第2話 城壁の少年 II
「まあ、かわいそうじゃないか」
リオンが軽く肩をすくめた。
「小さいころから未亡人の母親と二人きりで暮らしてるんだ。
盗みもせず、騙しもせず、ここまで生き延びただけでも運がいい方だろう」
それでもユージンとマルは手を止めようとしない。
リオンは眉をひそめた。
「……もういいと言っただろ」
二人はばつの悪そうな顔で手を引いた。
リオンは馬から降り、軽く外套の裾を払った。
手布で指先をゆっくり拭く。
「グランソワからの合格通知が昨日届いた」
ユージンはすぐに顔をほころばせた。
「おめでとうございます、坊ちゃん!」
「ああ」
「だから最近は、くだらないことで時間を取られたくない」
それからゆっくり視線を落とす。
泥に倒れたイノへ。
「言ってる意味は分かるな、イノ?」
地面に伏したままのイノは、
泥と血を口に含んだまま、少し黙った。
「……おめでとうございます、坊ちゃん」
手綱をユージンに渡し、軽く鞍にまたがる。
白銀の外套が肩の上で揺れ、陽の中で淡く光った。
イノの鼻先には土の匂いが張りついている。
遠ざかる馬の蹄の音が、ゆっくりと薄れていった。
——————
三人がまだ遠くへ行かないうちに、
一人の痩せた男が遠くから走ってきた。
その後ろには灰色の鎧を着た守備兵が二人。
ユージンとマルは慌てて道を開ける。
リオンはまだ気づかず、外套についた埃を払っていた。
男は馬の前まで駆け寄ると、
その場に崩れるように跪いた。
そしてリオンの靴にしがみつく。
「若様!どうか……どうかお裁きを!」
リオンは完全に面食らった。
手綱すら握り損ねる。
「離せ!」
声がわずかに震える。
「娘が……娘が……まだ二十歳なんです!」
農夫の目は血走り、
涙と泥が混ざって頬を流れていた。
守備兵がようやく追いつく。
一人が男を地面に押し倒し、
もう一人が慌てて頭を下げた。
「申し訳ありません、若様!
お騒がせいたしました!」
農夫は泥に押さえつけられながら、まだ何かを言おうとしていた。
「若様……娘が……娘が……」
声はだんだん小さくなり、消えた。
リオンはようやく我に返り、顔をしかめる。
「これが貴様らの警備態度か?」
兵士の一人が深く頭を下げた。
「申し上げます。
この者は町の農民でございます」
「昨夜、娘の遺体が林の近くで発見されました」
兵士は一瞬言葉を詰まらせる。
「……首がありませんでした」
空気が、止まった。
「傷の様子から、野獣の仕業と思われます」
リオンの眉が動く。
「思われる、だと?」
「……断定はできておりません」
兵士は顔を上げない。
「これで二件目です。
先週も――」
「もういい」
リオンは手を上げた。
兵士は慌てて続ける。
「ご安心ください。
巡回を増やし、
夜警も強化しております。
必ずその獣を捕らえます」
「……そう願う」
だが視線は、
引きずられていく農夫の背を追っていた。
長いあいだ、何も言わなかった。
——————
イノはよろめきながら立ち上がり、
袖で口元を拭った。
遠くで、誰かが押し倒される音がした。
短い叫び。
すぐに押し潰される。
イノは顔を上げたが、
何も見えなかった。
ただ、空気だけが妙に張りつめていた。
右手で腰を押さえ、しばらく動かない。
地面の木の棒を拾い、前へ踏み出した。
彼は南門を抜け、東へと続く小道を静かに歩いていった。
ロワク城の外では、村々が城壁の両翼に沿って点在し、
山裾と田畑のほとりまで続いていた。
南にはウィンドランド領、北には鉄樺――
城砦はその間に位置していた。
いちばん東の村は森の縁に接するほどで、
イノとエリーナの家はそのあたりにあった。
イノは青い空を見上げ、目を細めた。
それから目を伏せ、
埃まみれの裾を見つめる。
指先で、ほつれた袖口の糸を軽く引っ張った。
(グランソワ学院。)
それは雲の上にある名前だった。
晴れた日には城壁の最も高い場所から、
その輪郭がうっすらと見えた。
本物の騎士だけが、あの場所から出てくるのだと、
みなが言う。
彼は一度も近づいたことがなかった。
不意に右肩を軽く叩かれた。
振り向いたが、誰もいない。
気づく間もなく、
今度は左の頬を指先でそっと突かれた。
「っ――」
ローナだった。
笑顔でイノを見ていたが、
その目が顔の痣にさりげなく落ちた。
笑みが少しずつ消えていく。
「また、ユージンか?」
イノはうなずいた。
口元を動かしたとき、
左の脇腹がわずかに締まった。
「ローナさん、奇遇ですね」
ローナは眉をひそめ、腰に手を当てた。
「まったく。あたしが代わりに言いに行ってやろうか」
「大丈夫ですよ、ローナさん」
イノは慌てて手を振った。
「向こうだって、ただじゃ済んでませんから」
ローナは笑わず、静かにため息をついた。
「やっぱり、お母さんには言わないつもり?」
イノは目を伏せ、何も答えなかった。
「もう行かないと。
母さんが帰ってくる前に……うまく隠す方法を考えないと」
軽く手を振り、振り返らずに遠ざかっていった。
木漏れ日が差し込み、
彼の影を長く伸ばした。
ローナは彼の背を見つめたまま、
小さくつぶやいた。
「……あの人が、最後に知らされるなんて」
——————
イノは玄関の前に立ち、小さくため息をついた。
扉を半分開けたところで、
中からエリーナの声がした。
「帰ったの?」
彼は手を止めた。
「イノ?」
仕方なく扉を押し開け、笑顔を作って中に入った。
「母さん、ただいま」
エリーナが厨房から顔を覗かせ、
一目でイノの顔の傷を見つけた。
その表情が一瞬止まる。
「どうしたの?」
「え? これ……木から落ちただけだよ」
エリーナは歩み出てきて、
口元にからかうような笑みを浮かべた。
「あなたが落ちるの?
いつも安定してるって自慢してたくせに。
ほら言わんこっちゃない。いつかはこうなると思ってたわよ」
彼女は手を伸ばし、
指の腹でイノの顔の傷にそっと触れた。
イノはふと彼女を見る。
エリーナの右頬の火傷の痕は前髪でほとんど隠れていたが、
彼にはそれがどこにあるかよく分かっていた。
じんとした痛みが走る。
でもエリーナの指先は冷たく、やわらかかった。
「今日ね、ハーンおじさんが猪の肉を持ってきてくれたから、
早めに戻ってきたの。びっくりした?」
「なんか隠してることない?」
「落ちただけだって。なんもないよ」
イノはぶっきらぼうに言い、
エリーナを横目で見た。
エリーナは手巾で手を拭きながら、
細めた目でじっと見てくる。
重くない眼差しなのに、どこにも逃げ場がない。
イノはそっぽを向いた。
ちょうどそのとき、
厨房の方から焦げた匂いがした。
エリーナが小さく「あっ」と声を上げ、
慌てて鍋のそばへ走って戻る。
(今の生活は、悪くない。)
イノは厨房の入口に立ち、
忙しく動くエリーナの背中を眺めていた。
彼は玄関口へ退き、
壁に立てかけた木の棒を手に取った。
構えるものの、動きはぎこちなく、
足運びが安定しない。
振り抜いたとき、
腰の脇に鈍い痛みが突き上げ、
棒の弧がわずかに歪んだ。
(でも、一言で、これをすべて奪える人間がいる。)
もう一度。
また一度。
——————
エリーナは入口からイノを見ていた。
一振りするたびに、
右手が腰の方へわずかにずれていく。
「イノ・ストヴォーク!!!」
イノが反応するより早く、
エリーナが木の棒をひったくった。
「お父さんが何て言ったか、忘れたの!!」
言葉が終わるより前に、
彼女は木の棒を力いっぱい投げた。
棒は空気を切り、
遠くの地面へ転がっていった。
イノはその場に立ち尽くした。
「毎回……」
指を握る。
イノは顔を上げ、
声が突然高くなった。
「一生あんたの後ろに隠れて、役立たずでいろってこと?!」
エリーナの目が冷たくなった。
「もう一度言ってみなさい?」
「あんたに俺の何が分かるんだよ!」
「素直にしてりゃいい、
あんたの安穏の中に縮こまってりゃいいって思ってる!」
彼は歯を噛み締め、地面を指差した。
「でも、そんなのちっとも安全じゃない!
誰も俺たちを守ってくれない!」
エリーナはすぐに返事をしなかった。
目を閉じた。
頭の中に、昔の声が浮かび上がる。
『お母さん、この鎧を着たら、騎士みたいに見える?』
『もう、必ず帰ってくるから、泣かないでよ。お姉ちゃんまで泣いてどうするの……』
今は、冷たい紙だけが残っている。
「私があなたを傷つけてるって思うの?」
エリーナの声はしゃがれ、震えていた。
「生き残ることが、恥だとでも思ってるの?」
「そういう意味じゃない……」
イノは言葉に詰まった。
「でも、やらせてもくれないじゃないか」
エリーナの指の節がわずかに固まる。
風の中で、彼女はイノの顔を見た。
ゆっくりと一歩前へ出る。
その表情は真剣だった。
「自分が振り回したいものが何か、分かってるの?」
呼吸が少し乱れていた。
「あんたに戦争の何が分かるって言うの!」
「この顔がどうしてこうなったか、知ってる?!」
「死体の山の中で目を覚ますのがどういう感じか――」
エリーナは言いかけて、止まった。
手が頬の火傷の痕へと向かっていた。
イノは口を開きかけ、
その目が少し揺れた。
「……俺はもう子供じゃない」
エリーナは長い沈黙の後、
踵を返して屋内へ戻っていった。
——————
彼は扉を押し開け、風の中をあてもなく歩いた。
畦道を抜け、
半年ほど枯れたままの古い井戸を回り込む。
頭の中にはエリーナの言葉と、
彼女が傷跡に触れた手の動きだけが繰り返されていた。
やがて、見慣れた墓石が目の前に現れた。
イノは足を止めた。
「……なんで」
指先が墓石の刻み字に触れる――
エロン・ストヴォーク。
『ずっとそばにいるよ。見えなくても。』
その言葉が記憶の底から浮かんだ。
ろうそくの火が消えた瞬間のこと。
エリーナの笑顔。
夜に頭の上に落ちてきた手のひら。
(今の生活を守りたいだけだ。
何も変わらなくていい。)
風が静かに墓地を抜けていき、
草の葉がさらさらと鳴った。
木の影が揺れる。
揺れる方向は、風と逆だった。




