに、ハーンの視線がすでに床の隅へと落ちていた——焦げて落ち込んだあの坑が、目の前にあった。


ハーンの眉が一層深く寄った。


「……俺です」イノはとうとう低く口を開いた。声がかれていた。


「あの熊が突然飛びかかってきて……選択肢がなかった」


ハーンは少しの間じっと見てから、不意に手を伸ばしてイノの肩を叩いた。


「このガキ、なかなかやるじゃないか。王都の騎士だって、単独では相手にしたくないだろうにな」


ひと呼吸置いてから、床と壊れた椅子を指した。


「だがこっちは? どうなったか教えてくれるか?」


イノは唇を動かし、少し迷ってから、最終的にただ首を振った。


「……わからない」


ハーンはしばらく黙り、それ以上は追わなかった。


「熊は俺が始末しといた」と彼はさらっと言った。「毛皮も骨も立派なもんだ、もったいなくないようにしろよ」


「それと床と椅子は」ハーンは立ち上がり、焦げた穴のそばへ回り込み、ちらと見て口調を少し軽くした。


「後で直してやる」


「ハーンのおじさん……もう聞かないの?」


ハーンはまるで聞こえていないように、手の中のかなづちを弄りながら続けた。


「そういえば、なんであんな辺鄙へんぴな場所まで行ったんだ?」


「ああ……なんとなく気が滅入って、少し散歩したくて」イノは頭を掻いて、できるだけ軽く言った。


「おじさんに教えてもらった色々が、役に立ったよ。じゃなかったら本当に帰れなかったかもしれない」


ハーンが「フン」と鼻を鳴らし、口の端がかすかに動いた。


「少しは本当に身についてたんだな」


槌が一打ち一打ち、釘を打ち込んでいく。


「西郊のほうで、ある家が事件に遭ったらしい。行方不明者も出たって聞いた」


「俺がお前を見つけたとき、お前はちょうどその家の隣の草地に倒れていた」


「あの頃には、もう兵士が周りを囲んでたな」


イノは何も言わなかった。


ハーンが顔を上げてイノを一瞥し、また俯いて釘の一本を割れた縁に打ち込んだ。


「最近、噂があって——野獣が人を襲ってるって話だ。なかなか凶残で。お前、知ってるか?」


イノは首を振った。


「……まあ、自分の縁者が死んだわけじゃなきゃ、人は大抵よく眠れるもんだがな」


「お前を見つけてすぐに、城内に触れが出て、あの野獣はもう仕留められたと書いてあった」


ハーンがひと呼吸置き、最後の釘を床に打ち込んだ。


「だからもう、何事もなかったように平穏に戻った」彼は槌を置き、何気なく聞いた。「お前は、何か知ってるか?」


イノの胸がかすかに締まった。


「……知らない」首を振り、声をできるだけ自然に聞こえるようにした。


ハーンはそれ以上追わなかった。立ち上がって膝の埃を払い、視線を窓の外へと向けた。


「そか」


イノはその補修された床を見つめていたが、頭の中には食頭魔(しょくとうま)の三つの空洞が浮かんでいた。


 (あんな者がこの世界に存在する。)


 (言川がちょうど通りがかりでなければ——)

 

(次にあれが店の前に現れたら?)


「ハーンのおじさん」イノが顔を上げた。


「俺があの黒熊を仕留めたこと……グランソワ学院に入る役に立てるかな?」


ハーンは少し面食らったように一瞬止まり、そんなことを聞くとは思わなかったという顔をした。しばらくして首を振り、ため息をついた。


「イノ、確かにそいつはたいしたことだが、それだけじゃ……おそらく足りないぞ。俺たちみたいな出身は、他人に認めてもらいにくいんだよな」


「どうして急に学院のことを考え出したんだ?」


「まあ、驚くことでもないか」ハーンは手でひとつの高さを示した。


「お前がこのくらいの背の頃から、毎日棒切れを持って庭でぶんぶん振り回してたもんな」


「ただ……もしかしたら、これが機会になるかと思って」イノがぽつりと言った。


ハーンの目が少し複雑になり、何かを思い出すような色が浮かんだ。


「そういえば聞いたことがあるな——二十年前、お前や俺と似たような出の奴が、破格でグランソワに入ったって。まあ、万に一つの運だったが」


それから口元を撫で、口調をがらりと変えて、本気とも冗談ともつかない感じで言った。


「お前が本当にグランソワに入れるなら、衣食住に学費全部込みだぞ。それは人生を変えられる道だ」


「まあただ、エリーナが頷くなら——伝手つてを当たって、何か筋道がないか探してやってもいいぞ」


イノが目を丸くした。「おじさんが探してくれる? 誰か知ってるの?」


ハーンが口を少し動かし、手の中の槌を弄り、しばらく黙ってから、ぼそりと言った。


「若い頃のことだ……クリステル侯爵の息子の狩りに、伴をしたことがあってな」


「侯爵!?」イノの目が輝いた。


ハーンがその肩を叩いた。「ただし、エリーナを自分で説得しないとな」


イノは苦笑いして頷いた。「わかった……ありがとう、ハーンのおじさん」


「ああ、行くぞ」ハーンが笑いながら立ち上がった。


「もう少し休め、俺はそろそろおいとまするな」


足音が遠ざかり、扉の外へ消えていった。


イノはゆっくりと枕元にもたれ、指輪を右手に嵌め直した。


——————


翌朝。


エリーナは厨房の古い椅子に腰かけ、眉間に皺を寄せながら、イノが家を出ていく後ろ姿をじっと眺めた。


「つまり……あの子は一人で黒熊と正面から戦ったの?」


目の奥には隠しきれない後悔と怖気おじけが潜んでいた。


ハーンが軽くため息をついた。


「もう済んだことだ。あのガキ、こうして生きてるじゃないか。しかも俺が思ってたより、はるかに落ち着いてた」


その口の端に、何とも言えない笑みがかすかに浮かんだ。


「あの子は……ちゃんとした環境さえあれば、ひょっとしたら本当にたいした人物になるかもしれんぞ」


エリーナがきつく睨んで、声が少し上がった。


「あんたがしょっちゅう連れ回して悪さを教えなければ——」


「俺か?」ハーンは両手を降参のように振った。


「あの日はお前だぞ。俺じゃない」


エリーナは何も言わなかった。ただ黙って窓の外を見つめ、あの後ろ姿から何かを読み取ろうとするようだった。


「私はあの子を甘やかしすぎた」エリーナが低く言った。


「もうこのままじゃいけない……」


ハーンは声を出さなかった。頭の中には黒熊の死骸の様子が浮かんでいた。病的な黒い血が染みた大地。


彼はゆっくりと目を細めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ