第7話 平凡の腐 II
霧が濃く、天地が霞んでいた。
イノは湿った林地に立っていた。足元には冷たい泥濘、周囲の木の影は霧に飲み込まれ、深く、果てがない。俯くと、自分の足が見えない。振り返ると、背後は死の静寂だった。
戦慄が背筋を這い上がった。
「ハー……コロッ……」
低く粘りつくような喘ぎが響いた。霧の果てから来るようでもあり、耳元に張り付くようでもあった。
イノは勢いよく振り返った——
「また——」
言葉が終わらないうちに、食頭魔が一気に掴みかかってきた。喉を締め上げる巨大な手。
尖った牙が迫り、イノを恐怖のただ中に閉じ込めた。
「やめろ——!」
——————
「イノ」
猛然と目が覚めた。心臓が鼓動を打つ中、手が反射的に布団を掴んでいた。
朦朧とした視線の中に、エリーナの姿が映った。ベッド脇の椅子に座り、手を伸ばしてイノの額にそっと触れていた。
額は少し冷たかった。エリーナが微かに頷いた。
「ようやく熱が下がったね」
一晩中まんじりともしなかった彼女の目は血走っていたが、声だけはまるで何かを壊すまいとするように、柔らかかった。もう一度イノを見て、疲労の中に深い安堵をにじませながら言った。
「もう驚かせないで」
それから静かに立ち上がった。
イノはまだ悪夢から完全に醒めていなかった。本能的に口を開こうとしたが、声が出なかった。
エリーナは静かに扉へと歩み、そっと閉めた。
その瞬間——
「ジュッ——」
椅子の、エリーナが座っていた場所から、暗緑色の液体がひそかに浮かび上がった。
椅子から白い煙が激しく立ち上がり、「ジュジュ……」と音を立てて、腐蝕が急速に広がっていく。木がぶくぶくと泡立ち、変形し、焦げ黒く砕けた。
「パキン!」
椅子脚が崩れ落ちた。床に焦げた穴が一つ残された。
イノの顔から色が消えた。呼吸すら忘れた。
一秒前、あれはエリーナが座っていた場所だった。
もし一瞬でも遅かったら、
たった一人の家族が、自分の手で死んでいた。
——————
イノはベッドの端に座り、背筋を張り、両手で布団をきつく握っていた。
指輪が掌の中で静かに眠っている。
もう嵌める気にはなれなかった。
ただ俯いてじっと見つめるだけ。まるで不発の爆弾を眺めているようだった。
扉が「ギィ」と押し開けられた。
ハーンが入ってきた。目がまず部屋の中を一通り見回してから、ようやくイノの顔に落ちた。
「イノ」ハーンが言った。
「俺は西の森の奥で、一頭の黒熊の死骸を見つけた」ひと呼吸置いて、目に刺があった。
「お前がやったのか?」
イノの睫毛が微かに揺れ、手の中の指輪を握り締め、ゆっくりと顔を上げた。
まだ答えないうちに、ハーンの視線がすでに床の隅へと落ちていた——焦げて落ち込んだあの坑が、目の前にあった。
ハーンの眉が一層深く寄った。
「……俺です」イノはとうとう低く口を開いた。声がかれていた。
「あの熊が突然飛びかかってきて……選択肢がなかった」
ハーンは少しの間じっと見てから、不意に手を伸ばしてイノの肩を叩いた。
「このガキ、なかなかやるじゃないか。王都の騎士だって、単独では相手にしたくないだろうにな」
ひと呼吸置いてから、床と壊れた椅子を指した。
「だがこっちは? どうなったか教えてくれるか?」
イノは唇を動かし、少し迷ってから、最終的にただ首を振った。
「……わからない」
ハーンはしばらく黙り、それ以上は追わなかった。
「熊は俺が始末しといた」と彼はさらっと言った。「毛皮も骨も立派なもんだ、もったいなくないようにしろよ」
「それと床と椅子は」ハーンは立ち上がり、焦げた穴のそばへ回り込み、ちらと見て口調を少し軽くした。
「後で直してやる」
「ハーンのおじさん……もう聞かないの?」
ハーンはまるで聞こえていないように、手の中の槌を弄りながら続けた。
「そういえば、なんであんな辺鄙な場所まで行ったんだ?」
「ああ……なんとなく気が滅入って、少し散歩したくて」イノは頭を掻いて、できるだけ軽く言った。
「おじさんに教えてもらった色々が、役に立ったよ。じゃなかったら本当に帰れなかったかもしれない」
ハーンが「フン」と鼻を鳴らし、口の端がかすかに動いた。
「少しは本当に身についてたんだな」
槌が一打ち一打ち、釘を打ち込んでいく。
「西郊のほうで、ある家が事件に遭ったらしい。行方不明者も出たって聞いた」
「俺がお前を見つけたとき、お前はちょうどその家の隣の草地に倒れていた」
「あの頃には、もう兵士が周りを囲んでたな」
イノは何も言わなかった。
ハーンが顔を上げてイノを一瞥し、また俯いて釘の一本を割れた縁に打ち込んだ。
「最近、噂があって——野獣が人を襲ってるって話だ。なかなか凶残で。お前、知ってるか?」
イノは首を振った。
「……まあ、自分の縁者が死んだわけじゃなきゃ、人は大抵よく眠れるもんだがな」
「お前を見つけてすぐに、城内に触れが出て、あの野獣はもう仕留められたと書いてあった」
ハーンがひと呼吸置き、最後の釘を床に打ち込んだ。
「だからもう、何事もなかったように平穏に戻った」彼は槌を置き、何気なく聞いた。「お前は、何か知ってるか?」
イノの胸がかすかに締まった。
「……知らない」首を振り、声をできるだけ自然に聞こえるようにした。
ハーンはそれ以上追わなかった。立ち上がって膝の埃を払い、視線を窓の外へと向けた。
「そか」
イノはその補修された床を見つめていたが、頭の中には食頭魔の三つの空洞が浮かんでいた。
(あんな者がこの世界に存在する。)
(言川がちょうど通りがかりでなければ——)
(次にあれが店の前に現れたら?)
「ハーンのおじさん」イノが顔を上げた。
「俺があの黒熊を仕留めたこと……グランソワ学院に入る役に立てるかな?」
ハーンは少し面食らったように一瞬止まり、そんなことを聞くとは思わなかったという顔をした。しばらくして首を振り、ため息をついた。
「イノ、確かにそいつはたいしたことだが、それだけじゃ……おそらく足りないぞ。俺たちみたいな出身は、他人に認めてもらいにくいんだよな」
「どうして急に学院のことを考え出したんだ?」
「まあ、驚くことでもないか」ハーンは手でひとつの高さを示した。
「お前がこのくらいの背の頃から、毎日棒切れを持って庭でぶんぶん振り回してたもんな」
「ただ……もしかしたら、これが機会になるかと思って」イノがぽつりと言った。
ハーンの目が少し複雑になり、何かを思い出すような色が浮かんだ。
「そういえば聞いたことがあるな——二十年前、お前や俺と似たような出の奴が、破格でグランソワに入ったって。まあ、万に一つの運だったが」
それから口元を撫で、口調をがらりと変えて、本気とも冗談ともつかない感じで言った。
「お前が本当にグランソワに入れるなら、衣食住に学費全部込みだぞ。それは人生を変えられる道だ」
「まあただ、エリーナが頷くなら——伝手を当たって、何か筋道がないか探してやってもいいぞ」
イノが目を丸くした。「おじさんが探してくれる? 誰か知ってるの?」
ハーンが口を少し動かし、手の中の槌を弄り、しばらく黙ってから、ぼそりと言った。
「若い頃のことだ……クリステル侯爵の息子の狩りに、伴をしたことがあってな」
「侯爵!?」イノの目が輝いた。
ハーンがその肩を叩いた。「ただし、エリーナを自分で説得しないとな」
イノは苦笑いして頷いた。「わかった……ありがとう、ハーンのおじさん」
「ああ、行くぞ」ハーンが笑いながら立ち上がった。
「もう少し休め、俺はそろそろおいとまするな」
足音が遠ざかり、扉の外へ消えていった。
イノはゆっくりと枕元に凭れ、指輪を右手に嵌め直した。
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翌朝。
エリーナは厨房の古い椅子に腰かけ、眉間に皺を寄せながら、イノが家を出ていく後ろ姿をじっと眺めた。
「つまり……あの子は一人で黒熊と正面から戦ったの?」
目の奥には隠しきれない後悔と怖気が潜んでいた。
ハーンが軽くため息をついた。
「もう済んだことだ。あのガキ、こうして生きてるじゃないか。しかも俺が思ってたより、はるかに落ち着いてた」
その口の端に、何とも言えない笑みがかすかに浮かんだ。
「あの子は……ちゃんとした環境さえあれば、ひょっとしたら本当にたいした人物になるかもしれんぞ」
エリーナがきつく睨んで、声が少し上がった。
「あんたがしょっちゅう連れ回して悪さを教えなければ——」
「俺か?」ハーンは両手を降参のように振った。
「あの日はお前だぞ。俺じゃない」
エリーナは何も言わなかった。ただ黙って窓の外を見つめ、あの後ろ姿から何かを読み取ろうとするようだった。
「私はあの子を甘やかしすぎた」エリーナが低く言った。
「もうこのままじゃいけない……」
ハーンは声を出さなかった。頭の中には黒熊の死骸の様子が浮かんでいた。病的な黒い血が染みた大地。
彼はゆっくりと目を細めた。




