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第3話 熊殺者《ベアキラー》

ロワク城 ヴィセス邸 黄昏


リオンの足音が、薄暗い石畳の廊下によく響いた。

衛兵が脇に退き、重い木の扉を押し開けた。蝶番がきしむ。


大広間に窓はなく、数本の壁燭台と高い燭台が、か細い光を落とすばかりだった。

奥の高座に、一人の老人が腰を据えていた。重い軍装と沈黙。


リオンの父――アルレイク・ヴィセス。


その傍らの影に、黒檀こくたんの杖をついた男が立っていた。

腹違いの兄――シリアン。


シリアンの背後に、もう一人。

濃い色の長衣を纏った女――イレーナ。

兄に似た目元に、冷ややかな美しさがあった。


「リオン――」


アルレイクの声が、がらんとした大広間に低く響いた。

目を上げることもなく、すべてをとっくに知り尽くした口ぶりだった。


「農夫の前で逃げたそうだな。われらが支配する民の前で――お前はヴィセスを名乗りながら、卑しい泥百姓どんびゃくしょうに尻込みしたのか」


リオンはためらいなく跪いた。


「申し訳……申し訳ありません、父上」


アルレイクは視線すら向けず、凍りついた言葉だけを吐いた。


「才もなく、意志もなく、覚悟もない――お前のどこが跡継ぎだ」


「使えぬ! グランソワ学院に入ったところで何になる。ヴィセスの恥を曝すつもりか」


「父上、父上! どうかもう一度だけ機会をください……僕は御家に恥はかかせません。学院では必ず証明してみせます……どうか」


リオンの身体が小刻みに震えていた。

後ろへ傾きかけ、背を深く垂れた。


「跡継ぎとは完璧でなければならぬ」


アルレイクはゆっくりと言いながら、視線をシリアンへ移し、意味深長にイレーナをも一瞥した。


「ヴィセスの家に、びっこと役立たずが残った」


改めてリオンを見たが、その目に揺らぎは何一つなかった。


「下がれ」


リオンは立ち上がった。

背を丸めたまま、よろめくようにして広間の出口へ向かった。


誰も彼を見送らなかった。


まだ敷居を越えていなかったとき、背後で杖が石床を叩く音が響いた。


シリアンが引きずるような足取りでアルレイクの前に立った。


「先ほど、正体不明の獣の痕跡が林渓りんけいの森の西域で確認されたとの報が入りました」


リオンの足が止まった。


やがて肩がゆっくりと伸び、

振り返りもせず廊下の奥へと歩み去った。


——————


ロワク城郊外 暮れなずむ頃


墓地のほうから風が吹いてきた。

石碑の隙間を縫うように通り過ぎ、低い呻き声のような音を立てる。


「もう遅い……帰らないと」


足は何度も迷った。

冷たい風が湿気を含み、衣の襟から忍び込んで背中に寒気を走らせた。


空はとっくに余光を失い、

木の影が物音もなく彼を飲み込んでいく。


そのとき、かすかな香りが鼻先をかすめた。

何の香りか、うまく言い表せない。


気づけば足が向きを変えていた。


(違う。この木、さっきここになかった。石の位置もおかしい。)


周囲の木々はいよいよ密になり、

影が夜風の中で静かに揺れていた。


来た道を探して振り返った瞬間、足元が滑った。

そのまま身体ごと斜面を転げ落ちた。


「あ――っ!」


木の根、砕け石、枯れ枝が脇を飛び過ぎ、

火のつくような引っ掻き傷を刻んでいく。


何かをつかもうとしたが、空を掴んだだけで、

谷底に重く叩きつけられた。


イノは呻きながら身体を起こした。

全身が灼けるように痛い。


顔に手を当てると、掌は血で濡れていた。

土の湿気と血の匂いが混じり合い、胃がせり上がってくる。


まだ立てていないうちに、背後で重い息づかいが聞こえた。


振り返ると、二つの目が闇の中でちらちらと揺れていた。


黒熊だった。


だが、今まで見たどんな黒熊とも違った。


身体が激しく痙攣し、毛並みの下で筋肉が塊になって盛り上がっている。

鼻翼が絶えず震え、吐き出す息は低く急だ。

爪が無意識に地面を引っ掻き、口の端から垂れる唾液には、奇妙な黒い粘液が混じっていた。


イノは反射的に顔の傷を触り、指先が小刻みに震えた。

口の端を引き上げ、笑おうとしたが、声が出なかった。


「……鼻が利くじゃないか」


喉が渇いた。

イノはハーンの言葉を思い出した――黒熊は自分から襲わない、子熊に触れたか、狂ったかでなければ。


この一頭は、明らかに後者だった。


低い唸りに空気が震え、

周囲の木の葉が囁くように語りかけてくる――逃げろ。


頭だけが猛烈に回転しているのに、

手足が石になったように動かない。


こんなとき、いつも前に立ってくれる人がいた。

ハーンの声が、耳元でまだ聞こえるような気がした。


『臭いガキは後ろにいろ』


でも今は、誰も盾になってくれない。


イノは腕を振り上げ、身振りで追い払おうとした。

だが黒熊の目には何の動揺もなく、むしろ苛立ちを募らせていくだけだった。


黒熊が猛然と飛びかかってきた。


イノは反転して全力で走った。

灌木と木の影が脇を飛び去っていく。

黒熊はそれより速かった。


木々の間を縫い、前方に一本の太い老木が見えた瞬間、迷わず飛びついて登った。


「お前、まさか木登りはできないよな……」


次の瞬間、黒熊が幹に激突してきた。

巨大な爪が樹皮に食い込み、熊が登り始めた。


「うわっ、マジかよ!」


低く悪態をつきながら即座に飛び降り、

地面に着くなり転がって体勢を立て直した。


振り向いた瞬間、あの巨影がもう宙を飛んでいた。

真っ赤な目、裂けた爪。


横へ転がった。


ドン!


爪が空を裂き、彼がいたはずの木の幹に叩き込まれた。

木屑が飛び散る。

二人がかりで抱えるほどの老木が大きくえぐれ、折れんばかりになった。


冷や汗がどっと噴き出た。

強引に跳び起き、再び逃げ出す。


「こいつ、ホントに熊なのかよ!?」


暴走した巨獣は道など一切無視し、直線に突き進んだ。

咆哮が夜を引き裂き、通った跡には枝が折れ泥が飛んだ。


足が灼けるように重くなった。


不意に、前方に岩壁が突き出てきた。


(終わった。)


荒い息を吐きながら、石の壁を凝視した。

足はまだ震えている。

肺が裂けそうだ。

背後の咆哮が近づいてくる。


一瞬だけ、何もしたくなくなった。


(もう走れない。ここに立っていたっていい。)


エリーナの顔が、ふと浮かんだ。


イノは死にたくなかった。


目の端に、岩壁の脇から一本の木が斜めに突き出ているのが見えた。

まるで巨大な槍のようだった。


(命がけだ!)


イノは突然向きを変えた。

一本の小木を足がかりに急停止し、跳ね返るようにしてその斜め木の根元へと飛び込んだ。


背後で、黒熊の怒号が夜を裂いた。


猛烈に突っ込んでくる刹那、イノは横へ転がり、岩壁の陰の窪みへと潜り込んだ。


ドン!


黒熊は止まれなかった。

斜め木に激突した。


幹が槍のように胸を貫き、肉と血が衝撃の中で弾けた。


凄まじい絶叫が山林に響き渡った。

目の赤い光が、激しく明滅した。


イノは地面に倒れ込み、激しく息をついた。

手が一本の木の棒に触れた。

反射的に掴んだ。


猛然と跳び起き、両手で棒を握りしめ、まだ痙攣する巨体へと飛びかかった。

歯を食いしばり、力を溜め――思い切り突き刺した!


バキッ。


木棒が黒熊の眼窩がんかに没した。

黒い血が顔に飛んだ。


本能的に手を放そうとしたが、

指の節がもう強張って離れなかった。


巨獣が激しく震え、低い咆哮を上げた。

四肢が暴れ、イノの身体ごと揺さぶった。


より大きな力でさらに押し込んだ。


血が流れ、足元の泥を染めていく。


林に死の静寂が落ちた。


イノはへたり込んだまま、大きく呼吸した。

汗で衣が張り付いている。

俯いて、血まみれの両手を見つめた。


「俺……」


声はしゃがれていた。


「本当に……熊を殺したのか?」


ただ、朦朧と気づいた。

自分はまだ生きている、と。


それだけだった。


そのまま座り込んで、どれだけの時間が過ぎたかわからない。

風が林の中を吹き抜け、落ち葉が熊の体に舞い降りては、また飛ばされていった。


イノはゆっくりと頭を下げ、

まだ手に握っていた木棒を見て、離した。


身体を引きずって、水音を頼りに動いた。

少し先で、沢がかすかな光を夜に映していた。


俯いて顔の血を洗う。

沢の水は氷のように冷たく、少し頭が冴えた。


衣の裾を引き裂き、深い傷口を簡単に巻いた。


それから枯れ枝を拾い集め、苔と落ち葉をかき集めて積んだ。

ハーンが火起こしの要領を教えてくれていた。

手つきは危うかったが、焦りに後押しされながら、やがて小さな炎がようやく立ち上がった。


「……帰ったら、ハーンのおじさんにちゃんと礼を言わないとな」


炎が枯れ葉を静かに飲み込んでいく。

パチパチとかすかに鳴った。


イノは岩の上に腰を落ち着け、目を閉じて、長く息を吐いた。


「帰れたらの話だけど……」


(さっきの変な香り……それにこの意味わからない場所。)


心拍がゆっくり落ち着くにつれ、

疑問だけが鮮明になっていく。


目を開けて、炎を見つめた。


そのとき、篝火かがりびがかすかに揺れた。

炎の舌が縮まり、風が林をかすめた。


イノは警戒して身を起こし、あたりを見回した。


あの香りが、また静かに漂ってきた。


そして火の向こう側に、いつの間にか、一つの人影が増えていた。


濃い色の外套を纏い、火の届かない境界に静かに立っている。

フードが深く垂れて、数房の黒い髪だけがこぼれ、火光の中で微かに揺れていた。


顔は影の中に隠れていたが、

その輪郭の静けさから、目を離せなかった。


あの香りが、彼女から漂っていた。


「あなた……誰?」


彼女は答えなかった。

ただゆっくりと頭を上げ、篝火を見つめた。


まるで炎の中に、自分のすべての思いが燃えているかのように。


炎が最も高く輝いた瞬間、イノはその輪郭を見た。


静かで、完璧だった。


この夜そのものの一部であるかのように。

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