第23話 贈り物
ロワク城 小さな町 夜
帰り道、イノの指が時折指の骨を軽く叩いた。指輪が皮膚の縁にひっそりと寄り添っている。
口の端に、かすかな弧が浮かんでいた。
痛いか? もちろん痛い。
体がばらばらになりそうだ。
でも——本物の刀が、自分のものになった。
見慣れた街角を曲がったとき、草叢の中にかすかな動きを目の端が捉えた。
イノは数歩通り過ぎ、振り返った。
草がわずかに揺れている。
枝葉を掻き分けると、一抹の赤が見えた。
骨と皮だけになりかけた赤毛の少女が、そこに丸まっていた。
乱れた髪が頬に貼りつき、ぼろぼろの奴隷服は腕に散らばる細い傷を隠しきれていない。
「……こんなところで寝てるのか」
イノが小声で言った。
少女が跳ね起きた。
金色の瞳が夜の中で一瞬光った。両手を地面に突き、目が鋭い。
その一瞥で、イノの足が止まった。
近づかなかった。ただ立っていた。
少女は数秒、イノを警戒した。動かないのを見て、わずかに後ずさった。
次の瞬間、腹が小さく鳴った。
イノがゆっくりと手を背中に回し、指輪からパンをひとつ取り出した。
「ほら、腹減ってるだろ」
金色の目が一瞬も逸れない。
喉がわずかに動いた。だが手は伸びなかった。
イノが水筒も出した。
「水もある……」
その瞬間、一瞬でパンを奪い取った。
むさぼるように噛みつき、指の間でパンが砕けそうになっている。
イノはその食べ方を見て、水筒を差し出した。少女が目を上げ、一瞬迷い、奪うようにつかみ、仰いで飲んだ。
「名前は?」
イノが訊いた。
少女は答えなかった。
最後のひと口を飲み込み、水筒を見下ろした。
次の瞬間、水筒を握りしめたまま、夜の中に消えた。
イノは追わなかった。
あの赤が、闇に少しずつ溶けていくのを見ていた。
それから踵を返し、家へ向かった。
遠くの草叢の奥で、金色の目がもう一度、光った。
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夜がさらに深まり、家々の炉火が窓の隙間から温かい影を揺らしていた。
扉が軽く鳴り、イノが入ってきた。まっすぐ食卓の椅子に座った。
エリーナはもう料理を並べ終えていた。碗に野菜の肉煮込み。湯気が立ち上り、パンの端が焦げ色に焼けている。
振り返り、イノを見た。
汗だくで傷だらけの顔を覚悟していたのに、額の髪はさっぱりして、口元には眩しいほどの笑み。目の奥にはまだ収まりきらない高揚が潜んでいる。
だがエリーナの視線は、イノの衣の肩口に乾いた血の痕を見つけ、そこから長く離れなかった。
門がもう一度鳴った。
セレイナが敷居をまたぎ、指先で肩の外套を払い、腕に畳んだ。
「セレイナ先生、お疲れさまです」
エリーナが穏やかに声をかけた。
セレイナが微笑んで頷いた。
「お姉さんもお疲れさま」
椅子に腰を下ろした。
「イノ、初日はどうだった?」
エリーナが何気なく訊いた。
「先生にご迷惑かけてない?」
イノはパンをちぎるのに忙しく、気持ちはとっくにここにない。
「うん、いい感じ。全部いい感じ」
「今日は何を習ったの?」
「言ってもわかんないよ」
イノが口をもごもごさせた。
「聞かせてよ」
エリーナの声がもう少し軽くなった。
セレイナがゆっくりと杯を置いた。
「お姉さん、ご安心を。小さな傷は聖光術で処置しましたから」
エリーナが一瞬止まった。
(教会の信仰魔法……?)
静かに頷いた。
「ご迷惑でなければ……それだけで」
食卓は不思議なほど穏やかだった。碗と箸が触れ合う音だけが時折響く。セレイナは極めてゆっくり食べ、エリーナは静かに口を運び、イノだけが嵐のように皿を空にした。
食後、イノはほとんど飛び上がるように立った。
「ごちそうさま。先に部屋で休む」
エリーナがその背中を見送った。表情に波はないが、目の奥で一瞬、光が揺れた。
セレイナが自分の食器を静かに寄せた。動作は安定して、ほとんど音がない。
「セレイナ先生、そんなことなさらなくて。どうぞお休みになって」
「構いません」
セレイナが小さく答えた。
「ごちそうさまでした」
エリーナが食卓の端をじっと見つめていた。
しばらくの沈黙。
目を戻した。
「イノは、意地っ張りな子なんです」
「何も話してくれないのは、わかっています」
セレイナが少し意外そうに、間を置いてから口を開いた。
「イノは賢い生徒です。お姉さん、約束します——」
「あの子は、大丈夫ですから」
炉火がかすかに揺れ、二人の横顔を照らした。
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ロワク城砦 ヴィセス邸 リオンの部屋
リオンが書卓の前に座り、指の節で木の面を一定の間隔で叩いていた。
傍らの下男が頭を下げている。
「若様、あの者は朝方、猟師の小屋に入った後、突然消えました」
「消えた?」
リオンが目を上げた。声は淡い。
「それも見失うのか」
「面目ございません」
下男が唾を呑んだ。
「入り口をずっと見張っておりました。出てきたのは確認しておりません。まるで……突然いなくなったかのように……」
「消えた?」
リオンが鼻を鳴らした。
指の節が止まり、羽根筆に持ち替え、卓の上でゆっくり回し始めた。
「あいつに翼でも生えたか?」
下男が声を出せない。
リオンがしばらく見つめた。
「尾行に気づかれたんだ。この間抜け」
燭火が風に揺れ、リオンの影が明滅した。
卓の上に信が一通。封蝋がまだ乾いていない。
リオンは長いこと見つめた。
ふと、冷笑が漏れた。
「何も起こせるはずがないとわかっていても」
「自分の知らない場所にあいつがいて、まだ口がついてると思うだけで——」
手を伸ばし、信と金貨三枚を下男に渡した。
「ユージンに。伝えたとおりにやれ」
視線が一瞬移り、淡く付け加えた。
「人に見られるな」
下男が両手で受け取り、何度も頭を下げた。
扉が閉まった。
部屋に、燭火の音だけが残った。
リオンが椅子の背にもたれ、長く息を吐いた。
そのとき、扉がそっと叩かれた。
リオンが眉をひそめた。
「今度は何だ?」
戸の隙間が開き、蝋燭の光が廊下にこぼれた。
イレーナ・ヴィセスが入ってきた。
「イレ——?」
リオンが一瞬固まり、慌てて立ち上がった。
イレーナが自分の部屋に来たことなど、一度もない。
「姉上。夜分に、どのようなご用件で?」
リオンが声を作って落ち着いた口調にした。
「たまには弟を気にかけたっていいでしょう?」
「ほう?
この何年、僕にいくつ言葉をかけた? 今になって思い出したのか?」
イレーナがゆっくりと卓まで歩き、指先が羽根筆を掠めた。
「ただ訊きたかっただけ。ロワクの小さな英雄が——最近どうしてこんなに神経を尖らせているのか」
リオンの眉が動いた。顔色がわずかに変わった。
「学院のことだ」
「そう?」
イレーナがかすかに笑った。
「あの場から這うように逃げ出したのは誰だったかしら。学院から叩き出されたのは、また誰だったかしら?」
燭火が揺れた。彼女の銅色の髪に柔らかな光が乗り、その光が卓にも落ちた。
リオンの指先の、ほとんど見えない震えも、照らしていた。
「どこまで知っている?」
「安心して」
イレーナの声は、子供をあやすようだった。
「父上にも、兄上にも言わない。あなたは一応、私の弟だもの」
リオンが彼女を見つめた。喉が鳴った。
「何が欲しい?」
「私?」
イレーナが首を傾げて笑った。
「何もいらないわ。ただ覚えておいてほしいの——この沈黙は、私からの贈り物だって」
背を向け、軽い足取りで歩き出した。
リオンが思わず声を出した。
「お前——どこまで知って——」
イレーナは振り返らなかった。
「さあ、どこまでかしら」
扉が閉まった。空気が再び凝った。
リオンはその場に立ち、呼吸が荒くなっていた。
(イノを——始末しなければ。)
その考えが一瞬燃え、理性が即座に打ち消した。
目を閉じ、首を振った。
「もう少し……待て」




